第1部 Episode3:『蝋人形』
マンションの扉を明けると、俺は無言のまま部屋の中へと、足を踏み入れた。
室内には、腹を満たしてから帰宅した俺へのあてつけのように、甘ったるいシチューの香りが充満していた。
「あなた、おかえりなさい」
鍋を掻きまわす手を止めて、妻のルイーザがこちらを振り返った。
美しいブロンド、絹のような白い肌、清楚で優雅な顔立ち、立ち居振る舞い。
近所のヤツラが口をそろえて羨む、うだつの上がらない二流雑誌の記者をしている俺には勿体無いほどの、出来すぎた女房。
それが、彼女だ。
「あなた、お食事は……」
「いや、編集長たちから誘われて、外で食べてきた」
「そうですか……」
ここで文句のひとつでも零してくれればまだ救いもあるのだが、こいつはそんな言葉は洩らした試しがない。
顔色さえも変えることはなく、だた必要のなくなった鍋の火を止めると、エプロンの紐を解き、俺のために寝室の仕度をするつもりなのだろう……、奥へと引っ込んでしまった。
「…………」
俺はそんな彼女の背を見送ると、着古したジャケットをソファのうえに放り投げ、バスルームの扉を開けた。
ルイーザは、その外見を裏切ることもない、正真正銘の深窓の令嬢だった。
それがどういった巡り会わせか、回りまわって、結局俺のところに「払い下げ」られてきたのだ。
* * * * * * * * * * * * * *
めったに連絡など寄こさない田舎の親父から電話が掛かってきて、有無を言わさず見合いをさせられたのは、今から3年ほど前のこと。
無理やり連れてこられたのは、ご大層なホテルのレストランだった。
場違いな辺りの雰囲気に居心地の悪さを感じずにはいられない俺に対し、一方の彼女は、まるでこの空間が彼女のためにしつらわれたのではないかとさえ思えるほど、優美な姿でテーブルについていた。
聞けば、親父の勤める会社の社長の娘というし、それがどうして小心者でお世辞にも有能とはいえない親父の倅……、そうこの俺なんかに声がかかったのか、不思議を通り越して、何か裏があるのではないかと訝しく思わずにはいられなかった。
まあ、その懸念は……結果的には、外れてはいなかったのだけれど。
最初は、大方どこかのつまらない男にでも引っかかって傷物にでもされ、ご令嬢ゆえに引き取り手に窮したのではないか、などと思っていた。
しかし、実際は、そうではなかった。
突きつけられた現実は、もっともっと、苦々しいものだった。
「この子は、子供の産めない身体なんです」
悪びれるふうでもなく、見合いの席でそう言い放った彼女の父親の顔を思い出すと、今でも胸糞が悪くなる。
「失礼ですが……、なにか、ご病気でも?」
突然の言葉に、俺は対応に困り、仕方なしにこう問い返した。
だが、あの父親は彼女のことをまったく見ようとはせず、パイプを咥えたまま淡々とこう告げた。
「いや、病気といえば、病気といえなくもないのだが、実はこいつは……サードなんですよ」
「……え?」
「今までは、我が家では、娘として育ててきましたがね」
耳に飛び込んできた言葉が、信じられなかった。
社会部の記者という仕事柄、サードという人種にも何度か接したことはあった。
男でも、女でもない、性別をもたない性。無性。
当初は黙殺されてきたこの第三の性が、サードと呼ばれるようになったのは、そう古い話ではない。
しかし、今目の前でしとやかにテーブルについている彼女は……、その美しい肢体の曲線からいっても、女性としか見えなかった。
「お恥ずかしい話ですが、こいつは本当にサードなんです。ただ、やはり親類の中にもサードとして世間に出すのに反対をする者もおりましてね、戸籍上は女となっております」
「でも……」
「そう、見た限りでは本当の女のようでしょう? 経済的に余裕のない者達は、そのまま育てるんでしょうが、しかしそれだとサード特有の身体的な未発達さが残る。20歳を越えるころからは、いかにもサードだということが、見た目にも分かるようになってしまう」
「…………」
「だから、こいつにはえらく金をかけましたよ。子供のころから女性ホルモンを与え、体も外見上は女性のように発育をさせたんです。ただ、それでも……やはり、子供は産めないようですがね」
そして彼は、蒼白い煙を細く吐き出した。
当の彼女は、自分のことを話されているのがまるで分かっていないとでもいうように、ただ黙って白いクロスを見つめている。
「おまえ……、子供なんか面倒だから、作りたくないって言ってただろう……」
蚊の鳴くような声で、言い訳がましく親父が脇から呟いた。
肝が小さいことは前から知ってはいたが、焦点の定まらない目で、どうにか俺を丸め込もうと必死なのだけは一目瞭然だった。
いったい幾ら……、握らされたのだろう。
確かに俺は次男坊だ。
兄貴にはすでに子供もあったし、たとえ俺に子供が出来なくても、自分たちは構わないということか。
「まあ、そんな怖い顔をしないでください。ご心配なお気持ちは、よく分かりますがね」
ふいに彼女の父親が、ニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
俺は彼の言葉の意味が分からず、ただ、次の彼の台詞を待った。
「こいつには金をかけたと言ったでしょう。ちゃんと外科的な手術も受けさせてあります。あなたを楽しませるくらいのことは、出来るようにしてありますので」
俺が覚えているのは、そこまでだった。
気がつくと俺は、そいつを……、殴り飛ばしていた。
* * * * * * * * * * * * * *
俺はシャワーを浴び終えると、タオルだけを巻いたまま、いつものように寝室へと向かった。
彼女の父親に手をあげたというのに、それでも最終的にルイーザは俺のところにやってくることになった。
その詳しい経緯は、俺は、知らない。
そしてどうして俺自身もそれを断らなかったのか……、それが今でも分からない。
「あなた……」
ベッドサイドの薄明かりのなか、シーツに横たわるルイーザの肢体が、やけに白く浮かび上がって見えた。
俺が隣に体を滑り込ませると、彼女はいつものように両腕を俺の首筋に絡ませてきた。
この瞬間、俺の腹は、煮えくり返りそうなほどに苛立つ。
それは、彼女が俺を受け入れるのが、俺を愛しているからではないと分かりすぎているからだ。
サードは、無性。
子孫を残すという本能など、はなから無い。
種を残そうとしないサードに、人を愛するという感情は……存在しない。
彼女が腕を伸ばして俺を受け入れようとするのは、ただそうするように、幼い頃からそう教え込まれてきたからに過ぎない。
初めて彼女を抱いた夜、彼女の口から告げられた言葉に、俺は愕然となった。
「父からの言付けです。……娘を引き取ってくれて、ありがとう。だがキミにも人生を楽しむ権利はある。幸いサードは短命だ。娘が亡くなったあとは、また私のところに来なさい。悪いようにはしないから……」
彼女は、こんな言葉とともに……俺のもとに送りつけられてきたのか。
蝋人形のように白い肌の下には、俺とは違う、青い血が流れている。
親の自己利益のためだけに、身も心も、体裁を取り繕えるよう造り上げられてきた、彼女。
彼女を取り巻くどの状況にも、俺は虫唾の走る思いがして、歯噛みをしてしまう。
だが、俺が本当にこの現実を怨んで止まないのは……。
俺がどれほど、彼女の肌に口付けをしようとも、その身体のなかに精を注ぎ込もうとも、彼女の中に……俺を慈しんでくれる想いなど、決して芽生えはしないことなのだ。
自分でも、なんと愚かしいことなのかと何度自嘲しただろう。
人形を愛でる趣味など、なかったはずなのに。
しかし俺は毎夜心の乾きに耐えることが出来ず、この青い血の流れる蝋人形を、貪るように抱かずにはいられないのだ……。
今までの私とは違う感じかもしれませんね。
たしかに普段はあんまりこういうの書かないんですけど、なんとなく……。
なんとなく、なんとなく、なんとなく……。