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第3部 Volume12:『約束』  SIDE:ニック

 薄暗い部屋の中、図々しくも俺はジャンヌのベッドに寝転がると、先程ロイの病室で垣間見た、あの青い血の色を思い出していた。

 奴の頬に浮かんでいたあの擦り傷を目にしたときに、必死に閉ざそうとしていた記憶の扉が、やはり開きかけてしまったのかもしれない。

 

 そういえば、あいつは……ルイーザは料理の上手い奴だったが、一度だけ何かのはずみでナイフの先を滑らせ、白い指先に傷を作ったことがあった。

 ルイーザの「あっ」という声とともに俺が振り返ったとき、あいつはとっさに傷口を隠そうとしていたが、それでもその細すぎる指の隙間からは、覆い切れない青い血が滲み出ていた。

 その血の色を見たときの衝撃を、俺は今でも忘れることができない。

 

 声をかけることすら出来ず、その場に立ち尽くす俺に対し、あいつは少しだけ目を逸らすと……。


「大したことありません、大丈夫です。驚かせて……、ごめんなさい」


 まるで青い血を見せてしまったことが罪悪であるかのように、俺に詫びの言葉を呟いたのだ。


 その後あいつは、素早く自分で傷の手当てを済ませると、まるで何事もなかったかのように料理を再開した。

 しかし、いざふたりで食卓を囲み始めてからも、唯でさえいつも無表情だったルイーザの顔がこの日はいつもより更に強ばっていたように思えてならなくて、そのせいだろうか、俺は普段なら滅多に口にしない台詞を、思わず呟いてしまったのだ。


「このスープ……、旨いな」


 それは、口にした自分自身が呆れるほど、陳腐な言い回しだった。

 けれどあいつは、そんな俺の安っぽい台詞であったのに、それでもその言葉を耳にすると、ほんの少しだけ唇の端を緩めて微笑んだのだように見えたのだ。


 あの時の微笑みは、俺の見間違いだったのだろうか……?


 それが今でも分からない。

 だが、あの時の笑みが今でも俺の胸の中にはっきりと刻み込まれていることだけは、確かだった。


「…………」


 しかし、ちょうどその時だった。

 重い古木造りの扉が開かれたと思った瞬間、小走りでジャンヌが駆け込んできたのだ。

 俺はベッドの上で「守備は?」と呟くと、あくびをしながら大きく伸びをした。


「呑気なものねえ。こっちは、ようやく無事に教授たちをやり過ごしてきたところだっていうのに」


 胸のうちの苦い想いを振り払うかのごとくわざと怠惰を装う俺を見て、彼女は皮肉を零した。

 けれど彼女のそんな言葉は無視をして、俺は構わずに逆に質問を投げかけた。


「ロイの家族たちは?」

「教授たちに連れられて、今頃は事務局で今後の治療方針なんかの説明を受けてるはずよ」

「あの小さな妹も一緒にか?」

「あの子は、いま、教授がクラウドたちに面倒をみさせているわ」

「クラウド?」

「ああ……、あなたはまだ知らないんだっけ。いいわ、他にも話しておいたほうがいいと思うこともあるし、少し説明するわ」


 彼女もやっと、俺のことを相棒として認め始めてくれたということなのだろうか。

 傍らの椅子に腰をおろすと、この学園を取り巻く幾つかの事情と、そして現在の状況とを聞かせてくれた。

 まあ、それらは……あくまで必要最小限の情報でしかなかったのだろうが、彼女がそれを話してくれる気になっただけでも、たいした進展だと俺は思った。


 彼女から受けた説明は、思ったよりも複雑な人間模様を描いていて、俺の興味を誘った。

 まずツェラー教授には、クラウドという息子がいること。

 けれど、なぜかこのクラウドという少年は例のレインというサードと懇意で、今までにも何度となく父親の名前をちらつかせては、密かにこの学園内にも出入りを繰り返しており、そしてレインとの交流を持ち続けていたらしいということ。

 そして先日の嵐の晩にレインと一緒にいたあの少年、彼こそがそのクラウドだったということを、俺は今更ながらに知らされたのだ。


「……なるほど。で、いまロイの妹と、その問題のクラウドとレインの三人は、仲良くお庭で遊んでますってことか」

「まあ、そういうこと」

「それにしても、意外と妙な関係になってるんだな。あのレインと教授の息子が、仲がいい……だなんて」


 俺の脳裏に、カウンセリングのさいに泣き崩れたレインの母親の姿が蘇ってきた。

 あの哀れな母親を持つ、サードのレイン。

 そいつとサード研究の第一人者であるツェラー教授の息子が親しいだなんて、これには何かの因縁でもあるのだろうか。


「しっかし、本当にサードを巡る連中には、何かしらの割り切れない想いが付きまとうんだな……」

「そうかもね……」

「さっき俺が病院で覗いたロイの病室……、一番初めは思わず駆け寄ろうとしてたロイの母親も、とりあえず命に別状がないと分かって一安心したあとは、急に冷静になったんだろうな。そしたらそれと共に、サードである自分の子供へ抱いていた払拭できない複雑な想いが、不意にまた浮かび上がってしまったみたいだったぜ。始終、気持ちのうえではロイのことを心配し続けながらも、結局、彼女は最後までロイの手を握ったりなんかはしていなかった」

「…………」

「なんだかんだ言って、あの母親は今でもロイへの感情を、自分自身……受け止めきれていないんだ」


 けれど今の言葉は、まるきり俺自身の心中を表しているも同然だった。

 愛情と、憎悪と、そして狂気は……、所詮、すべて同じ感情だ。

 俺は思わず胸が詰まりそうになり、その苛立ちを吐き出してしまいたくて、ひときわ大きな溜息をついた。


 けれどその時のジャンヌは、俺とは少しだけ違う物思いに支配されていたらしい。

 彼女は彼女で膝の上できつく両手を握りしめながら、押し殺した声で独り言のように、こう呟いたのだ。


「……でも、とりあえずロイは今のところ落ち着いているわ。それよりもむしろ、私はレインのほうが心配でたまらない」

「レインが? そういえばさっき、レインもあの夜に何かあったようなことを言ってたよな?」


 訊ねた瞬間、彼女の両手に更に力が込められたような気がした。


「詳しいことは本人たちには聞いてないんだけど……、ううん、怖くて聞けなかったんだけど……、あの晩あなたが帰った後、レインとクラウドのふたりが全身泥水まみれで、傷だらけで帰ってきたの」

「え……?」

「でもあの姿は、普通じゃなかった。まるで足を滑らせて、河にでも落ちたみたいな感じだった……」


 ジャンヌは、そこでいったん言葉を切った。

 けれどあえて口には出さなかったが、彼女の話を聞いたとき、一瞬、俺の胸を暗い影が駆け抜けた。

 もし奴らが彼女の言うように河に落ちたのだとしたら、それは本当に、事故……だったのだろうか。

 カウンセリングの時のレインの顔を思い出すと、俺は、答えるべき言葉を見つけることができなかった。


「…………」


 だが、ここで俺たちまで意気消沈したところで、どうすることも出来やしないじゃないか。

 俺は自分自身を奮い立たせる意味も含め、苦笑いを浮かべて立ち上がると、表情を硬くしたのままのジャンヌの肩に手を添えて、彼女の緊張を和らげてやろうと語りかけた。


「でもまあ……、奴らはロイほどの怪我はしていないんだろう? 今はもう、ロイの妹と遊んでやってるくらいなんだから」


 しかし、俺はそう声をかけながら、気付いたのだ。

 この時のジャンヌの肩が、小刻みに……震えていたということに。


 なんだ……? 

 どうして奴らは助かったっていうのに、彼女はこんなに震えているんだ……?


 だがジャンヌは胸の奥に秘めた恐怖が先立ってしまい、自分の身体が震えていることにさえ気付いてはいないようであった。今までは膝の上で握りしめていた両手で、突然彼女は自らの身体を抱きかかえると、喉の奥から搾り出すように擦れる声で力なく叫び出し始めたのだ。


「気を失ってるレインをここまで背負って連れてきたのはクラウドだった。いくら友達が溺れたからって……、たった十四歳の少年が、自分のことを省みずに、普通そこまでのことが出来る……!?」

「…………」

「レインも少しずつだけど、クラウドの影響で変わり始めてる」

「……変わる?」

「このままあのふたりを一緒にいさせるのが……、怖いの。じゃないと、また……リタや、他の子たちみたいに……」

「リタ?」


 初めて耳にする名前に、俺が訝しげな呟き返した、その瞬間……。

 彼女は急に我に返ったかのようにガタリと椅子から立ち上がると、肩に乗せられていた俺の手をも振り払った。


「ジャンヌ……、どうしたんだ?」


 俺は彼女の挙動に面食らいつつも、しかしその昂奮を抑えるために、一歩だけ、彼女に歩み寄ろうとした。

 けれどジャンヌはそれさえも拒絶するかのように数歩後ずさると、薄暗い床板の隅を見詰めたまま、一方的な台詞を矢継ぎ早に繰り出してきたのだ。


「ごめんなさい、いま言ったことは忘れて! それとこのあと数日は私の周りも騒がしくなるかもしれないから、今度あなたが来るのは次の日曜日にして欲しいの」

「日曜? 五日後か……、かまわないけど、何でだ?」

「ロイの家族が、可能な限り日曜ごとに様子を見に来ることになったらしいわ。だから日曜なら事情は今日と同じ。私も多少、他の人の目を盗んであなたと一緒に行動ができる」

「なるほど。分かったよ」

「それから……!」


 彼女はそこで一度深く息を吸い、精一杯の平静を保ったつもりなのだろう、けれど見開いた瞳を激しく揺らしながら……、俺を見詰めゆっくりと唇を動かした。


「研究所のことだけど、今日あれだけ上の階も念入りに探しても見つからなかった。ということは……、たぶんあなたの言うように、恐らく研究所の入口は病院棟ではなく別のところにあると思うの」

「そうだな、それは俺も同感だ」

「ええ。だから次の日曜までに、入口がどこにあるのか私のほうでも探してはみるから、だから……」

「……?」

「だから、次の日曜までは絶対にここには来ないで。それまではあなたを構ってあげられる状況じゃなくなると思うの。だからお願い、それだけは約束して……!」


 言いながら、彼女は震える両手で自らの頬を撫で、そして長い髪が乱れるのも構わずに、ばさりと毛先を掻き揚げた。だがそんな幾重にも絡まりあった髪の隙間から、赤い眼をして俺を鋭く睨む彼女を前に……。


「あ……ああ、約束……するよ……」


 そう答える以外、俺に与えられた選択肢は……果たして、有り得たのだろうか……。






 どうやらジャンヌとニックの物語も、新たな展開を迎え始めたようです。


 何か大きな恐怖に怯えているらしいジャンヌ……。

 果たしてニックは、この謎多き相棒と、どのような運命をともにするのでしょうか……?

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