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第1部 Episode4:『パン』

 俺がそいつを見つけたのは、焼け爛れた、瓦礫ばかりの街の外れだった。


「どうした、坊主、怪我したのか?」


 崩れかけた煉瓦の影に肩を押さえてうずくまっていたそいつは、声をかけられると、まるで生気の感じられない……抜け殻みたいな目で、俺を見上げてきた。

 押さえた肩と、左の腿の付け根に血の滲んだような痕があったが、どちらもドス黒く完全に乾いてしまっている。

 歳は、10を少し越えたくらいであろうか。

 昨日、今日の傷ではないようだったし、放っておいても構わなかったのだが、なんの気紛れか、俺はそいつの前に屈みこんでいた。


「傷を見せな」


 だがそいつは、変わらず無表情な目で俺を見つめるだけで、うんともすんとも、言いやしない。


「別に女じゃねえんだから恥ずかしがることもねえだろう。早く服を脱いで見せろ。じゃねえと、行っちまうぞ」


 言葉ではそう言いはしたが、俺は背負い鞄をおろすと、中から消毒のためのアルコールと包帯を取り出した。

 けれどそいつは、なかなか服を脱ごうとはしない。

 いい加減じれったくなって、本当に立ち去ってしまおうかと思いかけたとき、ようやくそいつはもたもたと服を脱ぎ始めた。


 しかし、照りつける日差しの下にその肌と傷が曝け出された途端……、俺は、言葉を失った。


「…………」


 乾きかけた傷ではあったが、その肉の中に醜く滲んでいたのは、真っ青な血だった。

 服にこびり付いた血は、乾いた泥と混じって黒く変色し、傷口を見るまではその血が青いことには気がつかなかったのだ。


 いや……、今まで話に聞いたことはあったが、本当に青い血の人間がいるなんて、この目で見るまで信じていなかったというほうが正しいかもしれない。


「傷は……、大したことねえみたいだな」


 俺は、出来る限り平静を装い、裂けた肩に包帯を巻いてやった。

 だが青く滲む傷口は、地雷で片足を吹っ飛ばされて死んだ戦友の死体よりも、薄気味が悪かった。

 改めて眺めてみれば、確かにこいつの身体は、坊主にしちゃ……華奢すぎた。



 俺は国境を目指していた。

 続く内乱のなか長いこと前線にいたが、当初は崇高と思えていた反政府運動も、戦いが長引くにつれ、なんだか馬鹿ばかしく思えてしまったのだ。

 どちらが勝っても、この国は、変わらない。

 そんな思いが俺のなかで日増しに強くなっていき、ある日、とうとう俺はキャンプを抜け出した。

 権力者同士の無意味な戦いに捧げるほど、安い命を持ち合わせているつもりは、なかった。



 あの街で、あいつと出会ってから3日目の夜。

 枯れた古木のしたで夜を明かす。

 俺はこの愛想をつかした祖国から脱するために、人目を避け、ひたすら国境を目指して歩き続けていた。

 付いて来い、と言った覚えはない。

 けれど気がつくと、今も俺の傍らには、あいつの姿があった。


「喰いたいか?」


 俺は鞄から、石のように硬いパンを取り出し、あいつの目の前にちらつかせた。

 この3日間、こいつは何も、喰っていない。

 だが俺は決して、自分からこいつに喰い物を分け与えはしなかった。


「いい加減にしな。腹が減ってねえわけじゃねえだろう。喰いたいなら、喰いたいって言いな」

「…………」

「勘違いするんじゃねえぞ。俺がおまえに喰いたいかって聞いてるのは、何もお前に恩を売りたいからでも、物乞いをさせたいからでもねえ」

「…………」

「俺は、死ぬのが嫌なんだ。死なないために、こうして旅をしてるし、パンを喰ってる。だから生き延びようとする気のねえやつに、パンをやるつもりはねえだけだ。それともなにか、サードっていうのは……、死にたがりなのか?」


 俺は容赦なく、言い放った。


 死にたくないと言いながら死んでいくやつを、もう何人も見ている。

 生き延びようと草の根をかじりながら、それでも飢えて死んだ子供の死体を目の当たりにしたこともある。

 サードなんて奴らのこと、詳しく知りはしないし、知りたいとも思わない。

 ただ、生きたいと願わないやつに、死ぬのをただ待っているだけのようなやつに、無駄にメシを喰わせる気などはなかった。


 俺はもういちど、砂の塊のようなパンに噛り付いた。


 だが、その時だった……、パンの砕ける音に混じって、こいつの声を初めて聞いたのは。


「……サードだからって……」

「あ?」

「サードだからって、何も……死にたいわけじゃない……」


 ともすれば、風の音に流されてしまいそうなほどに微かな声だった。

 俺はその声に、身動ぎさえせずに耳を傾けた。


「どうせ、長くは生きられないけど……でも、その時までは……生きていたい……」


 まるで、女みたいな、か細い声。


 しかし、いまこいつは確かに言ったのだ……、生きていたい、と。


「喰いたいか?」


 今しがた、自分の耳に届いた言葉が聞き間違いではなかったということを確かめようと、俺はもういちど同じ問いを投げかけた。


 ゆっくりと……、だが、確実にこいつは抱えた膝に額を埋めるようにして、頷いた。


「喰いたいなら喰いたいと、はっきりと言え」

「…………」

「どうなんだ」


 生きるには、何よりも自分で生きようと思うことが大事なのだ。


「……食べたい……」


 擦れた声が、けれどはっきりと、そう告げた。


 俺は立ち上がってこいつの傍に行くと、その薄汚れた手に、喰いかけのパンを握らせた。


 ……生きたい。


 生き物にとって、ごく当然のことを口にさせただけなのに、こいつの身体は何か大きな罪でも背負ってしまったかのように、がたがたと震えていた。

 それでも俺が手渡したパンをじっと見つめると、まるで獣が肉に喰らい付くように、硬いパンに歯を立てた。


 俺はこのとき、こいつの目に……、初めて光が宿ったのを見た。


「おまえ、名前は?」

「……ジャン……」


 答えながらも、こいつはパンを抱えて、離さない。

 俺はしばらく考えたあとで、こいつの細い手足を眺めて、呟いた。


「国境を越えるまでには、まだいくつもの街をこえることになる」

「…………」

「少ない金でより多くのものを手に入れる方法は、ふたつ。相手を脅すか、相手の情けを誘うか。まあ、できれば俺は、なるべく穏便な方法をとりたい。子供連れってだけでも、そこそこ相手のお情けはもらえるかもしれねえが……」


 俺はそこで一旦言葉をきった。

 こいつはじっと俺を仰ぎ見て、次の言葉を待っていた。


「いいか、おまえの名前は今日からジャンじゃねえ……、ジャンヌだ」

「……え?」

「髪も伸ばせ。最初は邪魔だろうが、結わえるくらいになれば、かえって面倒じゃあなくなる。言っちゃあ悪いが、まだまだこの国の連中は、サードなんてものに慣れてない。サードだと知れて厄介者と街を追われるくらいなら、いっそ女のふりをしているほうがいい」


 遠慮のない俺の言葉に、こいつは気を悪くしたのだろうか。

 そんなことは分からなかったが、しかし俺の言ったことは決して間違いではなかったし、こいつ自身、それは俺以上に身をもって理解しているはずだった。


「ひとつだけ、聞いてもいい……?」

「なんだ?」


 それまでは、ただ無言で俺の話を聞いていたこいつ……、いや、ジャンヌが、僅かに眉を歪めて問いかけてきた。


「サードなのを隠したほうがいいのは、分かってる。でも、どうして……女なの?」

「そんなの、聞くまでもないだろう」

「…………」

「俺は、男より、女と一緒にいるほうが、いい」


 俺は迷うことなく、そう言い切った。

 こんな馬鹿げた雑言が恥ずかしげもなく言えたのは、相手が年端もいかぬ子供だったからかもしれないし、もしくは愛憎を持たないというサードだからという割り切りがあったからかもしれない。


 ジャンヌは一瞬、言葉を失ったように目をしばたかせたが、納得したのか、はたまた厭きれたのか、しかしそれ以上のことは言わなかった。


「無理にとはいわねえが……、どうだ? 別に女の格好をさせたからって、子供相手に可笑しなことする気はねえよ」

「……そんなこと、聞いてないよ」

「そうか。なら、今日からお前は女だ」

「…………」

「俺のために、女に、なれ」


 その瞬間、乾ききった石ころのようなパンが、ジャンヌの手の中で微かに砕けて、地に落ちた。






 食べることは、生き物にとって、本当に大切なことだと思います。

 食べたいと思えなくなったら、それと同時に生きたいというエネルギーがなくなると感じるから。

 

 そういえば、おなか、すいたなぁ……。


 私、まだまだ、生きられそうです。

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