第3部 Volume10:『肖像画』 SIDE:クラウド
「今度は、あのお花を描いて」
中庭の芝生のうえに並んで腰を下ろし、ローリーは花壇を指差すと、レインにそうねだった。
それに対し奴は「いいよ」と事も無げに答えると、スケッチブックの新しいページをめくり、そのざらついた紙面の上でなめらかに鉛筆を滑らせ始めた。
ローリーは大きな瞳を見開きながら、奴の指先が黒鉛の花々を描き出してゆくさまを、じっと見詰めている。
そして俺はといえば、そんなふたりの姿をやや離れた大樹の幹に寄りかかりながら、ぼんやりと眺めていた……。
ローリーを父さんに無理やり預けられたとき、俺はさてどうしたものかと考え込んでしまった。
だって元々兄弟なんていなかった俺は、年下の……それも女の子を相手に、どう時間をつぶせばいいのか検討もつかなかったからだ。
「ねえ……、まだ身体が辛いなら、私がこの子を預っててもいいけど……」
一応、ジャンヌがそんな申し出もしてくれた。俺はその好意に甘えてしまおうかどうか、一瞬迷った。
けれどそんなジャンヌの言葉に、俺よりも早く返事をしたのはレインの方だった。
「大丈夫だよ。それにジャンヌだって、自分の仕事もあるでしょ?」
「それは、まあ……」
「今日は天気もいいし、みんなで外を散歩でもしてくるよ。ね?」
レインがにこやかに問いかけると、その微笑に親しみを覚えたのだろうか、ローリーもほんの微かにだが、笑みを浮かべ頷きを返した。
その様子にジャンヌは安堵したのか、俺たちにローリーを任せてもよいと思ったようだ。
「じゃあ、みんなで仲良くね」
本当に何か急ぎの用事でもあったのだろうか。
ジャンヌはそう言い残すと、振り返りつつも、足早に廊下の奥へと行ってしまった。
レインがどうしてこの少女を受け入れようと思ったのか、それは俺には分からなかったが……まあ、こうなってしまった以上は仕方がない。
俺たちは手早く身支度を済ませると、ローリーの手を引き、学園の中庭へと赴いたのだった。
ただ、このとき俺が目を見張ったのは、レインの片手に……あのスケッチブックが、抱え込まれていたことだった……。
「はい、できたよ」
紙面の細かな黒粉をかるく叩き落すと、レインはスケッチブックをローリーへと手渡した。
彼女は「わぁ……」と感嘆の声をあげると、瞬きさえもせずに、食い入るようにその絵を見詰めていた。
「絵……、好きなの?」
レインがローリーに問いかけた。
彼女は唇を引き結んだまま、けれど一度だけ深々と頷いて見せた。
「あたしも小さい頃から絵が好きで、色々描いてたけど……、でもあたしは、レインみたいに、こんなに上手には描けないよ」
「僕だって、最初からこんなふうに描けた訳じゃないよ。ただ好きだったから、毎日、描いてただけ」
「毎日?」
「うん……、毎日」
レインは驚くほど素直に、自分のことをローリーに語っていた。
俺はそんな光景を、大樹の陰で、まるで蚊帳の外にいるかのごとく傍観していた。
だが、そうやって他人事のように奴らの遣り取りを眺めながらも、その時の俺の胸中には一言では言い表せない複雑な想いが渦を巻いていた。
まず、一番に俺が信じられなかったのは……。
ほんの数日前までの奴だったら、こんなふうに人前で、ましてスケッチブックに絵を描くだなんてこと、絶対にしてはいなかっただろう。なのに今の奴は、まるで憑き物が落ちてしまったかのように、嬉々としてローリーの望むままに、何枚もの絵を描き続けていたのだ。
これはレインが自分の絵と、自分の命を……、流れる河の水と共に消し去ろうとしていた深い哀しみの呪縛から、少しは解放されたということなのだろうか。
もし、そうなのだとしたら……。
俺は大樹に背を預けたまま重なり合う枝葉を見上げ、そして胸の奥から湧き上がってくる何かを、奥歯を噛みしめることで、必死にこらえた。
「次は? ローリーの好きなものを、何でも描くよ」
「ほんと? じゃあ、えっと……」
だけど、何故だろう……。
喜ばしいはずの光景を前にしながら、俺の胸には実はもうひとつ、淡い灰色の想いも混在していたのだ。
これまでのレインは自分の絵を、決して形に残したり、人に見せようとはしなかった。
ゆえに奴が絵を描くということは、奴の母親でさえ知らなかったのだ。
だからこそ、今まで奴の描く絵の美しさは、俺だけのものだった、はず……なのに。
それが今、俺の目の前で確実に、俺だけのものではなくなっていっていた。
俺とレインは、もう数年間、ずっと時間をともにし続けてきた。
もしかしたら俺にとってレインは、秘密を共有することで繋がれた、兄弟のような存在だったのかもしれない。
それが、奴が他人にも絵を見せ始めたことで、他人にも心を開き始めたことで……きっと俺は、奴が自分の傍から離れていってしまうような……そんな見当外れのもどかしさを感じていたのかもしれない。
なんだかなぁ……。
心の片隅にそんな想いが、ほんの僅かにだが、けれど確実に存在していて、俺は自分の器の小ささを痛感せずにはいられなかった。
だが、俺が思わず自嘲を浮かべた、ちょうどその時だった。
「じゃあ! あたしとお兄ちゃんの絵を描いてくれる?」
思いがけず飛び出してきたローリーの言葉に、俺とレインの「え?」という声が重なった。
しかし彼女はどうやら本気らしく、いそいそと上着のポケットから小さなパスケースを取り出すと、それをレインに手渡している。それまでは傍観者を決め込んでいた俺だったが、この時ばかりは大樹の幹からレインたちの背後へと、引き寄せられるように膝を進めていた。
「これ、お兄ちゃんの写真。この学校にお兄ちゃんが行っちゃう時に、お願いして撮らせてもらったの」
彼女の言葉に誘われるまま、俺とレインはその写真を覗き込んだのだが……。
「……笑ってる……よな、これ……?」
「うん……。でも僕も、ロイが笑ってるの……初めて見た」
俺たちは、ロイの実家の自室なのだろうか……、まるで図書館のような本棚を背にして、照れくさそうに微笑む、写真の中の彼の穏やかな表情を目にし、驚きを隠せなかった。
だが彼女は、戸惑う俺たちを見て不思議そうに首をかしげると、さらりとこう言ってのけたのだ。
「お兄ちゃん、あたしと遊んでくれる時はいつも笑ってくれてたよ? あっ、そうだ! あとね、これも一緒に描いてほしい。これ、お兄ちゃんとね、お揃いなの」
彼女はいたってマイペースだった。
新たな思い付きを口にするや否や、黒い髪の襟足をわずかにもたげると、木目のビーズで繋がれた銀のロザリオをはらりと胸元にさらした。そして彼女はレインの目の前ちょこんと座ると「さあどうぞ」とばかりに、おしゃまな笑顔を浮かべ、ポーズをとって見せたのだ。
なんか、妙なことになってきたな……。
レインの困惑は手に取るように分かったが、俺は思いがけないこの展開に内心ほくそ笑むと、あえて成り行きを見守ってみようと思った。
「え……と、あんまり人を描いたことはないから、自信ないんだけど……」
レインはローリーの顔色を伺いながらそんな言葉を呟きはしたが、しかし「何でも描く」と自分から言ってしまったためなのか、はたまた目の前でポーズを取ったまま微動だにしない彼女の気迫に負けたのか……。
結局、奴は鉛筆の尻で何度か頭を掻いた後……、覚悟を決めたかのように、黙々と鉛筆を動かし始めた。
レインの指が心地よい調べを奏で始めたのを見て、ローリーはさらに瞳を輝かせて微笑んだ。
そしてレインは、そんな彼女と、芝の上にそっと置かれたロイの写真とを交互に見比べながら鉛筆を動かしていたのだが……、いつの間にか、奴は……俺でも今まで眼にしたことのないほど真剣な眼差しで、ふたりの肖像画を紙面に刻み込んでいた。
人の眼ってのは、こんなにまで……変わるものなのか……。
俺は奴の瞳の奥の強い輝きに、思わず吸い込まれそうになってしまう。
穏やかな昼下がり、そんな俺たちの隙間を、涼しげな風がひとすじ吹き抜けていった。
その風はローリーの艶やかな黒髪を柔らかく揺らし、そしてレインの頬を僅かに掠めていったのだが……。
と、その瞬間。
くしゅん、という呟きとともに、レインの肩が小さく弾んだ。
「寒いのか?」俺は、とっさに奴の顔を覗き込んだ。
「ううん、ごめん大丈夫だよ。ちょっと鼻がむずむずしただけ」
レインは何でもないというように、鼻先を軽く擦ると、恥ずかしそうに微笑んだ。
だが、そのすぐ後だった。
「はい。これ、着てていいよ」
その声を耳にして俺たちが顔を上げた時、そこには自分の白い上着を差し出すローリーの姿があった。
「え……、だけど……」
「あたしは平気。でも、レインはサードでしょ? お兄ちゃんもサードだから、やっぱりいつもすぐにくしゃみとかしてた。レインなら、あたしの服でも着れるでしょ? だから、着て」
そして彼女はそっとレインに、白い上着を手渡しだのだ。
「あ、ありがとう……」
彼女の微笑みは相変わらず屈託のないものだったが、しかしその言葉には、心遣いゆえの静かな強さがあった。レインもそれを感じたのだろうか、戸惑いながらもゆっくりと立ち上がると、言われるままに、彼女の上着に袖を通した。
「ほら、着れたでしょ?」
ローリーのはしゃいだ声があたりに響いた。
しかしレインは頷きながらも、ややはにかみを浮かべ……。
「うん。でも、僕……、女の子の服って着たことないから、なんだかちょっと恥ずかしいな。似合ってないよね?」
「そんなことないよ。それに女の子の格好してるサードの子だって、他にもいっぱいいるじゃない」
「それは、そうだけど……」
「絶対似合ってるってば。ねえ、クラウドもそう思うよね?」
「え……!?」
俺は突然矛先を向けられて、言葉に詰まってしまった。
そして、どう答えるべきか……、改めてレインの姿を眺めてみたのだが……。
もともと小柄で華奢だった奴は、女物の服を羽織っただけで、まるで本当の女の子のように見えなくもなかった。今まで少年の服を着ている姿しか見たことがなかったから、思いもよらなかったけど、白いその上着は奴の金の髪の色ともよく映えていて、確かによく似合っていたのだ……。
しかし、俺はそのとき何故か妙にたじろいでしまって、結局俺の口から出てきた言葉といえば……。