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Battery's Hop

作者: 落人

 


 『0(ゼロ)』は縦二段横七列に行儀よく並んでいる。上の段八列目にも『0』、その下のかすれて黄色がかった白い『1』をマウンドから野球帽の子供が不貞腐れたように睨んでいた。

 そんな目で見たって『1』が『0』になるわけないのに、じりじりとした夏の日差しを一身に受けて立つスコアボードが気の毒になるくらい、光線銃のような視線で八回の裏の『1』を見上げている。

 光線銃の照準が九回の表に移る。『2』。安堵と悔しさと負けん気が野球帽から覗く瞳の中で核融合を起こす。想像上のレーザーパルスが哀れなスコアボードを貫き雲一つない青空の向こうで銀色のUFOを撃墜した。

 「(ゆう)!」

 振り返ると、目の前には額の上にキャッチャーマスクを乗せた少年。「やれやれ、まだゴキゲンは鋭角を描いちゃってます?」とでも言いたげな半笑いを浮かべて立っている。

 「集中! 集中! あと二人なんだからさ!」

 おねがいしますよー。と間延びした声で諭され、鬼頭(きとう)(ゆう)はますますむすっとして言い返す。

 「そんなわかりきったこと、今更言わないでよね。()()はいっつもそうだよ。今朝だってさ、『今日は天気がいいねー試合日和だねー』とか、『あと一時間で決勝だよ。勝ったら優勝だよ、ジュブナイルリーグの頂点に立っちゃうよ』とか言ってさ。当たり前のことしか言わないんだから。あぁ、うざいうざい。知ってるから! いちいち教えてくれなくてもわかるから!」

 一息に言い切った。そして見計らったように伊勢(いせ)()()()はキャッチャーミットで友の肩をはたく。

 「よーしよしよし。OK。すっきりした? リラックス? 大丈夫っぽいね。よっしゃ、んじゃ、いっちょぶちかましてやろうよ」

 タイム終わりでーす。と暢気な声を上げてホームベースに駆けていく始歩の背中を怖い目で見ながらも、ついさっきまで静電気のようにまとわりついていた苛々が音もなく消えていることに友は気づいた。

 またもや、相方に上手いことガス抜きされたのだ。扱い方を理解されている腹立たしさと恥ずかしさでどこかが少しこそばゆい。

 多少は癪だが、集中する。

 九回裏

 走者(ランナー)は一塁

 1アウト

 2-1

 八回裏の失点は、鬼頭友のプライドを傷つける一打だった。

 小学生の野球は、そのほとんどが乱打戦だ。打者全員がよほどのボーンヘッドでもない限り、一試合の中で一人の投手から一つの失点もないということはありえない。そうでないとすれば、その投手は、小学生にして一つのスタイルを確立しているということ。

 鬼頭友は、そんな稀有な投手であった。事実、全日本小学生野球の最高峰であるジュブナイルリーグ決勝で、相手の野球クラブ『(くら)野瀬(のせ)ヤンキース』は三人の投手で継投していた。そうでもしなければ、鬼頭友という一人の投手と渡り合うことはできなかったのだ。

 油断も慢心もなかった。それで尚、一打、客席に叩きつけられた。相手の四番である。

 鬼頭友か点を奪える打者は、これまでにたった一人だった。本田類(ほんだるい)。同じ『津々井(つつい)ベアーズ』のチームメイト。四番で好敵手(ライバル)。認めさせたい少年。そして、その類に九回表の窮地を救われたのだ。

 バントで走者が一人出たところからの本塁打(ホームラン)

 品のない言い方をすれば、ケツを拭かれたということ。

 失点の屈辱と、窮地から逃れた安心と、助けられた自分の不甲斐なさが鬼頭友のピッチングを乱した。

 その結果が、九回裏のフォアボールと際どいラインへのフライ。

 鬼頭友は自嘲し、そして刮目した。

 伊勢湯始歩の指がキャッチャーミットの下でサインを象る。

 鬼頭友は左足を翻し、右腕を大きく振りかぶる。本格派右投げ速球主体ピッチャーとしてのあまりにも早熟に完成された一球を放つ。

 推進機構でも搭載されているのではないかと疑う速度で、スティンガーミサイルのごとく飛翔する白球。倉野瀬ヤンキースのバッターは初弾狙いだったのだろう。薙刀のように振るわれるバットを嘲笑って、鬼頭友の球は打者の手元で浮き上がり、伊勢湯始歩のキャッチャーミットの中心で快音が弾けた。

 

()()()、負けるの大っ嫌いなんだよね」


 少女は、野球帽を被り直す。当たり前のようにイガグリ頭ではないショートカットの前髪から汗が滴り落ちる。

 そんじょそこらの少女ではない。『男勝り』がユニフォームを着ていますといったどこか狂暴な面構えで、鬼頭友は不敵に笑ってみせた。

 小学六年生のとある夏のことである。


 

 「都会に出ないと、女子野球やれないから」

 小学校を卒業したと同時に、野球から足を洗った理由。

 「アンダースローできないから」

 一昨年卒業した中学でも、去年入ったこの津々井高校略して津々高(ツツコー)でも女子ソフト部に入らなかった理由。

 なら、ピッチャーでなくバッターとしてソフト部に入ってくれと勧誘される段になると、私は元からない愛想に負数をかけて吐き捨てることにしている。

 「ぶっちゃけ、野球嫌いなんですよ」

 かつて何よりも好きだったものを「嫌いだ」と切り捨てるのは、どこか不健康な(よろこ)びがある。鬼頭友という自分をかたちづくるいくつものピースのうち、決して少なくも小さくもない部分を外してしまうということ。リストカットにハマるほど女々しくはないが、自己否定が生む仄暗い快感が癖になることには共感できてしまう。

 ジグソーパズルから肝心な真ん中のパーツが抜け落ちているかのように、私は自分の全体像がぼんやりと掴めずにいる。

 要するに、高校二年の夏という青春のど真ん中で、私はすっかり落ちぶれていた。

 「友」

 まどろむ頭がじんわりと覚める。机の上に伏せた頭が腕から離れて浮き上がる。電灯の消えた教室には小学生の頃から変わらない殺人的な夏の日差しが直撃していて、私は眩しさに眉をひそめた。

 「寝てた?」

 わかりきったことを尋ねる癖はこいつも変わらないらしい。変わったことといえば、背と髪が伸びたこと。それと、バリカンで丸刈りにされていたころには気付かなかったまだらの若白髪ぐらいだろうか。向かいの席に逆向きに座る伊勢湯始歩の問を無視して尋ねる。

 「C3POは?」

 ドラム缶と友達の金色人体模型のことではない。数学の教諭で、私を補習という怒涛のプリント攻勢で監禁している冷血マシーンである。

 「帰った。プリント終わるまで帰すなってさ。はい、プリント」

 手渡されたプリントには、理解しがたい数字の羅列が几帳面な字で書かれていた。

 「終わったから帰ろうよ。C3POも、どうせ君は手もつけないことわかってるでしょ。形式だけだよ」

 「…恩に着ます」

 ははー。と頭の上で手を合わせる。

 教壇にプリントを叩きつけ、教室から這々の体で脱出する。わかりやすく青い空を横目で見ながら廊下を抜け、一階に降りてから、白い無地のTシャツにジーンズの始歩を見てはたと気づく。

 「あんた、なんで教室にいたわけ?」

 夏休みである。学校にいるやつは私のように補習を食らった落ちこぼれ組か、本田のような部活組に限られる。腹立たしいことに勉強のできる始歩は、私と同じく帰宅部だ。落ちこぼれ組でも部活組でもないその二組の和の補集合に属する始歩が教室にいた必然はないように思われた。

 それに、今日はピッチングの約束はしていない。

 「叔母さんが、友に会いたいって」

 下駄箱のロッカーが、想像の斜め上の音を立てて閉まる。

 「…叔母さん? あんたの叔母さんって、アレよね。例の」

 「例のアレだね。昔、一度会ったことあるでしょ? 憶えてる?」

 忘れるものか。潮の香り、()岐女(キジョ)のセーラー服、クラウチングスタート。そして彼女は消えたのだ。

 金属探知機片手に地雷原を渡るかのような慎重さで、始歩は言葉を選ぶ。

 「昨日、六年ぶりに帰ってきてさ。家族総出で宴会してた。『積もる話もたくさんあるでしょ? そっちは。わたしは何もないけど。お父さんもお母さんも老けたねー。おねえちゃんは…うん、ノーコメント。ごめんねー、わたしだけぴちぴちの18歳で。あー始歩くん!? 大きくなったねぇ。高校生? 二年? じゃあ、わたしの一個下だねー』って」

 身内のものまねを披露する始歩。始歩ん家のおじさんおばさんおじーさんおばーさんなら兎も角、ほとんど話したこともない叔母さんの真似など似てる似てないすらわからない。話の先を促す。「で?」

 「で、大人たちが酒飲んで騒いでる時にお姉さんから…や、叔母さんなんだけどさ。アレをおばさん呼ばわりできないって。で、お姉さんから学校のこととか、勉強のこととか、根掘り葉掘り聞かれて。…友の話もしたわけ」

 駐輪場でチャリに跨りながら、じろりと始歩を睨む。

 「いや、大丈夫だって。余計なことは言ってない。ただほら、友には前からお姉さんの話してたから、友のことをお姉さんに秘密にするのはフェアじゃないでしょ?」

 慌てふためき弁解する始歩を尻目に、ペダルを漕ぐ。同じくチャリで後続する始歩から言葉が続く。

 「そしたら、すごい食いついてきて。友も“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”だって知って、すごく会いたがっ――」

 白球を打ち上げる快音が響いた。

 思わずチャリを止める。グラウンドには炎天下の地獄の千本ノックで、やけくそ気味に叫び続ける野球部ども。あだちみつるの漫画にいそうなマネージャーが「ファイトー!」と蛍光色の声をあげた。

 一人の男子生徒を探していた。

 まだ、私のほうが背が大きかったころ、たった一人私を負かし、必死になって追いかけ、同じチームのエースと四番として戦った仲間だった彼。

 本田類はすぐに見つけられた。

 中学に入ってからは杉の木のようにぐんぐんと背が伸び、体つきも大人のそれになっていった。野球部の中でも一際背が高く、子供の頃から陽に焼かれ続けた褐色じみた肌の本田は、でも昔と変わらずふざけてばっかりだ。私が野球をやめたときは喧嘩もしたけれど、今からでもソフトやれってうるさいけど、太陽みたいに明るい本田は、みんなのヒーローだ。いつもしょうもない話で馬鹿笑いしてばっかりの癖に、野球をやってる時の本田は全然違う。修業中の僧侶みたいに禁欲的で、サバンナの肉食獣みたいに獰猛だ。昔から、誰よりも多くバットを振り、最後の最後まで走り込み、練習には手を抜かなかった。だからこそ、甲子園の常連校である津々高の野球部でも、昔と変わらぬ四番を背負っていられるのだ。

 私とは大違いだな。

 羨望と懐古で押しつぶされそうだ。

 「いいよ」

 頭の内側から逃げるように言った。始歩は、何故だか後ろで不貞腐れたように私を見ている。

 「会ってみる。あんたの叔母さんに」

 終わったら、ピッチング付き合ってよ。という私の言葉に始歩の返事はない。

 右手が、熱く冷たく傷んだ。


 

 「ットラーイク! ッッターアウトッ!」

 『ス』と『バ』くらいちゃんと言え。格好良いとでも思っているのか。

 自分の言い回しにそこはかとなく酔った主審の声が、鬼頭友には気に入らなかった。

 スタンドから調子外れの馬鹿でかい「バンザーイ!」が轟く。

 声に聞き覚えがあり振り返ると、伊勢湯始歩の祖父が、降伏した日本兵のように両手を挙げて突っ立っている。「お父さん! まだ終わってないわよ!」と恥ずかしげな始歩の母に諭され、老人はいかにも渋々といった様子で席に戻った。始歩に目をやると、キャッチャーマスク越しでもわかるくらい赤面していて、友は声を抑えて笑った。

 2アウト。あと一人だ。

 2-1で、一塁に走者(ランナー)がいる。

 「サヨナラ逆転だってあるからね! 集中集中!」

 とまたしても伊勢湯始歩がわかりきったことを叫んだ。

 そして、予想通りの展開になってきた。

 「代打」

 相手チーム、倉野瀬ヤンキースの監督だ。

 バッターボックスに入るは、不倶戴天の敵。

 四番だ。

 先の八回裏で鬼頭友の球をそのプライドごとレフトスタンドに叩き込んだにっくき右打ち打者。

 伊勢湯始歩がまっすぐ見つめていた。その双眸が「借りを返してやろう。でっかい釣り付きでね」と告げている。

 戦略の視点から見れば、四番を歩かせるのは一つの手ではある。だが鬼頭友の性格を考えれば、伊勢湯始歩が敬遠の『ケ』の字でも口にすれば、地雷畑でドカンだ。始歩はマウンドの露と消えるところだろうし、そもそも始歩は友を信じきっていた。

 鬼頭友に負けはなし。

 そして最強の投手のパートナーには伊勢湯始歩以外ありえない。

 自負であった。

 スコアボードに蝉が一匹止まって鳴いている。

 伊勢湯始歩のサインに鬼頭友が首を縦に振る。

 友が始歩の指示を拒むことはほとんどない。水道とトイレ以外には地面に半分めり込んだタイヤしかないような、だだっ広い空き地で草野球をしていたころからのコンビだ。始歩が、自分以上に自分を知っている捕手であることを友は知っていたからである。

 友が白球を放つ。

 一瞬で打者までの距離を詰め、バットを持つ手元からさほど遠くない空間で、キャッチャーミットに迎えられる。

 四番は微動だにしない。

 ボール。

 鬼頭友に返球しながら、誘い玉が見透かされていたと伊勢湯始歩は確信する。友の球の軌道を確実に追っているのだ。舌を巻いた。それほどの打者はチームメイトの本田類だけだと思っていた。

 この四番は、強い。

 舐めていたわけではない。八回裏での失点も、丁寧にコースを突いた上での決め球(マニーピッチ)を攫われたのだ。それまでの三回の登板では、鬼頭友の球に掠りもしなかった。しかし、それでも目を慣らし、照準を合わせていたのだろう。

 ジャジャ馬だな。と友を評した大仏の言葉が始歩の脳裏に過ぎった。

 

 大仏とは、伊勢湯始歩たちが所属する津々井ベアーズの監督で、額の黒子とコントの赤鬼のようなパーマを一目見て、鬼頭友が命名した即席のあだ名である。

 どこで売っているのか見当もつかないど派手なアロハシャツとどでかいサングラスをしていて一見ヤクザの親玉にしか見えない。

 けれど、人は見かけによらないのはホントで、初対面で『大仏』と呼ぶ生意気JSの無礼を、がははと豪気に笑って済ます好人物である。

 自分たちをこのチームに入れろ。と殴り込みに来た鬼頭友と首根を掴まれて引きずられてきた伊勢湯始歩のコンビにピッチングをさせて大仏は言った。

 『ジャジャ馬だな』

 鬼頭友が、聞くに耐えない悪態をつく。

 『褒めてんだよ、馬鹿野郎。あぁ、野郎じゃねえか。よし、お嬢ちゃん、よく聞けよ。確かに、小学生にしちゃ、怖ぇくらい速い球だ。大見得きって道場破りしに来ただけのことはある。制球(コントロール)は粗いが、これまで草野球しかしてない我流だろ? なら、これから鍛えりゃいい。今、いくつだ? お前ら。…十歳? 小四か。伸びるぜ、お前ら。それに、お嬢ちゃんの球は、いい感じに癖球だ。()()()してる』

 ホップ? と友が聞き、始歩はその通りと言わんばかりに頷いた。

 『お前のストレートだよ。気づいてねえのか? ちょうど打者の手元くらいで少し跳ねるんだ。…つーか、打者から見ると、跳ねるように見えるってことなんだけどな。どんな回転かけても投げたボールが上に上がることはねぇ。物理的に不可能だ。でも、たまにいるんだよ。お前みたいに「跳ねてくるっ!」って思わせちまうような球投げる奴が。エガワとか知らねーか? …そうかぁ、時代は変わったなぁ』

 オッサンがたまにする遠い目をしながら大仏は続ける。

 『その癖、武器になるぞ。変化球の一つでも覚えて、その速球ならそこらの小学生相手じゃ手ぇつけられない暴れ馬になる。坊主、手綱はお前が引いてくれよ。気ぃ強い女なんてウチのカミさんだけで俺は手に余ってる。チームの連中じゃ、女の扱いなんてわかんねぇだろうしな』

 それじゃあ。と気色ばむ二人に大仏はがははと笑う。

 『ケツの穴から赤玉出るまで扱いてやる。覚悟しとけよ』

 跳ねる(ホップ)ストレート。

 それが鬼頭友の投球の軸である。

 大仏に基礎から叩き込まれ精度と速度の両立を果たした癖球だ。一試合の間に対応できるのは本田類だけだった。


 ギアを上げる。

 伊勢湯始歩のサインに、鬼頭友は悪童じみた笑みを浮かべる。

 染み付いたルーティンをオートで動作する身体が再現する。歯を食いしばって、針の穴を通すような集中が指先で蠢く。

 発射される白の弾丸。

 四番のバットが迎撃に作動する。

 鬼頭友の跳ね球を分析し、通常のストレートの軌道との誤差を修正した、計算されたスウィング。

 だからこそ、想定外の手応えに四番は目を剥いた。

 拍子抜けするような弱い音を立てて弾けた白球は、勢いを削がれて主審の背後のフェンスにぶつかり、耳障りな音を立てた。

 ファウル。

 スコアボードで、一つ目のストライクカウントがグリーンに灯る。

 引っかかったね。

 伊勢湯始歩は、共犯者の笑みを浮かべる。

 相棒の癖球に対応されていることは先のボールで確かめていた。

 だからこそ、跳ね(ホップ)のない純粋ストレート。

 逆手にとってみせた。

 友を見やると、右の手のひらをみつめぐーぱーしている。

 大仏の指導で、跳ねるストレートとベーシックなストレートの使い分けは完全にモノにしている。とはいえ、元々は無意識の癖だったものだ。意図して変化させないのには神経を使うと以前漏らしていた。

 伊勢湯始歩は、左前に立つ四番の少年に注視する。

 平静を装ってはいるが、これまでの登板で鬼頭友の速球と跳ね(ホップ)に合わせてきたリズムは今の攻防で乱されたはず。とはいえ、この四番なら、立て直されるのは時間の問題。畳み込むなら、今だ。

 出し惜しみはしない。

 伊勢湯始歩のサインを、鬼頭友は予期していた。

 翻る左足。振りかぶる右腕。だがそのフォームはこれまでのダイナミックな躍動ではなく、どこかコンパクトで繊細だ。

 投げられた球は、遅い。

 速球主体である鬼頭友の球速としては目に見えて落ちたスピード。

 続けざまに想定の外。だがしかし、四番は即座に対応する。

 ぎりぎりと引き絞るように打者は構える。投手のはるか上空を越え、スタンドに白球を送り返すには十分すぎる力の発条を開放した。

 居合い斬りの如き一閃。

 高速回転する白球はその手前で


 ずるり


 と沈んだ。

 「ッットラァーイク!」

 フォークである。

 「――っ、クソッ!」

 四番の声を伊勢湯始歩は初めて聞いた。元々、口数は少ない方なのだろう。もしくは、野球をしている間だけ無口になるのかもしれない。そうだとしたら、スラッガーとしての実力といい、本田類に似通ったところがある。

 そんな四番の悔しさの滲む罵詈に、始歩は内心でほくそ笑んだ。

 これで、崩れた。

 フォーク。変化球の一つだ。バックスピンを抑えることで、回転する球が揚力を得るマグナス効果が減少される。これによって、ボールは()()。浮き上がったように見える『ホップ』とは対照的な変化球と言えるだろう。

 鬼頭友がこれを完成させたのは今年の春のこと。本田類を倒すためにこのチームに入り、時代錯誤のスパルタ式練習の末に、二年かけて会得した隠し玉。

 上方向の跳ねる(ホップ)ストレートに慣れたところでの、下方向への沈む球(フォークボール)

 とっておきのカードをここで切ったのは、相手の動揺を誘い、二人の土俵に引きずり込むため。そして、その目論見は完全に成功した。

 四番は冷静さを失っていて、鬼頭友と伊勢湯始歩は勝利を確信していた。

 九回裏

 2ストライク

 2アウト

 あと一つ

 あと一つの、ストライクだったのだ。

 


 「友が、やめるって言ったから」

 小学校の卒業といっしょに、野球から足を洗った理由。

 「友が、行きたがったから」

 歩いて二十分の津々西(ツツニシ)ではなく、チャリで一時間の津々高に入った理由。

 友が友がって、お前に自分の意思はないのか。女のケツを金魚のクソみたいにひっつきやがってガキじゃあるまいし。いつまで腰巾着やってるつもりだ?

 と問われたら、答えはしないが、ぼくはこう思うんだろう。

 「仕方ないだろ。好きなんだから」

 それが友達としての好きなのか、かつての仲間としての好きなのか、惚れた腫れたヤったデキちゃったの好きなのか。ぼくには分けられない。馬鹿話をしていたら楽しい。野球をやめてからも続けているピッチングでは、その才能に憧れる。ジュブナイルのチームに入ったのも今の高校を選んだのも友が本田を追っかけているからで、本田を見る友の目の意味をわかっているから苛々する。

 気持ちを遠心分離機にかけて、標本みたいに逐一整理するつもりはないのだ。

 どんな感情に由来するかは知らない。ただ、ぼくは友と一緒にいたいのだから。

 「はずれ。あんたは?」

 指定ジャージ上下の友。コンビニの前でうんこ座りしながら彼女は尋ねてくる。

 返事がわりに何も印字されていないべたべたの棒きれを見せた。口の中で懐かしく甘いソーダ味溶けずに残っている。

 「小学生の頃は、たまに当たってたんだけどなぁ」

 まぁ、あんまり買わなくなっただけかもね。と友は勝手に結論づけた。

 自動ドアが開き、客が出ていく。お馴染みのメロディと「またのご利用お待ちしてまーす」の声。

 声の主は目つきの悪い店長で、ぼくたちが小学生の頃はIQの低そうな特攻服を着たバリバリの暴走族だった。ところが川向こうにある十岐掛(ときかけ)女子高等学校のお嬢様に一目惚れ。大恋愛の末にできちゃった婚をしたというここいらの有名人である。今では嫁さんに尻にしかれながらも家族を一番に愛する立派な社会人に更生したとかなんとか。

 「時は移ろい行くものですな」

 わかったような口をきくぼくに、友が続く。

 「うん。昔は、楽しかったのにね」

 少し驚いて隣を見る。うんこ座りのまま、アイスの棒を咥える友は、開いた右手を忌まわしげに見つめていた。

 こういった弱気発言は友にしては珍しい。やっぱり、ウチの叔母さんに会うのに気が引けているのだろう。

 敢えて、言ってみる。

 「やめる? 会うの」

 ぐりん。と首だけ曲げて、友がぼくを見る。

 「やめる? 叔母さんに? なんで?」

 「や、乗り気じゃなさそう」

 「乗り気だよ」「ホントに?」「ホントだよ。なんで?」「時間稼ぎしてるし」「してない」「いーやしてるね。ウチ、すぐそこじゃん」「アイス食べたかったの」「ウチにもあるし」「あんたん家チューペットしかないじゃん」「チューペット好きじゃんか、友は。グレープ味の」「…今日はガリガリ君食べたかったの!」「じゃあなんでガリガリ君二本目だったわけ? 最初シャーベットだったじゃん。グレープ味の」「あ…た、食べたい方後に回しただけだから!」「わざわざ二回レジ行って? シャーベット食って、『一個食べよ』って店戻ってガリガリ君買ったんじゃん。苦しいなあ、言い訳が。正直言っちゃいな。びびってるでしょ。友」「…あんた、今、なんつった?」「びびってますよね? キトーさん」「びびってないわよ!」「チキっちゃったかぁ。ガッカリだなぁ」「チキ…チキるわけないでしょ! あんた、マジでぶっとばすわよ!」「ビビってチキってコンビニ前でタイムアップ狙いかぁ。あーあ、もう二十分だよ。えいぎょうぼうがいー」

 がん。

 立ち上がり、友はガジガジに噛んだアイス棒をゴミ箱に叩き込んだ。大股でヅカヅカと足を踏み鳴らし、チャリンコのストッパーを蹴り上げて睨みをきかせる。

 「行くわよ!」

 「どこに?」

 答えはわかってる。あえて言ってるのだ。

 「わかりきったこと聞かないでよ腹立つわね! あんたん家に決まってるでしょ!」

 はいはい。と返事をしながらハズレの棒をゴミ箱にポイする。

 と、店内から元暴走族の店長が怖い目で見ていた。すいませんね。と笑って頭を下げる。惚れた方の弱みってやつですかね。先輩として何かアドバイスくれません? と一度聞いてみたい。

 ペダルを漕ぐと港町特有の塩っ辛い風が鼻の奥にヘッドスライディングをかましてくる。ナビゲートするまでもなくぼくの家までの近道を先導する友は肩を怒らせて立ち漕ぎしていて、ぼくは苦笑いしながらママチャリの安いギアを上げた。

 野良犬のクソが化石になって発掘される砂場の公園を斜めに抜け、借金苦で夜逃げする前に絶対負けない改造ミニ四駆をくれたおじさんの元酒屋現TSUTAYAの前を通り過ぎ、『しーほーくーん、あっそびましょー』と土日の朝九時には待機していた友がゴムの焼けそうな乱暴なブレーキでぼくの家の前に止まった。

 祖父母とその娘である母、婿養子の父と一人っ子のぼくが住むちょっとした屋敷は、聞いて驚け将軍足利義澄候の時代は文亀に築造された年代物。漁師だったご先祖様がこの屋敷を建てるまでには眉唾の曰くがある。


 昔々、ご先祖様が漁から帰ってくると、砂浜で子供が亀をいじめていた。糞餓鬼を叱りつけようと近づくと、どうやらその子供は村の子ではないと気づく。身なりが良いのだ。腰には刀まで下げている。武士の子だ。それもかなりよい家柄だ。子供がこちらに気づいた。ぶくぶくと太った憎たらしい顔をしている。村では大飢饉の煽りを受けて飢え死にするものも少なくないというのに。よほど甘やかされているのだろう。下卑た薄笑いを浮かべている。額の真ん中に特徴的な黒子があった。

 ご先祖様は思った。このまま知らぬふりをして通り過ぎるべきだ。どこぞの馬鹿息子か知らないが、怒鳴りつけたとして親御に告げ口でもされたら一巻の終わりだ。無礼千万切り捨て御免。

 しかし、ご先祖様は子供の前に立っていた。

 気づいた子供が、亀を蹴り続けていた足を止める。

 『なんだ貴様は』

 ふてぶてしく子供が見上げる。

 『頭が高いぞ馬鹿者。下がれ』

 ご先祖様の足は、震えていた。

 『下がれといったぞ。馬鹿者が。分をわきまえてとっとと失せ――』

 『SHUT UP FUXX(ピー)ING BRAT !』

 これは言ってない。ぼくの妄想。でもそんな感じだろう。ご先祖様はブチギレた。子供の胸ぐらを掴み、ぶん投げて叫んだ。

 『俺は今から、お前を蹴る!』

 砂浜に転がり、唖然とする子供に大の大人が怒髪天を突く。

 『お前みたいな、なんの苦労も知らねえ人の気持ちもわからねえ思いやりのねえ糞餓鬼が、大人になってから民草を人を人とも思わねえような糞侍になるんだよ! 蹴られたら痛え! そんな当たり前のこともわかんねぇのか! だったら、今から教えてやる!』

 斬りたきゃ斬れ! しょっぺえ水で首洗って待っててやらあ!

 大時化の海でも舟は出る。鍛えられた足腰は漁師仲間の中でもダントツに速い。

 走る。

 『うわああああっ!?』

 子供は、恐怖に顔を引き攣らせながら抜刀した。

 『ああああああっ!』

 跳ぶ。

 回る。

 加速と遠心力を足裏一点に集中させた、ご先祖必殺の一撃。

 ローリング・ソバット。

 明らかにやりすぎな教育的指導は、結局決まらなかった。

 何故なら、子供が小便漏らして瞑っていた目を開けたとき、そこには誰もいなかったからだ。

 辺りを見回しても、人っ子一人いない。

 先ほど自分がいじめていた亀が、恨めしそうに睨んでのしのし歩き、海に帰った。

 話は、それから数十年後に続く。

 『チョオオオレエエエッッイッッ!』

 奇声とともに、一人の青年の渾身の蹴りが空を切った。

 砂浜に落っこちて倒れ伏すご先祖様は、『へっへっへ』と不気味に笑って立ち上がる。

 『どうだ糞餓鬼思い知ったか? 痛えだろ? 蹴られる殴られるってのは嫌なことなんだよ。これに懲りたら、二度と、人にも亀にも自分が嫌だと思うことはするんじゃねえ――』

 格好つけて振り返る。子供がいない。

 はてなと首をかしげ、右見て左見る。

 子供もいなけりゃ亀もいない。

 頭を掻いて、ひとりごちる。

 『…夢でも見たか、キツネかタヌキに化かされたかぁ?』

 嘆息して、家路に着く。

 道草食らって、帰りが遅くなっちゃあ、家族にこってり絞られる。

 急いで走る。

 けれど、走っても走っても、家につかない。

 村はすぐそこなのに。道を間違えようがない。

 違和感。

 何かがおかしい。いつもの帰り道が、似ているようで、違うのだ。

 子供の時分に盗んでぶん殴られた、柿の木が枯れている。

 一目ぼれしたあの子の家の、田んぼが荒地になっていた。

 隣近所はもぬけの殻だ。元から寂れた寒村が、ゴーストタウンとなっている。

 そして、ご先祖様の家は朽ち果てた廃屋と化していた。

 わけがわからない。頭がおかしくなりそうだ。

 頭を抱えて、ご先祖様は走り出す。

 遅い帰りを怒る母を

 大漁を喜ぶ父を

 腹を空かせて待っているはずの弟妹を探して、ご先祖様は走った。

 何日も何日も走った。精根尽き果て、とある屋敷の前で意識を失った。

 目が覚めると、床の間の布団の上。隣には見知らぬ男。

 武士だった。

 『起きたか』

 頬は痩け、苦労が忍ばれる皺が無数に刻まれた顔をこちらに向けている。その額には、どこかで見たような黒子があった。

 恐縮して縮こまるご先祖さまを武士は歓待した。

 風呂にいれ、馳走を出し、温かい布団でご先祖は眠りに就いた。

 翌朝、平になって礼を言うご先祖に武士は袋を渡した。

 重い。不審に思いながら開ける。見たこともないような、大判の金が山ほど詰め込まれていた。

 受け取れない。叫ぶご先祖様に武士は言葉少なく告げた。

 『あの時、私は生まれて初めて、人に怒られた。』

 意味がわからない。狂人を見るような目でご先祖は武士を見る。

 『戦国の世だ。人が虫けらのように死んでいく。…そんな世は間違ってる。当たり前のことだ。あなたが教えてくれた』

 受け取って欲しい。受け取れない。押し問答の末、ご先祖様はかつて住んでいた廃村に戻り、この屋敷を立てたという。


 「信じるか信じないかはあなた次第です」

 「何ブツブツ言ってんの?」

 勝手知ったる、といった様子で勝手口から中に入る友。隅にチャリンコを停めて「おじゃましまーす」と叫ぶ。

 「誰もいないよ」腕時計を見ながら告げる。

 「は? おばさんは?」

 「母さんのこと? 叔母さんのこと? 叔母さんの方なら『お姉さん』って呼んでね。紛らわしいし、ぼくらと一個しか歳変わらないから。生年月日は母さんの二個下なのに」

 友は深くため息をついた。気持ちはわかる。単純な加減法で考えれば、ぼくは母さんが三歳で産んだ子供になってしまう。お姉さんが十八歳で氷漬けになって、うん十年後に解凍されたのでもない限りは。でも実際、正解はそれと五十歩百歩というところだ。

 「じーちゃんは釣り。ばーちゃんは寄合所。父さんは仕事。母さんはスーパー。お姉さんはどこ行ったか知らないけど、一時に帰ってくるって言ってた。あの人は自由人だけど、時間にはちょっと正確だから。遅れもしないし、早く来てまったりもしない。嫌味なくらい時間ぴったりにくるよ」

 あと、三十秒くらい。

 「五分前行動って言葉を知らないのかしらね」

 玉砂利を蹴っ飛ばして、元球児らしい事を言う友。

 「五分前の友は、逃げて帰ろうとしてたけどね」

 にぎりこぶしが飛んできた。かわして、石畳を駆け出し逃げる。昔はこうして、二人で遊んだものだった。だだっ広い庭を走る。池の中には麻雀の役みたいな派手な名前の鯉がいて、ボールの的にしてこっぴどく怒られた盆栽があって、振り返ると、鬼の形相で追いかけてくる友を見て思う。

 いつまで、一緒にいられるのだろうか。


 その時


 ぼくと友の間が、ぐにゃりと歪んだ。


 まるで、凪いだ湖の水面から飛び跳ねる魚のように


 水色のスニーカーと


 白い夏のセーラー服と


 黒く長い髪がひらと舞って、少女がそこにいた。


 大きく助走をつけて幅跳びしたような勢いで着地し、

 たたたたんっと身軽にステップを踏んで静止した。

 友は言葉を失って彼女を見ている。

 腕時計は、きっかり三時を示していた。


 「ただいま」


 ぼくを見て、彼女は言った。

 「お帰り。“跳躍(ホップ)”してきたんだ? のんびり待ってればよかったのに」

 「待ちきれなくって。楽しいことは、とっておけないのよ。わたし」

 へへへー。とクリスマスの前にプレゼントを見つけてしまった子供みたいに、彼女は笑った。

 お客さんだよ。お楽しみの。と顎で示すと、彼女は友を見つけた。

 「大きくなったね。友ちゃん」

 友は、返事をしなかった。

 会うのはこれで二度目だけど、自己紹介するね。

 にぱっと笑って、彼女は指を二本立てた。

 「始歩くんの叔母で、あなたと同じ“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”です。『お姉ちゃん』って、呼んでくれたら嬉しいな」


 

 倉野瀬ヤンキースの四番について、語ってみよう。

 彼の過去はこの物語において、さして重要ではない。鬼頭友と伊勢湯始歩の物語である本作の中で、津々井ベアーズのバッテリーである二人は、ジュブナイルリーグの決勝で倉野瀬ヤンキースの四番と戦った。それだけの事実でも物語は進行する。結果として、この決勝試合が鬼頭友と伊勢湯始歩のそれから先の未来に小さくはない影響を及ぼすことになるのだが、それは四番の彼の人格について語らなくても成立する類のことなのだ。

 それでも敢えて語ってみよう。これは、鬼頭友も伊勢湯始歩も知らない、物語の裏の話だ。

 仮に、彼のことを『灰かぶり』と呼ぶ事にしよう。大した意味はない。

 灰かぶりは、野球一家の四男だ。父は元高校球児で、甲子園を目指し中学高校と野球に青春を捧げたが、夢破れ大人しく実家の電気屋を継いだ。赤ヘルを被ってベイスターズを口汚く罵っていた女性と意気投合し結婚。四人の子供をもうけたが、全員が男だった。

 灰かぶりにとって、野球とは処世術であった。

 父も母も、一つずつ年が上の三人の兄も口を開けば野球のことばかり。

 休みの日に連れて行かれるのは映画館でもゲーセンでもなく球場で、遊びはゲームでもアニメを見るのでもなくキャッチボールで、クリスマスの朝には、毎年のようにピカピカのグローブが枕元に置かれていた。

 男兄弟の宿命で、灰かぶりは兄たちによくいじめられた。

 殴る蹴る、関節・寝技当たり前。シャイニングウィザードと金的だけはやられないように必死に兄たちの顔色を窺う日々。

 だから、外で野球するより家の中でゴロゴロしてる方が楽しい。なんて、とても言えなかった。

 兄たちと同じ倉野瀬ヤンキースに入ることなど、自分が生まれる前から決まっていたことなのだから。

 野球は嫌いだったが、必死でやった。

 それが、家族と繋がるたった一つの方法だったから。

 エラーしようものなら兄に殴られ、

 辞めたいと言おうものなら父に叱られ、

 誰にも怒られたくないから、誰よりも練習した。

 そしてなんの皮肉か、灰かぶりには才能があった。

 小学校三年の時には、六年生の長男を差し置いて津々井ベアーズのレギュラーとなってしまったために、その日から一月は家で地獄の日々が続いた。あの恐怖を灰かぶりは忘れない。

 そう、恐怖だ。

 恐怖が、灰かぶりを突き動かす。

 恐怖が、灰かぶりをベアーズの四番の座を与えた。

 恐怖が、灰かぶりをジュブナイルリーグ決勝まで導いたのだ。

 恐い。

 父が、

 怖い。

 兄達が、

 こわい。

 目の前のピッチャーが、

 こわいから。

 「――まけるのは、きらいだ」


 伊勢湯始歩が、サインを出した。

 跳ねる(ホップ)ストレート。

 鬼頭友の代名詞。友と始歩の誇る最強の定番。

 勝利を決める、最後の一球に相応しいのは、これだ。

 喰らえ。

 九回裏

 2-1

 走者(ランナー)は一塁

 2アウト

 2ストライク、1ボール

 空は青い。スコアボードの蝉が鳴いている。

 スタンドで始歩の祖父が「バンザイ」とフライングした。

 鬼頭友の、肺胞が膨らむ。

 酸素が左胸のポンプから全身のパイプラインを巡り、細胞が活性する。

 脳髄の電気信号がスパークする。何万回と繰り返した動作は神経と筋肉の連鎖をノータイムで引き起こし、力の躍動を最短で、しかし最大化した。

 強靭な左足がマウンドを踏みしめる。

 体重移動と全身の筋肉が生むモーメンタムをしなる右腕に結集する。

 三振を奪うために、鬼頭友という少女は特化していた。

 その存在証明としての跳ねる(ホップ)ストレート。

 それは間違いなく、鬼頭友の十二年間の生涯で最も完成された一球だった。

 もしかしたら、最高の一球が引き金だったのかもしれない。

 誰もがその一球を褒め称えたが、気づきもしなかった。

 三人を除いては。

 鬼頭友

 伊勢湯始歩

 そして、灰かぶり

 夏の空の下で、白い野球ボールは


 “跳躍(ホップ)”した。


 「ッッットォラァァーイクッ! ッッタァーアウトッッ!」

 スタジアムは、大歓声の坩堝と化した。

 2-1

 鬼頭友、伊勢湯始歩、本田類を擁する大仏の率いたチームは、ジュブナイルリーグ優勝を果たした。

 マウンドに、バッターボックスに、津々井ベアーズのチームメイトがなだれ込む。

 スタンドは総立ちで、両者の健闘を称えている。

 三人だけが、動けなかった。

 それは、一瞬のことだったのだ。

 最後の一投一打に全てを注いだ三人だけが、その集中の中で視ていた。

 ボールは、消えたのだ。

 まるで底の見えない暗い海に没したように。

 そしてその一瞬の後、

 飛魚が水面から跳ねるように、

 ボールは消えた空間と寸分違わない場所から現れた。

 例え、ボールが“跳躍(ホップ)”しなかったとしても、結果は同じだったかもしれない。

 そうでなかった、別の結果だったかもしれない。

 しかし、現実に起こったことは、ただ一つである。

 鬼頭友は球を投げ、灰かぶりは球を打たず、伊勢湯始歩は球を取った。

 「違う」

 灰かぶりが、口を開いた。

 騒々しい音の濁流の中で、鬼頭友と伊勢湯始歩には、その声が聞こえた。

 「今、のは、違う」

 悲痛だった。現実の手触りに確信を持っている。そして拒絶した声だ。

 「消えたんだ」

 友と始歩の二人にだけ、それは聞こえた。

 「()()()()だ」


 次の日、鬼頭友は津々井ベアーズのグラウンドには来なかった。

 その次の日も、その次の次の日も。

 鬼頭家の玄関で、友の母から「ごめんねぇ始歩くん」と一週間続けて謝られたその次の日、伊勢湯始歩は遂に耐えかねて不法侵入を決行した。

 鬼頭友の父が海へ漁に、母がスーパーへレジ打ちに出かけたところを見計らって、35年ローンの慎ましやかな一軒家の裏手にまわり、便所の窓から身をよじって忍び込んだ。『鍵直さないといつか空き巣にやられますよ』とさんざん忠告しても、『取られるものなど何もない』と鬼頭家には聞き入れてもらえなかった自分が、よもや曲者めいた悪事をなすことのなろうとは。

 こそこそと階段をのぼり、「絶()入るな!」と書きなぐられた張り紙のあるドアの前で深呼吸した伊勢湯始歩は、『恐る恐る』という言葉の見本みたいなノックを三度した。

 返事はない。

 女の部屋だが仕方ない。『れでぃーの部屋なんだから鍵をよこせ』とおおよそ淑女には相応しくない文句を垂れていたマセガキのドアノブを回す。

 「友。入るぞー? ノックしたから着替えてても――」

 隙間から覗く光景に、絶句した。

 電灯は消えていたが、閉められたカーテンの隙間から入る西日が薄暗い部屋に差し込んで、埃がキラキラと光っていた。

 自分が忍び込む前に、強盗の先客が来たのだと思う。

 少年ジャンプ週刊ベースボール以外には使ったこともない辞書しか入っていない本棚が、薙ぎ倒されていた。

 プレステ2が、半分に割れて基盤とコードが剥き出しになっている。

 左右の壁はショットガン同士の銃撃戦があったかのように穴ボコだらけで、二枚目俳優のポスター(この俳優が、どことなく本田類に似ていることを伊勢湯始歩は気づいていた)は斜めに引き裂かれている。

 勉強机の引き出しから文房具やプリントが内蔵のようにはみ出し、所々凹んだ金属バットと綺麗なままのグラブが机の上に置き去りにされていた。

 「――始歩?」

 部屋の隅っこの、盛り上がった掛け布団が凍えるような声でしゃべった。

 異様な光景に慄きながら、伊勢湯始歩は部屋の中へ一歩踏み入った。

 「帰って」

 拒絶が飛んできた。

 「何で来たの。来ないで。母さんは? 帰って」

 帰ってはいけないと、伊勢湯始歩はわかった。

 「ごめん。誰にも会いたくないって言ってるって、おばさんに言われた。けど、どうしても会いたくて、勝手に、入った」

 「帰れ!」

 布団の中身が、泣いているのだと気づいた。

 「先週の、試合のせいだろ?」

 しゃくりあげる声が聞こえる。

 「あれは――」

 「あたしのせいじゃない!」

 始歩の言葉を遮って、友は叫んだ。

 わかってる。と口を挟む余地もない。あたしのせいじゃない。あたしは悪くない。と何度も何度も友は繰り返した。

 誰にも言えなかったのだろう。吐くように言った。

 「あたしは、ズルなんか、してない」

 イカサマだ。

 灰かぶりが、耳元で囁いた。

 「知ってるよ」 

 伊勢湯始歩の言葉が、滲むように繰り返される。

 「知ってるよ。友はズルなんかしてない。友は悪くない。友のせいじゃない。ぼくは、ちゃんとわかってる」

 鬼頭友が、でかい鼻水をすすった。

 「あれは、お姉さんと同じだった」

 始歩は、母方の叔母のことを思い出す。

 二年前、津々井ベアーズで地獄の猛特訓に明け暮れた夏のこと。

 セーラー服の女の人が過去からやってきた。

 突然現れた母の妹は、祖母が母を産んだ二年後に生まれたにも関わらず18歳の女子高生で自分が10歳だという現実に混乱し『お母さん、何歳だったっけ?』と聞いてしまった不覚は、女性に年齢を尋ねてはいけないという人生の教訓を伊勢湯始歩に齎した。

 そのお姉さんが過去から跳んでくるとき、未来へ跳んで行くとき、空中が水の波紋のように揺れた。

 ボールが消え、また現れた友のあの一球は、お姉さんのそれと同じだったように思える。

 「右手が、変なんだ」

 鬼頭友が、弱々しく呟く。

 「熱くて、冷たくて、ピリピリする。あの日から、ボールに触ると、右手が変になるんだよ。始歩」

 意を決して、伊勢湯始歩は切り出した。

 「確かめよう」

 もしも、鬼頭友が伊勢湯始歩の叔母と同じ“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”だとしたら―

 確かめなければいけなかった。

 しばしの沈黙のあと、答えが返ってくる。

 「うん。わかった」

 肯定に、ほっと溜息をつく。しかし、掛け布団はもぞもぞと蠢くばかりで鬼頭友は一向に出てこない。手持ち無沙汰で立ち尽くす伊勢湯始歩に、友が恥ずかしそうに言った。

 「着替える。出てけ。外で待ってて」

 一目散に退散した。何故か、律儀に入ってきたトイレの窓から抜け出して、何を焦っていたのか頭から転げ落ちる。

 グラブを片手に出てきた鬼頭友は、玄関先の伊勢湯始歩と出くわし、泣きはらしてブサイクになった顔で「見んなバカ」と悪態をついた。

 なんだかちょっと、気まずかった。

 チャリンコで走り出す。

 自作サーキットで子供をボコボコにやっつけるミニ四駆おじさんの酒屋を通り過ぎ、犬の糞の化石が埋まっている砂場の公園を斜めに抜け、暴走族に悩まされているコンビニエンスストアを右折して海へ行く。

 ずっと直線が続く防波堤脇の道路でチャリンコを止める。

 港からも民家からも離れた街の外れ。人通りがなくて、潮の香りと波の音がして、時々、でかい波が役立たずのテトラポッドをとびこえてびしょ濡れになる。

 鬼頭友と伊勢湯始歩のブルペンだ。

 キャッチャーマスクもプロテクタもないが、ミットをつけた伊勢湯始歩は、ポケットからボールを出して鬼頭友にほうった。受け取って、しばし右手で玩んだボールを握り直した友は険しい表情をしている。

 右手には、例の違和感が宿っていた。

 「いくよ」

 振り払うように、投球フォームに移行する。

 身体に染み付いたルーティンから、普段と寸分違わぬ一球が放たれる。

 そして、その球は呆気なく“跳躍(ホップ)”した。

 最後の試合の、最後の一球と全く同じだった。

 ストレートは空中で水面にとびこむように消え、水面からとびだすように現れた。

 伊勢湯始歩は、半ば予想していた通りの結果に青ざめながらも、ボールを返す。

 「もう一回」

 結論から言えば、鬼頭友の跳ねる(ホップ)ストレートは全て、時間を跳躍した。

 跳ねる(ホップ)ストレートは、鬼頭友という投手にとっての全てだった。

 その全ては、今や、全く別のものに成り果ててしまった。

 日が暮れて、夜になって、二人の両親たちが大騒ぎしておまわりが駆り出される。大人たちにこっぴどく叱られるまで、二人はピッチングを続けていた。

 別れ際、鬼頭友は伊勢湯始歩に力なく告げた。

 「始歩。わたし、野球できなくなっちゃった」


 

 「じゃあ、お姉さんは高校を卒業してすぐに旅に出ちゃったんですか?」

 ピッチングを終えた私は、テトラポッドの上の彼女に尋ねた。

 「そう。お父さんとお母さんが、高校さえ出てればあとはどうにかなるから、それまでは辛抱して勉強しろって。だから、中高六年間は我慢してたの。高校三年間でバイト代貯めて――あ、()岐女(キジョ)はバイト禁止だったんだけど、ヤミで新聞配達して。で、ナイフとランプとバイト代をバックパックに詰め込んで、冒険に出ちゃったわけよ」

 とーさーんがーのこしたー。と片足バランスで歌う彼女に私はやや呆れつつ、同時に感心もしていた。

 例え、私に彼女ほどの“時間(タイム)跳躍(ホップ)”能力があったとしても、これほど迷いなく未来へ旅立つことはできない。

 それは、片道切符の時間(タイム)旅行(トラベル)なのだから。

 私が、未来にしかボールを“跳躍(ホップ)”できないように、彼女も未来にしか“跳躍(ホップ)”できない。

 とはいえ、その性能は月とスッポン、ウサギとカメ程の違いがある。

 なにせ、彼女は彼女自身が何年も先の未来に行けるのだから。

 防波堤のへりに腰掛けて、頭の中で彼女の話をまとめる。


 始歩の叔母である彼女が“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”となったのは、奇しくも私と同じ小学校六年生のことだった。

 後に始歩の母となる彼女の姉が、弁当を忘れた。

 届けてくれと母に頼まれ、彼女はランドセルを背負って、次の年には自分も通う中学まで駆けた。

 足の速さでは学校一番を自負する彼女にとっては、小学校と反対方向にある中学校との往復など朝食後でも朝飯前だと考えていた。

 ところが、彼女は間に合わなかった。

 クラスの朝礼にも、給食にも、下校時間にも。

 昼飯抜きの姉が帰宅しても彼女は帰ってこなかった。

 夜の七時を過ぎて夕飯が冷めた頃、すわ誘拐かと伊勢湯家は警察に駆け込んだ。

 捜索隊が結成され、ご近所を訪ね回り、日付が変わって陽が昇っても彼女は見つからなかった。

 最悪の事態が頭をよぎり、内心気が気でなかった姉は、私が昨日弁当を忘れなければと涙を流して登校した。

 もう二度と忘れないだろう。手にはしっかと弁当袋が握られていた。

 教室に入り、自分の席の椅子を引いたその時、「廊下を走るな小学生!」と怒鳴られながらランドセルが飛び込んできた。

 『お姉ちゃーん! おべんと忘れたよー!』


 多分、犬のうんちとびこえた時に“跳躍(ホップ)”したんだよ。

 と、彼女は回想した。

 彼女の父は言った。「ご先祖様も、そうだったらしいの」

 私は、明王の改変ぐらいのころの始歩の先祖が、ソバットを決めそこねて“跳躍(ホップ)”する姿を想像する。

 彼女は、すぐに“時間(タイム)跳躍(ホップ)”の力を制御できるようになった。

 そして、ひとつの疑問が生まれた。

 「わたしは、いつまで行けるだろう?」

 疑問は、日に日に膨らみ、いつしか夢となっていた。

 ずっと、ずっと、ずーーーーーっと先の、未来に行く。

 声がして、目を向けると、フジツボとコケと海藻まみれのヌルヌルとした木造の桟橋の先で、始歩とその祖父が竿を振り乱してかかった獲物と格闘している。

 ピッチングを終えた始歩は、『女子(ガールズ)トークは苦手だから』とか何とか言って、たまたま近くで釣りをしていた祖父のところへ行ってしまっていた。

 「始歩くんは、いい子だよね」

 セーラー服の彼女は、ジャージ上下の私の隣に腰を下ろした。

 「…まぁ、いいヤツですね」

 「だよね。流石、わたしの甥っ子だな。というか」

 はあ。と適当に相槌を打つ私に、彼女は耳打ちする。

 「友ちゃんは、始歩くんのことどう思う? レンアイタイショーに入る?」

 よくある質問だ。男と女がつるむのは、小学生の頃より難しくなったと思う。

 本田類の顔が浮かんで、消えた。

 「友達です」

 即答する私に、彼女は「あちゃー」と大袈裟にのけぞった。

 「いいヤツ止まりかあ。まぁ、始歩くんらしいかなぁ」

 そこそこ格好いいとは思うけどねぇ。と呟く彼女に水を向ける。私も、女子(ガールズ)トークは苦手だ。

 「お姉さんは、これからどうするんですか?」

 「うーん…。友ちゃんはどうするの?」

 質問で返される。ホント、自由人だなこの人と苦笑した。

 「私は、()()を消します」

 右手を見る。集中すると、熱さと冷たさと痛みが指先で爆ぜた。

 野球をやめてからも、私はピッチングを続けた。

 なら、自分もやめて手伝うと始歩が言った時、続けろと言って私は始歩を止めた。

 私の個人的な問題にそれ以上巻き込みたくなかったから。

 でも、ああ見えてあいつは、一度言い出したことは頑として曲げない。

 津々井ベアーズにぼくを入れたのは友だ。抜けるときはぼくも抜けさせろ。とわけのわからない理屈をこねて、結局あれから五年も私のボールを捕り続けてくれた。

 だが、それももう終わる。

 彼女とは違い、ボールを投げ続けても、私は“跳躍(ホップ)”をコントロールすることはできなかった。

 一瞬にせよ、数分にせよ、数時間にせよ、私の意思に反してボールは未来に跳び続けた。

 しかし、一つ、わかったことがある。

 “時間(タイム)跳躍(ホップ)”は、有限なのだ。

 右手の熱と冷気は、投げ続けることでほんの少しづつ減っていく。

 そして、五年間続けたピッチングで、これは今、消えかけている。

 「あと、ほんの少しなんです」

 私の隣で、水色のスニーカーを履いた足がぶらぶらと揺れる。

 「その後は?」

 彼女の顔を見る。ころころと微笑んで、私に答えを促している。だが、私には答えられない。

 “時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”じゃなくなったら

 どうする?

 「あと、どのくらいでなくなるの?」

 助け舟を出すような質問に、私は逃げた。

 「…一週間もないです」

 「そっかぁ」

 彼女は立ち上がり、両手を広げる。

 「じゃあ、わたしがどうするかは、その時に答えるよ。――始歩くんをどうするか、ね」

 え。と私が彼女を見上げたその時、桟橋から男二人の情けない声がした。

 振り向くと、釣り糸が切れたらしい。大物でも逃がしたのか、尻餅をついた始歩の祖父が魚に暴言を吐いた。

 「あの、それってどういう――」

 ことですか。という言葉は、空中に置き去りとなった。

 振り返ったところに、彼女はいなかったからだ。

 四方を見渡しても、セーラー服の少女はいない。

 潮の香りが、風に舞っている。


 

 「友は、これからどうするつもり?」

 もう、“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”ではない友に、ぼくは尋ねた。

 オレンジと紺色の境目の下、ぼくたちはキャッチボールをしていた。

 夕日の没する海の向こうから漁船の群れが帰ってくる。

 友のお父さんも、死んだおじいさんも代々海の男で、生まれてくるのが男だったら漁師か野球選手にするつもりだったというおじさんは、家に遊びに来たぼくと顔を合わせるたび、『おい始歩! 漁師か、プロのキャッチャーになったら友をやるぞ! 友は嫁に行くのと婿を取るのどっちがいい?』などと言い出すのだから、友に滅茶苦茶うざがられていた。

 でも、正直に言うと、ぼくはおじさんと会うたび、その言葉を楽しみに待っていたのだけれど。

 「お姉さん、あんたと同じこと聞いてきたわよ」

 ボールを受け、投げ返す。

 「へぇ。なんて答えたの?」

 「…言う前に、いなくなった」

 六日前、彼女は唐突に姿を消した。元々神出鬼没な人なので、家族はあまり心配していない。バックパックも家に置いたままだし、「お姉ちゃーん、ごはんなにー?」と夕飯時にひょっこり帰ってくるだろう。

 「で、どうするの?」

 ボールを投げる

 「どうするって、どうにもしないわよ」

 返ってくるボール。キャッチボールは続く。

 「野球はやらないわけ?」

 「やんない」

 「もう、“跳躍(ホップ)”しないだろ」

 「野球嫌いだもん」

 「嘘つけよ」

 「…やりたくない」

 「そ。じゃあ、本田はどうするの?」

 「は? 本田? 何で?」

 「告らないわけ?」

 「はあ? あんた…どうかしてるよ。するわけない」

 「どうして?」

 「どうしてって…無理だよ。私じゃ。あいつモテるし」

 「告らないんだ」

 「告らない」

 「ふぅん。ならさ」

 投げる。

 「付き合ってよ。ぼくと」

 ボールは、返ってこなかった。

 目を背けないように、全身の力で踏ん張る。

 考えたこともない方向から虚を突かれて、友は案山子みたいに呆然としていた。

 夕暮れの陽があたって、友の顔は橙色に照っている。

 「な…に言ってんの? 馬鹿じゃない?」

 「返事は?」

 「返事って…はぁ?」

 「好きだって言ってるんだけど」

 「……いや、おかしいって。あんた、変だよ。今日。どうかしてる。急にそんなこと言い出して、気持ち悪いからやめてよね」

 傷ついて、ぼくは言った。

 「そんな言い方、しないでよ」

 目を逸らされた。

 駄目だ。もう無理だ。

 逃げるように、いや、実際逃げるために背を向けた。

 「…本気だから。返事待ってるから。明日。桟橋のところ。昼の一時」

 捨て台詞を吐いて、走った。

 「好きなんだ。ずっと」

 海が見えなくなるまで、振り返ることはできなかった。


 

 お前まだいたのか。プリントやって、とっとと帰れ。

 ぴしゃり

 C3POが閉めていった教室のドアから左斜め上に目を移すと、視線の先の円盤が二時五分を示していた。

 十時に始まり、十一時で終わる予定を過ぎ、十二時のお昼を腹を鳴らせてやり過ごし、やっと長い一時が終わって今は二時。一応、三時まで粘るつもり。

 もう、帰っていると思うけど。

 補習だったから、行けないのは仕方ないよね。

 机に突っ伏している私を責めるように夏の日差しが照りつける。

 バターのように溶けながら、頭の中で言い訳が絵本の虎のようにぐるぐる回る。

 言い訳にもならないのはわかっているけど。

 ついこの間、コンビニの前で私の子供じみた時間稼ぎを窘めたやつのことを思い出し、連鎖反応でそいつが昨日口にした言葉が蘇る。私は身を捩って呻いた。

 何てことを言い出してくれやがったのだ。

 お互いに男か女かの区別がつかないような子供の頃からの付き合いだ。勿論、私は始歩が好きだし、始歩は私を好きでいてくれてるとは思ってた。

 でも、そういう好きとは違うことをあいつは言い出したのだ。

 中学に入ったくらいから、始歩とつるむ私に女子どもは、「ねぇ、伊勢湯くんと付き合わないの? 絶対あの子、友のこと好きだよ!」とかなんとか。奴らはさも楽しげに私たちをくっつけたがるので、その度私は辟易したものだった。

 始歩も男子から似たりよったりのことを言われたようで、「お前、妹とか姉貴で抜けるか? それと同じ。生理的に無理」とか抜かしたはずだ。何が生理的に無理だ。こっちから願い下げだ変態馬鹿野郎としこたまぶん殴ってやった記憶があるので間違いない。

 それがどうして、こんなことになってしまったのか。

 黒板上にのたうつ、石灰色の導関数を八つ当たり気味に睨む。

 想像したことがないとは言わない。

 言わないが、それは、『もしも』の『もしも』だ。

 ifの二乗の話が、現実になるとは思いもしなかったのだ。

 こういう気持ちになってしまうなんて、わからなかったのだ。

 「廊下を走るな! どこの生徒だ!?」

 怒鳴り声と、どたどたという忙しげな足音。

 教室のドアが開け放たれて入ってきたのは、R2-D2でもジェダイ・マスターでもなく、セーラー服の“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”だった。

 「あ、友ちゃんみっけ」

 手提げ袋片手に、ぱっと晴れるように彼女は笑った。

 十岐女より教室多いね。野球部の子達に聞かなきゃ、部屋わかんなかったよ。とか何とか言いながら私の一つ前の椅子に逆向きに座る。私の机の上でぽつねんと佇む無記入のプリントの上に重量感のある音を立てて手提げ袋を置いた。

 「ご飯食べていい?」

 返事がないのを肯定と捉えたらしい。手提げ袋からいそいそと弁当箱を二つ取り出すと、聞いてもいないのに「わたし、こう見えて胃下垂なんだよ」とどうでもいいことをカミングアウトした。

 「あ、友ちゃんも食べる? よかったら」

 やけに茶色いおかずが目立つ中身を見せて、彼女は尋ねる。

 腹の虫が、返事をした。

 私が白い箸を、彼女は黒い箸を使って弁当をつつく。

 「友ちゃんを探してたら、桟橋のところで始歩くんを見つけてね」

 白い箸が、濃い目のひじきを落っことした。

 「あんなものすごい剣幕で釣りする人、初めて見たよ。お酒の酌したら、猪口叩き割って零戦乗り込みそうな感じ。乾坤一擲! みたいな」

 何釣る気なのかなー? と唐揚げを黒い箸で頬張る。

 「友ちゃんどこにいるの? って聞いたら、たぶん津々高で時間切れ狙ってるって言ってたから、チャリンコとおべんともらってきたんだ。だからこのおべんと、始歩くんが作ったやつだよ。お姉ちゃんとお母さんのおべんとは、こんなに茶色くないし。二人分あるから、両方持って行ってくれって言われて」

 茶色いけど、おいしいね。と言われて、私は頷いた。

 声が、震えた。

 「それ、いつの話ですか?」

 「五十四分十一秒前」

 時計を見上げると、針は二時三十一分を指していた。

 「わたしが始歩くんを見つけたのが、一時三十七分三十秒だね」

 ストップウォッチでも内蔵してるんですか? とは言わなかった。軽口一つ叩けず唇を噛む私に彼女は優しく、諭すように言った。

 「残さず、食べてあげてね」

 はい。と、辛うじて声が絞りでた。

 私たちは、無言で弁当を食べた。

 名前だけ書いたプリントを教壇の上において、扉へ向かう私の背に声がかかる。

 「友ちゃん、これからどうするの?」

 もう、“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”じゃない私は答えた。

 「わかりません。でも、とりあえず行ってきます」

 始歩の気持ちに応えられるかはわからない。

 けど、会いにいく。

 腹を空かせたあいつを待たせてるから。

 ドアに手をかけた。

 その時

 揺れていた。

 小刻みに。

 「地震」

 私と彼女、どちらともなく、わかりきったことを言った。

 ぐらぐらぐらと、振り幅は掛け算のように大きくなっていく。

 「大きいね」

 教室の電灯が、机が、黒板のチョークが、窓ガラスがゆっさゆっさと揺れている。

 長い、地震だった。

 窓の外は、何の変哲もない夏の空だ。

 その向こうで、遠い海鳴りが聞こえる気がした。


 

 振られたら、旅に出よう。

 ぼくは思う。

 勿論、友とは一緒にいたい。恋人とか、彼氏彼女とか、マイダーリン・マイハニー的な関係にならなかったところで、ぼくは友達として、相棒としての友が好きだし、友もぼくのことを好いてくれていると思う。

 昨日のことは、しばらく気まずくたって、いつか笑い話になるだろう。

 でも、ぼくの中には一人の女の子としての友が好きだと言って聞かない自分がいて、結局、友達相棒としての友が好きな自分と分離しきれなかったのだ。

 だから、友が、例えば本田とか、他の誰かさんとマイブー・マイベーな関係になったとき、ぼくはこれまでみたいに友の味方でいる自信がないから。

 だから、振られたら旅に出る。

 ジュブナイルリーグ決勝の九回裏、あの一球で友は、“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”である友自身をひどく責めた。

 一番好きだった野球を自分の手で汚した気になって、“時間(タイム)跳躍(ホップ)”と一緒に自分と野球まで嫌うように、嫌いだと思うように仕向けてしまった。

 ぼくには、友のボールを捕ることしかできなくて、結局、五年たっても友が友にかけた誤解を解くことはできなかった。

 もう、友は“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”じゃない。

 もう、ピッチャーでもなくなってしまうかもしれない。

 友のボールを捕るだけのぼくは、もうお役御免なのかもしれない。

 それなら、もう思い残すことはなく行けるから。

 普段使わない頭を使って、余計なことを考えすぎたからかもしれない。

 今日は完全な坊主で、一匹の釣果もないバケツの水が不自然なくらい揺れていることや、打ち寄せていた波がいつの間にか引いていることや、海の鳴き声に、今頃気づいたのだから。

 海を見る。

 水平線から、青黒いものが蠢いてこちらに近づいていた。

 腐っても、海の町で育った子供だ。それを見たら、何をおいてもまず走れと、耳のタコに羽が生えて火星に帰るほど、口酸っぱく教え込まれてきた。

 竿など、海にくれてやった。

 走る。

 逃げ足の速さもきっと、ご先祖譲りだ。

 大仏にも、バッティングは拙いが、走塁と友の扱いはダントツだと褒められた。

 どっかのおっさんが「逃げろ兄ちゃん!」と叫んで、言うの遅ぇよ馬鹿野郎と内心毒づく。

 小学校の図書館にあった怪談の本が頭を過ぎった。振り返ったらおしまいよ、というよくあるアレだ。

 振り向くもんか。

 桟橋を

 走って、走って、

 ぬるりと転びかけ、

 倒れるものかと立て直し、橋を渡りきった。

 ひと呼吸おいて、

 ほんの、出来心で振り返る。


 壁が、そこにあった。


 走る。

 影に呑まれた。

 跳び上がって、

 海に喰われる。

 往生際悪く、何か叫んだ。

 好きな女の子の名前だった。


 

 「俺は、逃げろって言ったんだよ。大声でさ。それで兄ちゃんも気づいて逃げようとしたんだ。でも、結局波に飲まれちまって。ありゃ、もう助かんねえな。可哀想に。若い兄ちゃんだったのになぁ」

 それにしても、でかい津波だったなあ。

 などと野次馬に話す親父はどこか自慢げで、まるで若い頃の武勇伝でも言って聞かせる酔っ払いのように、新しい獲物を見つけては同じ話を吹聴していた。

 やいのやいのと群がる野次馬どもを警察官がおざなりに対応している。

 「はい押さないでー。危ないですからー。余震来たら、また波きますからー」

 一時間かかる道を始終立ち漕ぎで飛ばしてきた私はみっともないくらい汗まみれだ。構わず、野次馬をかきわける。

 脇をすり抜けようとする私に気づき、急に勤労意欲を回復させた警察官に肩を掴まれる。

 「君! おい! 立入禁止だ! 立入禁止と言ってるだろうが!」

 「離してよ! 離して! 始歩は!? 始歩がいたの! 離せよ! ――離せ!!」

 警察官と取っ組み合いになった女子高生に、野次馬どもがはやし立てる。

 「ケンカか?」「いいぞー姉ちゃん」「おまわりなんてやっちまえー!」

 騒ぎを聞きつけた増援が血相変えて飛んできた。

 「貴様らぁ! 何やっとるかぁ!!」

 木造の桟橋は、巨人に根元から引っこ抜かれたように、その原型は今や見る影もなくなっている。岸との接岸点に残されたわずかな木の骨組みだけが、そこに桟橋があった印だった。

 その手前で、お姉さんに付き添われて蹲る私に、さっきの警官が喋りかけてくる。

 「お前、さっきのは、フツーなら公務執行妨害だからな」

 顔を伏せている私には見えないが、この警官の頬にはえげつない引っ掻き傷があるはずだ。

 「友達だったのか?」

 返事をしない私に、警官がため息を吐く。

 「おい。これ」

 「あ…友ちゃん」

 お姉さんの声に、顔を上げる。

 警官が差し出した手には、鞄が握られていた。

 青いレ点のメーカーの、始歩のスポーツバッグだ。

 「これだけ…流されずに打ち上げられてた。俺たちは、これを署に持ってかなきゃいけねえから。――その前に、一回見とけ」

 内緒な。とぶっきらぼうに言う警官の手から、礼も言わずにひったくる。

 ぐしょぐしょに濡れた砂だらけのバッグを、震える手で開ける。ジッパーに小石が引っかかって、何度も開き直した。

 泥水がわずかにたまったバッグの底に、キャッチャーミットとボールと、財布と学生証が浸っていた。

 一つずつ、壊れやすい化石でも持ち上げるように取り出す。

 キャッチャーミット

 ボール

 膝の上に、猫でも乗せるように置いて、財布を開く。スーパーか百均で買ったようなプラスチックの安物は水を含んでいても軽くって、千円札が二枚と細かいお金は一・二枚の硬貨しか入っていない。カード入れにはTのつくレンタル屋のカードとウチの母が働くスーパーのスタンプカード。

 最後に残った学生証を、怖々持ち上げる。

 県立津々井高等学校

 呼吸がうまくできなくなる。

 表紙を開く。

 二年三組

 出席番号三番

 伊勢湯始歩

 所々、若白髪でまだらになった髪のひよわそうな顔写真が、何がおかしいのか半笑いしている。

 決定的にしてしまった何かが、喉の奥で詰まった。

 手から力が抜けていて、学生証から何かが落ちた。

 海水で濡れた二枚の紙が、地面に落ちた。

 白い二枚を拾って、裏返す。

 写真だった。


 私の、写真だ。


 一枚は、野球帽にユニフォームだから、小学生の頃だ。

 キャッチャーマスクにプロテクタのの始歩と肩を組んで、何かが楽しくて仕方ないとでも言うように、笑って指を二本立てている。

 もう一枚は、一枚目の半分の大きさだった。

 縦半分に切り取られたそれは、一枚の写真の右半分で、去年の遠足で撮ったものだと思う。

 制服姿の私が、スカした顔をしてこっちを見ている。

 遠足中には地元のカメラ屋が同行していて、そういえば、誰だかわからないような女子のクラスメイトと義理で撮った気がした。

 教室前の壁に所狭しと貼り出された写真から欲しい物を選んで注文すると、収入源のないカメラ屋の飯の種になる。

 遠足の写真なんか要らないって、言ってたくせに。

 視界が、不明瞭にぼやける。

 ひとたまりもなかった。

 生あたたかいものが、堰を切る。

 堪えることすらかなわず、嗚咽した。

 一度決壊したら、もう止める気すら失せてしまった。

 声を上げて、泣いた。

 ガキみたいに泣きじゃくる私を守るように、お姉さんが抱きしめる。

 キャッチャーミットを胸に抱えて、わぁわぁ泣いた。

 どのくらい、そうしていただろうか。

 涙で目減りした空間に、墨汁のような後悔が湧いて出てきた。

 私が、これまでの人生で口にした『後悔』なんて、全部嘘っぱちだったのだと気づいた。

 生まれてきた後悔は、今にも私の胸を喰い破って出てこようと腹の中で見境なしに暴れまわっている。

 私が、待ち合わせをすっぽかしたりしなければ。

 私が、昨日の始歩から逃げたりしなければ。

 馬鹿だ。何で今更気づくのだ。

 わかりきったことじゃないか。

 こんなことになるまで、気づきもしない馬鹿だ。

 『もしも』はいつも手遅れだ。

 もしもやり直せるなら、一時に会いにいく。

 もしもやり直せるなら、『気持ち悪いからやめてよね』なんて言わない。

 もしも――


 もしも、()()()()()()()


 「――お姉さん」

 抱きしめられていた腕が解けた。お姉さんを見上げる。

 「“跳躍(ホップ)”」

 縋る。

 「“跳躍(ホップ)”してください。過去に」

 「…友ちゃん、あのね――」

 わかっている。言わせまいと、言葉を被せる。

 「津波が、地震が来る前の過去に“跳躍(ホップ)”してください。お願いします。始歩に伝えてください。逃げろって。そうしたら、始歩は――。お願いします。お姉さんしかいないんです。私、何でもします。だから、お願いだから――」

 「友ちゃん」

 転んだ子供の傷を洗うような、優しい口調だった。

 「過去には、“跳躍(ホップ)”できないの」

 片道切符の時間(タイム)旅行(トラベル)

 わかっている。わかっているのだ。

 でも、

 私は、こんなのは、嫌だ。

 「わかりました」

 ジャージの袖で、涙と鼻水を拭う。

 二枚の写真を入れた学生証をポッケに突っ込み、財布とバッグをお姉さんに手渡す。

 私は、自分の鞄をひっくり返した。

 地面に転がった筆箱からマジックを取り出す。

 ボールに書き殴った。

 『逃げろ始歩。津波来る』

 キャッチャーミットを左手に着けて、立ち上がる。

 「おい、お前それ、遺留品――」

 不審げな警官に睨みをきかせて横にのかせる。

 ボールを握り締めた。

 あれほど憎んでいた熱さと冷たさは、もはや右手にはない。

 空と海は、オレンジ色だ。

 両足の間隔は肩幅。

 マウンドを均すように砂利を蹴る。

 桟橋の先、始歩が釣りをしていたであろう宙に狙いを定める。

 届け。

 お姉さんと同じように、私もボールを過去に“跳躍(ホップ)”できない。

 それでも、私には、これしかないのだ。

 キリストでも、仏陀でもマホメットでもいい。ツァラトゥストラでもアガスティアでも、今の私の願いを叶えてくれるなら、お前らの神様とやらを信仰すると誓う。

 残りの一生処女のまま、山奥で尼さんになって生きてやる。


 過去に、“跳躍(ホップ)”しろ。


 左足を引きつけるように持ち上げる。

 右腕を大きく振りかぶる。

 踏み込んだ左足にかける体重を、

 前のめりに傾く全身から右手に移して加速するイメージ。

 メッセージを乗せた白球は、光線銃のように空気を突き抜けて、


 しかし、“跳躍(ホップ)”しなかった。


 跳ねる(ホップ)ストレートは想像上の始歩のミットを通り過ぎて、

 他愛なく海に没した。

 膝をつく。

 そりゃあ、そうか。

 全身から力が消えていく。

 悪あがきすら失敗に終わって、

 もう、

 私は、動けない。

 思わず、呟いた。


 今更になって気づいた、好きな男の子の、名前だった。


 


 色は光の反射だ。光のないところに色はない。

 だからここは、暗い世界で、黒い世界だ。

 硝子の先には、硝子の向こうの色が見える。

 じゃあ、世界が無限の透明で、その向こうに何もなければ?

 答えは簡単。

 黒だ。

 光を吸収する色は、無限の透明と同じ色。

 宇宙の色だ。

 ぼくは、宇宙の色の中にいる。

 音は力の伝達だ。力のないところに音はない。

 だからここは、無力な世界で、孤独な世界だ。

 液体を伝わる振動が、気体を伝わる振動が音なら、

 触れるもののないこの世界で聞こえる、この音はなんだろう?

 答えは簡単。

 音には形があって、形はぼくの中にある。

 ぼくの外に触れていなくったって、ぼくの中では形が触れている。

 触れている形が震えて、ぼくはぼくの中から音を聞く。

 それが君の声だから。

 ぼくは、ぼくの形が君の中にあると勘違いしたくなって、

 声のする方に、跳んだ。



 

 「友!」

 叫び声に、顔を上げる。

 プールの中から跳ねるイルカのように、叫び声の主が宙に舞っていた。

 彼は非常に格好悪く着地に失敗して、私の目の前でべしゃりと転んだ。

 頭のてっぺんから靴の先まで水浸しで、

 「痛いし冷たい」と見ればわかることを言った。

 顔を上げた彼と同じ高さで目が合って、

 「始歩!」

 私は好きな男の子を抱き寄せた。

 本物のびしょぬれた温かい身体が腕の中にある。

 言葉の体もなしていない声を上げて始歩は困っている。

 私も、同じくらい訳が分からずにいるけれど、

 それでも、らしくないことであっても、

 しばらくはこうしていようと、私は決めた。


 

 「今から行ってくる」

 便所とコンビニどっちだろう。真逆、産婦人科ではあるまいな。

 畳の上でだらだらTVを観ていたぼくは、彼女が干していたブラとパンツのにおいを嗅ぎながらバックパックに突っ込み、「見送りヨロシク」と言い出した段になって、ようやくどこへ行くのかを察した。

 いや、いつに行くのかを、だ。

 セーラー服にバックパックの彼女をチャリの荷台に乗せて、ぼく達は海へ向かった。

 「みんなに挨拶しなくていいの?」

 何も言わずに出発してしまったら、家族はみんな寂しがるだろう。

 補習で缶詰にされている友にも、「あんた、行っちゃう前になんで教えてくれなかったのよ!」文句を言われること必定である。

 「いーの。赤紙もらったわけじゃないんだから、今生の別れじゃないし。湿っぽいのも苦手だもん。お父さんは逆に、てんしょん爆上げで旭日旗とか持ち出しそうでしょ? それに、次は始歩くんと友ちゃんの成人式ごろに行くつもりだけど、私にとっては十分後くらいの話だよ? すぐに会えるんだから」

 あ、宴会の準備はしといてね。どさくさに紛れてお酒飲めるし。と、十八歳がイリーガルな発言をした。

 「でもさ、せめて友にだけでも会ってから」

 怒られるのはぼくなのだから。

 「あぁもう。ゆーゆーゆーゆーうるさいなあ。自適なの? 閑々なの? あのね。せっかくだから、お姉さんはヒトコト言いますけど、君、友ちゃんのこと好きすぎ」

 ハンドルの手元が狂って、ひっくり返りそうになる。動揺したせいなのか、荷台の彼女が抗議するようにガタガタ揺らすせいか。

 「津波の一件があってからは、友ちゃんまでそんなんになっちゃって。お姉さんはね、君たちに顔合わすたび、『この前友がこう言った』だの『あの時始歩がああ言った』だの、惚気話の板挟みですよ。もうお腹一杯。消化不良。桃色の下痢でます」

 車の一台も通らないような田舎交差点を止まって精神を落ち着ける。普段は青か赤かも見ない癖に。

 「友ちゃんで思い出したけど」

 何を言われるかわかったものではない。内心恐々としつつ振り向く。

 「伝言があるから、友ちゃんに言っといて」

 それなら、やっぱり会えばいいじゃないか。と喉まで出てきて、飲み込んだ。余計なことは口にしないのが吉である。

 「何?」

 「これからどうするんですか? って聞かれてて、答えまだ言ってなかったけど」

 セーラー服の彼女は、悪戯っぽい秋波を見せつけて、ぼくに言った。

 「友ちゃんが、あんまり不甲斐ないようなら、始歩くんを未来に攫っちゃうつもりだった。けど、今回は守り切られちゃった。次の回は、手加減しないから」

 二十歳の始歩くんが、まだ“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”だったらね。

 亀を助けたご先祖の漁師から

 過去からやってきた18歳の叔母から

 継いでいるのは、血と健脚だけではない。

 ぼくもまた、彼女らと同じ“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”なのだから。

 ぼくが“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”となったのは、彼女や友と同じ小学校六年生のこと。

 ただ、そのことを友に打ち明けることはできなかった。

 あの頃の友は、自分から野球を奪った“時間(タイム)跳躍(ホップ)”の力を憎んでいたのだから、当然、言えるはずもない。

 ぼくは、荷台の彼女のように、すぐに“時間(タイム)跳躍(ホップ)”をコントロールできるようになったから、周りにその事実を隠すのは容易いことだった。

 六年前の夏から彼女がやってきて、宴会が開かれたあの夜、ぼくは、自分も”時間跳躍者”になったことを告白した。

 経験豊富な先輩だ。これ以上の相談相手はいない。

 すると彼女は、ぼくの話を聞くやいなや、目を輝かせた。

 旅に出ようよ。一緒に、未来に行こうよ。

 酒の入った頭でなくても、それは魅力的な提案に聞こえたはずだ。

 退屈な授業も、面倒な人付き合いも、いつか見たようなTV番組も、つまらない平和も、

 昨日と同じ今日も、

 明日も変わらない毎日も、

 平々凡々な今も、

 全部過去に置いて行ってしまえば。

 コールドスリープもデロリアンもワームホールもないこの潮の香りがする田舎から、

 アンドロイドとエイリアンと月面都市の世界に“跳躍(ホップ)”して、

 未来に、行く。

 でもそれは、片道切符の時間(タイム)旅行(トラベル)だ。

 一緒に行きたい。

 けど、ぼくにはやらなきゃいけないことがある。

 友とぼくは、バッテリーだから。

 “時間(タイム)跳躍(ホップ)”がなくなって、友の気持ちが晴れたなら、

 正直な気持ちを伝えてそれが叶わない願いなら、

 旅に出よう。そう、決めていた。

 「…(しっか)と、承りました」

 「よし」

 信号は、青になっていた。

 未来に行くにはうってつけのお天気だ。ペダルを踏む。

 「ここでいいよ」

 しばらく無言で走り、二人乗りをおまわりに見つかることもなく、防波堤脇の道路で止めた。

 荷台から降りた彼女は痛そうにおしりをさする。

 「頼りになる美人なおねーさんが、かわいいかわいい甥っ子に、“時間(タイム)跳躍者(ホッパー)”の真髄を、伝授して進ぜよー」


 ぴっ。


 右手の人差し指を天に突き、全然恭しくない感じで彼女は言った。

 「けふなり。けふなり。きのふありて何かせむ。あすも、あさても空しき名のみ、あだなる声のみ」

 「は?」

 「『未来』なんて、ないんだよ。始歩くん」

 過去もね。と彼女は黒髪をかきあげる。

 「どこか、ずっと、ずっと、ずーーーーーっと先に未来があって、逆の方に過去があって、その間が今なんだ。…って、思ってた。違ったんだね。()()()()()()()。始歩くん。わたし達には、今だけがあるんだよ」

 もしも、ぼくが彼女と時間(タイム)旅行(トラベル)に旅立ったとしても、

 “跳躍(ホップ)”した先の未来で、友と会うことはできるだろう。

 でも、跳びこした日々の中には、ぼくと友の時間はないのだ。

 「はい」

 ぼくは、笑った。

 彼女は、笑った。

 「ホントに、始歩くんはいい子だね。友ちゃんが羨ましいよ」

 爪先立ちになって、彼女はぼくの頭を撫でた。

 すごく恥ずかしかったけど、「よしよし」と口に出して撫でる彼女に、ぼくはされるがままでいた。

 彼女が、少しだけさみしそうだったから。



 

 始歩が“跳躍(ホップ)”して津波から逃げたことを、お姉さんは気づいていたと思う。

 でも、敢えて言わなかったのだ。

 始歩とは逆のやり方で、わかりきったことを教えられたのだと気づいたのは、夏休みが終わってからのことだった。

 とはいえ、二学期になろうと八月が過去のことになろうと、夏はまだ終わらない。

 加減容赦のない日差しと、

 バックネットに止まった蝉の声と、

 風に運ばれてきた潮の香りでいっぱいのグラウンドで私たちは対峙する。

 野球部のイガグリ頭どもが野次を飛ばした。

 「鬼頭ぉ! きばれよぉ!」「本田ァ、女相手だぞぉ。手ぇ抜いてやれー」「馬鹿。鬼頭は小学生の時、ジュブナイルリーグで優勝したエースだぞ」「本田もだろ」「鬼頭ォ! 勝ってくれェェお前に賭けてるからァァ!」「本田なんかのしちまえー!」「そうだ! 女子マネと二人で花火行きやがって!」「えっ、そうなの!?」「死ねぇえええ! 本田ぁぁあぁ!!」「裏切り者がぁーっ!!」「鬼頭アタマ狙ええええっっ!!」

 超アウェイじゃねえか。

 苦笑する本田がバッターボックスに入る。

 メットを被り直して、暑そうにユニフォームの襟元をひっぱった。

 そんなちょっとした仕草一つ一つに心臓が鳴ったものだったけど、今となっては呆れるほど何も感じない私。

 女って怖ぇ。と自嘲する。

 制服の上にキャッチャーマスクとプロテクタ姿の始歩が、そんな私の心情を知ってか知らずか「集中! 集中!」とわかりきった事を言ってボールを投げた。

 受け取り、ジャージ上下の私はマウンドの上を均す。

 『本田、私たちを勝負しない?』

 始業式が終わってすぐ、私は本田を体育館裏に呼び出した。

 『は? 勝負?』

 『そう。私が投げる。始歩が捕る。あんたが打てば、あんたの勝ち。三振したら、あんたの負け。単純(シンプル)でしょ? それとも、バットの持ち方から教えたほうがいい?』

 当たり前だが、訳がわからない本田はごちゃごちゃ言っている。

 まぁ、いいじゃない。ケジメよケジメ。と絶対にわからないだろうなと思いつつも私は言った。

 『こんなところに呼び出されて、殴られるか告られるかどっちだろうと思ったぜ』

 『は? 調子のんな。あたし彼氏いるし』

 『……え、まじで!? お前が!? 誰と!?』

 『始歩』

 『…あー、納得。…いや、でも、やっぱ意外…』

 『いや、昔から、お前ら二人には独特な雰囲気というか、二人だけの世界観というか、お互い特別扱いで俺には入り込めない仲の良さがあったからな。そういうカンケーにはまるもんなのかよくわからなかったんだが』

 わかりきったことだったのかもな。と本田は頭を掻いた。

 『なあ鬼頭、憶えてるか? お前らが草野球やってたとき、俺が乱入して、今のお前みたいにお前ら二人に勝負ふっかけたこと』

 当たり前だ。あの時の完膚なきまでの敗北が、こいつを追っかけさせた元凶なのだから。

 『俺な、あの時、お前が凄ぇ球投げてたからあんなこと仕掛けた。だけじゃねえんだ。お前と伊勢湯の二人がな、あんまり楽しそうだったから、ちょっと腹が立ったんだよ。俺が苦しい練習我慢して、痛くて嫌な思いしながら頑張ってるのに、何でこいつらはこんな楽しそうな面で野球するんだ。ってな。まぁ、八つ当たりってやつだ』

 何も言えずにいる私に本田は続けた。

 『そんな昔馴染みがくっついたんだな。いいぜ。勝負でもなんでもやってやる』

 ただ、一つ頼みがあるんだが。と小声になって、大変言いづらそうに本田は囁いた。

 『ちょっと前に、津々高(ウチ)に十岐女の生徒が来てたろ。補習やってたお前探してたあの子。知り合いなんだろ? …連絡先、教えてくんない?』

 呆れた。

 『あんた、女子マネはどうしたのよ女子マネは? 甲子園に連れて行ってやるなんて息巻いてたのはどこのどいつよ?』

 それはそれ、これはこれなんだよ。などと悪びれない本田に、私は言い放った。


 『私と始歩に、勝てたらね』


 どこから聞きつけたのか、耳聡い野球部の観客(オーディエンス)審判(アンパイア)がいつの間にやら湧いて出てきて、スコアボードの黒板に落書きみたいな賭け率(オッズ)が書きなぐられている。

 帰宅部の女子生徒が、甲子園常連校の四番に勝負を挑んだのだ。どうやら私に賭けたのは向う見ずな博打好きか面白半分の駄目元狙いばかりらしい。本田が勝ったら、賭けとして成立するのか疑わしくなるほど賭け率(オッズ)の偏った賭け試合。

 舐められたものだ。

 こちとら生来のピッチャーだ。この五年間、野球から足を洗っていたとはいえ、防波堤脇のブルペンで肩はバッチリ温まって今か今かとウズウズしている。

 それに、私には最高の捕手(キャッチャー)が味方についている。


 プレイボール!


 誰かが言った。

 実に楽しそうに笑う始歩の右手が、キャッチャーミットの下でサインを象った。

 きっと、私も同じくらい笑っているはずだ。

 だって、こんなに今が楽しくて止まらないのだから。

 私は頷いた。

 左足を翻す。

 右腕を大きく振りかぶる。

 ストレートは、打者(バッター)の手前の空をホップした。

                                               

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