第90話 まどろみの中で(1)
***
その日の夜。
俺は夢を見た。
――あれは、昔の記憶。
***
あの日は、不気味なほどに静かな夜だった。
奴隷としてとある貴族の家に買われた幼い俺は、使用人の男に連れられて、主人である男の部屋に通された。
「ご苦労。もう下がって良いぞ」
丸々と肥えた主人の男が偉そうにそう言うと、俺をここまで連れてきた使用人の男は、丁寧に頭を下げて部屋を後にした。
俺は何をしていいのかもわからずに、キョロキョロと周りを見回す。
ゴテゴテとした金色の額縁に飾られた大きな絵。
埃ひとつなく、使われた形跡すらない立派な甲冑。
分厚い本がたくさん詰まった書棚。
綺麗に磨かれた机。
ふかふかと座り心地の良さそうな椅子。
――そして、カーテンのついた豪華なベッド。
そのベッドに腰掛けている主人の男は、俺を見てニヤニヤと笑っていた。
「愛いのう、愛いのう!
やはり我の目は間違ってなかった。
まるで少女のように儚げな美しさを持つ少年ではないか。
ほら、近う寄れ」
何をされるのかと怯えながらも、その言葉に従い、主人の男の側に歩み寄る。
すると男は俺の髪に手を伸ばした。
思わず、体をビクッと震わせる。
「綺麗な黒い髪だ――遠方からはるばる取り寄せた甲斐があったわ」
俺の髪をゆっくりと撫でる男。
それに対して、俺はひたすら体を硬らせていた。
「これから何をするか、わかるか?
……わからぬだろうな。
よいよい。安心しろ。
お前は我の言う通りにしてくれれば良いのだ……」
男は俺に言い聞かせるように囁き、俺の服に手をかけた。
次第に荒くなっていく男の鼻息が、俺の頬を掠める。
なんとなく。
これから自分がどんな目に合うのか、わかった気がした。
多分、嫌なことだ。
願わくば、この夜の時間がすぐに過ぎ去りますように。
俺は固く目を瞑った。
――その直後。
ドゴォォォォンッ!!
物凄い轟音。同時に地面が激しく揺れた。
主人の男は「何事だ!?」と声を荒げてベッドから腰を上げると、窓に歩み寄りカーテンを開ける。
――窓の外は地獄だった。
一面が火の海。
村の人々の阿鼻叫喚が聞こえる。
そして、魔物達のけたたましい雄叫びも木霊していた。
「――な!?
誰か! 誰かおらぬかッ!?」
主人の男は窓から離れると、俺を突き飛ばして、部屋の扉に向かって駆けていく。
しかし――
バキバキバキィ……ッ!
男が開けようとした扉が、上から押しつぶされるように砕けた。
「ひ!? ひいいいいいい!?」
甲高い悲鳴を上げる主人の男。
しかしその悲鳴も仕方のない事だった。
砕かれた扉から先――この屋敷の半分が、綺麗に潰されてしまったのだから。
そして、事態を起こした元凶である巨大な魔物――ワイバーンがこちらを覗き込むように立っていたのだから。
この屋敷は二階建て。
そして今俺たちがいる部屋は二階にある。
なのに、目の前のワイバーンはむしろ、首を少し下げてこちらを覗き込んでいる。
その巨躯を前に、俺らができる事など何ひとつない。
ワイバーンはゆっくりと鼻先を主人の男の前に近づけてゆく。
「ひ、ひ、ひっ!」
主人の男は尻餅をつき、声にならない悲鳴を上げ続けている。
しかし、ワイバーンはそんな彼に慈悲を与える事もなく。
グワっと大きく口を開いた。
かと思えば次の瞬間、くいっと少しだけ首を突き出しながら勢いよく口を閉じ、再び首を引っ込めた。
それは一瞬の出来事。
主人の男は一瞬で上半身を食いちぎられ、絶命した。
少し遅れて、残された下半身から噴き出る大量の血液。
圧倒的な力を前にして、俺は恐怖で全身をガタガタと震わせた。
自然と体が震える。
一方で、自分の意思では全く体が動かせないのだ。
逃げる事はおろか、指一本ですら動かせない。
――恐怖という感情はおそらく、生存本能から成るものだと思う。
つまりこの時の俺は、生きたいと願っていたのだろう。
しかしその反面で、おそらくここで死ぬのだろうということも悟っていた。
だからこそ、今しがた目の前で絶命した主人の男を羨ましく思った。
――どうか俺も、彼のように。
痛みを感じる暇もないまま、一瞬であの世へお送りください。
俺は再び目を閉じ、じっとその時を待った。
……しかし、その時が訪れることはなかった。
その代わり、俺の耳に届いたのは凄まじい雷鳴の音。
直後、目の前のワイバーンの断末魔の叫び。
そして、穏やかな女性の声。
「……おやおや、今日のトカゲ鍋は何人前作れるだろうねぇ」
――ああ、そういえば。
俺、あの時ドラゴン食ってるんじゃん。鍋で。
これが、俺が初めてマザーに出会った時の記憶。
そしておそらく、俺が大型の幻獣種を恐れるようになったきっかけ……。
***
――俺はその日の事を、しっかりと思い出せずにいた。
多分、極限の恐怖を感じていた当時の俺にとっては、負担が大きすぎる、思い出さない方が良い記憶だったのだろう。
自己防衛本能的なやつ。
それが今になって、夢として鮮明に蘇ってきたのだから、記憶というのは不思議なものだ。
あれほど思い出さなかった記憶も、俺の脳の奥深くにはしっかりと刻まれていたんだな。
……さて。
ベッドの上で、俺はゆっくりと上半身を起こす。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
まだ薄暗い部屋を微かに照らすその優しい光は、今日という一日の始まりを知らせてくれる。
「……よし!」
強くなる。
そのために、今日も学園に向かう。
一歩ずつ、進んでいくしかない。
以上で第五章が終了となります。
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