第3部 Volume8:『目覚め』 SIDE:クラウド
あの嵐の夜から2日間、結局俺は自分の家には帰っていなかった。
レインの部屋の絨毯の上でブランケットに身を包み仮眠をとっていた俺だったが、カーテンの隙間から差し込んできた日の光が、俺の浅い眠りを現実へと引き戻し始めた。
そんな中、俺は硬い床の上で寝返りを打ちながら、少しずつここ数日のことを思い返していた……。
成り行き、といえばいいのだろうか……。
本来はこの学園の生徒……サードでもない俺が学生寮の中に泊り込むなんて、そうそう認めてもらえる話じゃなかったはずだろうけど、だけど今回に関してはどうやらうやむやのうちに黙認されてしまっているらしい。誰も俺のことを咎めだてする者はいなかった。
でもどっちみち家に帰ったところで、父さんも今回の大惨事のせいで学園内にずっと泊り込んでいたし、だから家政婦に電話さえいれておけば別に俺がどこで何をしていようが、文句を言う奴なんて誰もいなかった。
俺は焦点の合い始めた眼で、自分の片腕をぼんやりと眺めてみた。
あの時は本当に無我夢中だったのだけれど、やはり細かい土石や木切れが無数に河の流れの中に混じっていたのだろう。
改めて見てみれば、俺の腕には、細かい赤い傷跡や痣が幾つも刻まれていた。
二日前のあの晩、俺がレインを背負って学園に戻ってきた時、敷地内は各所で起こった災害のために騒然としていた。いつもの守衛服の連中だけでなく、急遽派遣されたであろう救助隊のような奴等までもが大勢学園のなかを走り回っていた。
そしてそんな混乱した状況の傍らには、全身ずぶ濡れになりながらも守衛たちに声を張り上げ指示を出す、父さんと、メイヤー先生たちの姿もあった。
泥人形のような姿で戻ってきた俺とレインを最初に見つけたのは、メイヤー先生だった。
先生は俺たちのもとへと駆けつけるなり「どこに行っていたの!? 探していたのよ!」と、泣きそうな声で俺たちふたりを叱咤した。
けれど彼女が声を荒げたのはそれ一度きりで、その後はすぐいつもの冷静な表情に戻ると、俺の背中のレインの容態を確認し、
「……眠っているだけみたいね。とにかく今夜は身体を洗って、ゆっくり休ませてあげて」
そうレインの顔の泥を拭いながら、俺に言付けたのだ。
俺は無言で頷くと、言われたとおり寮へと向かって歩き出そうとした。
しかし数歩歩き出したところで、ふいに俺はあることを思い出し、慌ててメイヤー先生を呼び止めた。
「そうだ……先生、ロイは……?」だがこの瞬間、先生の顔色が変わった。
「ロイがどこにいるか知ってるの!? あと見つかっていないのは、ロイだけなのよ!」
彼女はとたんに緊張感を漂わせると、縋りつくように問いかけてきた。
「……随分前だけど、裏山の方に向かっていくのは見えたんだ……。だけど、その時レインは学園の外に歩き出してて……俺は、レインを追いかけるのだけで精一杯で……」
答えているうちにロイを見捨ててしまっていた自分を思い出し、俺は罪悪感から次第に小声になってしまった。
だけど先生は言い淀んだ俺を叱責することはなかった。ただ俺の泥で固まりかけた頭をそっと撫でると、
「ありがとう。裏山ね?」
それだけを言い残し、守衛たちを大声で呼び寄せながら、裏山へと向かい駆け出して行った。
俺はそんな先生の後姿を見送ると、レインを背負いなおし寮内へと向かった。
寮に帰ると、先程はあれほどまでに取り乱していたジャンヌも、すでにいつもの優しい表情を取り戻していた。
そして内心は相当驚きはしたのだろうが、それでもあえて多くは問わず、ただ献身的に俺たちの世話を焼いてくれたのだ。
そして身体を洗い流し、軽く傷の手当を受けた後……、俺はレインの部屋で奴の寝顔を見詰めているうち、とうとう気を失うかのように眠りに落ちたのだった。
そのあと二日間はたまに目を覚ましはしたが、俺自身もほぼ眠り続けたままだった。
眼が覚めるたびに、傍らのベッドで眠っているレインの胸が確実に上下しているのを認めては、また引きずり込まれるような眠りに入る……、そんなことを繰り返していた。
今度もまた目覚めた俺は半身を起こすと、レインのベッドに這い寄り、奴の寝顔を見詰めてみた。
真っ白い顔色はいつも通りではあったけれど、やはり奴の頬にも袖口から覗く細い腕にも、俺と同じような細かい傷跡が幾つも残っていた。
けれど、唯一俺と違っていたのは……奴の身体に刻まれたその傷が、絵の具を滲ませたような青い色だったことだ……。
俺は、そっと、そんなレインの腕の傷跡を撫でてみた。
温かい……。
それだけで俺は、僅かにだが安堵することができた。
けれど俺が撫でている奴の傷跡は、今まで奴が何年も描いていたあの腕の紋様をも、嫌が上にも俺に思い起こさせた。
しかし今になって思えば……腕に絵を描いていたというあの行為自体が、ある意味、自分で自分の身体を傷つけようとしていた、奴の心情の現われだったのかもしれない。
だがそう思えば思うほど、俺は何年もこいつの傍にいながら、それに気付いてやれなかった自分自身の不甲斐なさを悔い、両手で力一杯シーツを握りしめるしか出来なかったのだ……。
しかし……。
窓から差し込む光が少しずつ角度を変え、気がつくとレインのベッドの上までも照らし出し始めていた。
その時、俺はふと……気付いたのだ。
奴の胸に、四角い何かが抱きしめられていたことを。
俺はそれが何であるかに思い至った瞬間、思わず息を呑んでしまった。
だって、それは……、先日俺が奴に贈ろうとした……あの、スケッチブックだったのだから。
二日間の眠りの中で、レインも途中何度かは目を覚ましていたのだろうか。
俺は奴の眠りを妨げぬよう、静かにそのスケッチブックを手にとってみた。
「…………」
表紙をめくり最初のページを眺めてみたが、なぜかそこは一面、鉛筆でただ真っ黒に塗りつぶされていた。
最初俺は、この塗りつぶされた鉛の黒さが、奴の心の闇の深さの現われなのかと一瞬動揺し、息が詰まりそうになった。だが……。
次第に日の光に包まれていく部屋のなかで、黒一色と思えたそのページのなかに、細かな白い点が、幾つも描かれていたのに、俺はいつしか気付いたのだった。
……これは、もしかして……。
黒く塗り潰された闇の中に散りばめられた数え切れないほどの、小さな白い点……。
それが、そう……星空であったことに気付いた時……、俺は思わず溢れ出しそうになった吐息を、口元を覆うことで必死に堪えようとした。けれど、口元を押さえたはずのその指の間を、なぜか熱い滴が流れおちてゆくのだけは止められなかった。
こいつ……聞いていやがったな……。
嬉しいような、それでいて眠っている額を引っぱたいてやりたいような、そんなむず痒い想いが俺の胸の中を埋め尽くした。
だけど俺はこの時になってようやく、自分自身の気持ちを理解したのだ。
今までは、こいつと一緒にいることで他に友達もいなかった奴の心の慰めになってやれないかだなんて奢った思いが、きっと俺の心のどこかにあったに違いない。
でも、本当は、そうじゃないんだ……。
小さい頃に母さんに死なれ、父さんにもろくに構ってもらえなかった俺自身が、きっと……無意識のうちに、こいつの存在を必要としていたんだ。
今までこいつに救われていたのは……俺のほうだったんだ。
それに思い至ってしまった瞬間、俺は奴の掌を力一杯、握りしめてしまった……。
しかし、丁度そのときだった。
「レイン、クラウド、起きてる? 食事を持ってきたんだけど」
扉の向こうでノックの音と、呼びかけるジャンヌの声が聞こえた。
俺は大慌てて袖口で目元を拭うと、スケッチブックを奴の胸元に戻した。
そして、涙の痕を悟られぬようジャンヌの声に軽い調子で返事をすると、扉を開けたのだ。
「どう? もうお昼過ぎよ。さすがによく眠れたんじゃない? といっても、床の上じゃそうもいえないかしら? 空いてる部屋を使ってくれても良かったんだけどね」
言いながら、トレーに乗せた軽い食事を、彼女は机の上に置いてくれた。
同じ台詞は二日前にも聞かされてはいたのだけれど、床の上でもいいからレインの傍にいたいと我侭を言い通したのは俺のほうだった。
「ありがとう。ゆっくり寝かせてもらえたから、俺はもう、大丈夫」
「そう? それならいいんだけど」
そして、俺とジャンヌがそんな遣り取りを交わしている時だった。
それまで眠り続けていたレインが、急に大きくあくびをするのが聞こえたのだ。
どうやら、奴も眠りから目覚めたらしい。
「ああ……おはよう。ジャンヌ」
レインはまるで何事もなかったかのように寝ぼけ声で呟くと、目を擦りながらかすかに微笑んだ。
「おはよう。食欲はある? ここに置いておくから、もし食べられるようなら、少しだけでも食べるのよ?」
「うん。大丈夫、おなか空いてる。食べるよ」
そして、レインは……笑ったんだ。
ジャンヌはそれを見て自分も安心したように微笑むと、レインの前髪を掻き上げ額にキスをし、そして俺の頭も柔らかく撫でてくれた。
だけど、その時ジャンヌが俺を見詰める眼は、どこか穏やかだけど不安げで、なぜか俺の心に奇妙な感覚を抱かせた。どうして彼女は、そんな揺れる眼差しで俺を見詰めるんだろう……?
「ねえ……、ジャンヌ……?」
俺が思わずその疑問を口にしようとしかけた……その瞬間だった。
急に、開きかけた扉の隙間から、廊下の慌しいざわめきと数人の足音が聞こえてきたのだ。
「こちらが、彼の部屋です」
「中を見せていただいても、よろしいですか?」
「もちろんです。ご家族の方なんですから。どうぞ」
「ありがとうございます」
そんな緊張感を漂わせた会話が、廊下越しに聞こえてきた。
「どうかしたの?」
きょとんとした顔で、レインがジャンヌに問いかけた。
彼女は一瞬戸惑いを見せたが、それでもすぐに穏やかな笑みを浮かべると、できるだけ冷静を装い、こう答えた。
「ロイのね、ご家族の方が見えたのよ」
「え?」
彼女の言葉に対し、俺とレインの声が重なった。
そう、ずっと気になってはいたのだ。あの後、ロイが……どうなっていたのかも。
ジャンヌは、僅かに微笑みの裏に影を漂わせながら、俺とレインに、現在のロイの状態を話してくれた。
そして、彼女の語った話によれば……。
嵐の夜から2日後、レインだけでなく、クラウドの心も大きく揺れ動き始めました。
心に傷を抱えていたのは、レインだけではなかったようです。
けれど、そんなふたりをなぜか不安げに見詰めるジャンヌ。
しかしそれは、何故なのでしょう……?