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私の絶対女王

 デビューこそ三着だったけれど、秋華賞までの私の道のりはそう厳しいものではなかった。同世代の桜花賞馬とオークス馬が休んでいる間に連勝を重ね、前哨戦の紫苑ステークスではオークス馬を打ち破った。

 それなのに、秋華賞ではローズステークスを勝利した桜花賞馬に次ぐ二番人気。不満は不満だったけれど、人気なんてどうでもいい。勝つことこそが競走馬の真価なのだから。

 実際、秋華賞は文句なしの勝利だった。オークス馬も桜花賞馬も止まって見えたし、これなら初めて年上のお姉さまたちが相手になるエリザベス女王杯だっていただきだと信じていた。

 けれど、私は井の中の蛙だったのだ。それを本番で思い知らされた。


 一年前のあの日、この京都競馬場の舞台で、私は完敗という言葉の意味を知った。

 英国からはるばるやって来たサラマンドラも、そして、そのサラマンドラにハナ差迫った国内の絶対女王ゲフィオンも、私よりも遥か前を走っていてとても追いつけなかった。四着以下とは四馬身差の三着も立派だと褒められたけれど、私はちっとも嬉しくなかった。

 ゲフィオン、そしてサラマンドラ。二頭とも一歳上のベテランではあったけれど、あまりにも違い過ぎた。確かに二頭とも私よりも成績がいい。英国と愛国のオークスを制したサラマンドラは勝算があったからわざわざ遠い日本まで来たのだろう。そして、ゲフィオンは国内の二歳女王と牝馬三冠、昨年のヴィクトリアマイルと勝ち続け、国内の牝馬相手には無敗だった。

 ハイレベルな彼女たちの戦いにとてもついて行けなくて、若かった私は己の無力さを初めて知った。

 だが、そこで諦めてなるものか。マイマドレーヌは弱かった、この世代は弱かった、なんて思われるのは癪だった。だから、私は鍛えたし、何度も何度も挑戦を続けた。


 今年の春の最大目標だったヴィクトリアマイルでは、ゲフィオンの連覇を阻むべく限界まで走った。結果はやはり敗北だったものの、クビ差まではとらえることが出来た。この着差は大きいけれど、去年よりもだいぶ縮まった。ならば次にもぎ取るのは勝利のみ。クビ差がハナ差ではない、さらにその先へ飛び出して、ゲフィオンの牝馬G1完全制覇を阻まなくては。

 彼女の夢を最後に打ち砕くのは、サラマンドラではなくこの私だ。


 そうして迎えたエリザベス女王杯当日。

 長く国内の牝馬界を背負い続けたゲフィオンは一番人気だった。去年はサラマンドラに敗北しているけれど、皆、彼女の偉業を見届けたいのだろう。僅差の二番人気は今年も遠征に来たサラマンドラ。そして、三番人気を競うのは、昨年の秋華賞馬のこの私と、今年の三歳牝馬であるアイラブキティだった。

 どうして彼女が?

 レース直前になってアイラブキティの方が私よりも上になったと知ると、その不満はさらに大きくなった。

 本馬場入場の後も、私はもやもやしていた。


 たしかにアイラブキティは若く勢いがある。けれど、G1馬ではない。桜花賞では二着、オークスを蹴って挑んだNHKマイルカップでも二着、そして去年は私が勝った秋華賞では、桜花賞馬とオークス馬に離される形での三着だったというではないか。

 それでも人気が高いのは戦ってきた相手のせいでもある。

 アイラブキティが戦った桜花賞馬とオークス馬は、かなり人気の高い二頭なのだ。桜花賞馬は芦毛の逃げ馬シラユリリー。秋華賞馬は青毛の追い込み馬ルビーリリウム。

 シラユリリーは日本ダービーに出走し、二冠馬を相手にハナ差迫る二着とクラシックを盛り上げた。ルビーリリウムはシラユリリー不在のオークスを圧勝した後、そのまま無敗でローズステークスを勝ち、秋華賞ではシラユリリーと接戦の果てに勝利した。

 彼女たちはここにはいない。若いその力を信じた陣営は、彼女たちをエリザベス女王杯ではなくジャパンカップへと挑ませたのだ。

 そして、彼女たちにもっとも迫った三歳馬がアイラブキティだったのだ。


 なるほど、と、私は静かに心を落ち着けた。

 人間たちは疑っている。私の実力を信じていない。

 秋華賞を勝って以来、パッとしない私よりも、新しい勢力の可能性を選んだ。ヴィクトリアマイルではハナ差だったとはいえ二着。あの二着よりもアイラブキティの惜敗の方が評価されているのだ。

 なるほど、それなら尚更面白い。

 漲る闘志を鼻息で抑え、私はターフを駆けた。

 疑われているのならばそれでもいい。良い意味で裏切るだけ。私の単勝を買わなかったことを後悔させてやるだけだ。


 ファンファーレが鳴り、ゲート入りが進む。高まる緊張と共に、レースは始まった。ぽんと飛び出すのは逃げ馬のココアフラペチーノ。それを追って走るのは、私から人気を奪ったアイラブキティとこの私。

 ゲフィオンは中団で、そのやや後ろにいるのは英国からの刺客サラマンドラのようだ。ひとしきり確認すると、私はただ前を向いた。視界にちらちら入ってくるのはアイラブキティの姿。彼女にだけは負けたくない。去年の私が味わったように、古馬の世界を味わわせてやらないと。


 舞台はクセのない京都芝2200mの外回りコース。前半の1200mの流れが勝敗を大きく決める。そこから3コーナーの頂点を登った後、3~4コーナーの下り坂と直線でいかに速いタイムを出せるかにかかっている。

 警戒すべきゲフィオンはまだ中団にいる。いつもの通りだ。中団からやや後ろより差し切るのが彼女の走り。この舞台ではやや不利かもしれないが、そうであっても直線では国内牝馬の誰よりも前を走るのだから恐ろしい。サラマンドラも同じだ。この二人の末脚勝負となるだろうとレースを見守る誰もが思っているだろう。


 だが、何度でも言おう。勝つのは私だ。

 先団に取りつき、パートナーの合図に集中しながら坂を駆けあがる。私の隣では同じようにアイラブキティが走っていた。初めての古馬戦となる彼女がどれだけやれる馬なのかは知らない。若い力は未知数だ。けれど、絶対に教えてやろう。去年、私がゲフィオンたちに教えられたように。

 坂を登り切ると、いよいよ下り坂となる。その先に待っているのが栄光への道。最後の直線だ。

 パートナーの合図より先に後ろから覇気を感じた。馬群がうねり、レースが動き出す。間違いない。ゲフィオンとサラマンドラだ。あの二頭ふたりが動き出したのだ。


 今度こそ、本当の女王に。


 気持ち高ぶった丁度その時、パートナーの合図が入った。全身全霊で走り、少し前に出ていたアイラブキティを抜き去って、ゴール板を目指す。

 疲れて垂れる逃げ馬ココアフラペチーノを避け、私は前へと抜け出した。誰よりも先に、一番に、あの先へと行かないと。あの二頭はまだこない。あの二頭はまだ後ろだ。今の私が相手をするべきは、己の限界だけ。


 負けない。絶対に。

 去年の秋華賞を制したあの時のように、いや、あの時以上に私は走った。絶対女王を倒すのはこの私だと想いを滾らせながら走り続けた。


 だが、残り200mかというところで、彼女らは迫ってきた。ものすごい末脚は五歳という年齢になっても変わらない。抜かされない。抜かされたくない。必死の思いで前へ前へと飛び続けた。それでも、女王は偉大だった。

 ゲフィオン。それに、サラマンドラ。

 あと少しで栄光を掴むはずだった私をあざ笑うかのように一瞬で抜き去った。これで終わりだ。ゲフィオンの偉業達成か、あるいは海を越えてきたサラマンドラの二連覇か。きっとこのレースを見ている人達の大半は、そのいずれかを求めていただろう。

 けれど、恨まれたっていい。憎まれたっていい。二人を阻む者になれるのならば。

 私の足はきっと限界だった。それでも不思議なくらいに気持ちは軽く、身体も軽かった。ゲフィオンとサラマンドラの二頭を差し返し、さらに前へと飛び込んでいく。この一瞬が、このラストが、あまりにも長く感じた。


 これで、最後だ。

 けれど、勝利を確信したその矢先、私の外から誰かがすっと抜け出してきた。ゲフィオンか、それともサラマンドラか。寸前で私から優勝レイをかすめ取っていったその馬の背を、私はただただ見つめた。

 アイラブキティだった。

 遥か後ろで競り合い、置いてきぼりにしたはずの彼女が、五歳馬たちに釣られてあがっていったところを、私は見ていなかった。

 それでも、勝ったのはアイラブキティ。ゲフィオンでもサラマンドラでもなく、初古馬の若い牝馬がついに戴冠した。その現実を、私はしばらく受け止められなかった。


 ──そんな。


 それは負けて悔しいという気持ちとは全く違うものだった。

 脱力、そして、空虚。レースが終わり、敗者たちはターフを去っていく。その中にゲフィオンとサラマンドラの二頭がいる。その背中を、私はただ眺めていた。


 ──そんなことって。


 茫然としながらとぼとぼと歩いていると、ふとゲフィオンが振り返ってきた。

 彼女は何も言わない。ただ私を見つめ、そしてウイニングランに入ろうとするアイラブキティの姿を見つめていた。いや、見ているのはそれだけじゃないだろう。舞台となった京都競馬場自体を眺めていた。

 彼女──ゲフィオンはこれで最後のレースだった。ここで引退し、来年には母になるべく準備を始める。

 その顔はどこか切なげだったが、同時に爽やかさも宿っていた。交わす言葉はない。それでも、遠くからそんな絶対女王の姿を目にして、私は少しだけショックから立ち直った。


 そうだ。私にはまだ少なくとも一年はある。

 ゲフィオンにもサラマンドラにも先着したこの足で、今度こそアイラブキティに分からせてやることだって出来るはずだ。

 初めての古馬戦で勝ってしまった彼女はきっと知らないままだろう。ゲフィオンがどれだけ凄かったのか、それを阻むサラマンドラがどんなに凄かったのか。


 だから、次は私が彼女に勝つことで教えてやりたい。

 ゲフィオンの、私の絶対女王の、その強さを。

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