第1部 Episode2:『クレヨン』
今日は、格別に天気がよかった。
晴天の日は、誰が決めたというわけではなかったが、中庭にしつらえた白塗りのテーブルセットで昼食を摂る、それが我が家の習慣になっていた。
「ほら、ローリー。お昼ごはんの時間よ。お片づけをしてちょうだい」
テーブルのうえに12色のクレヨンすべてを並べ、画用紙に頬を擦り付けんばかりにして、「お絵かき」に没頭している末の娘に向かって私は呼びかけた。
けれど、それが聞こえているのかいないのか、彼女は顔さえも上げることはなく、黙々と握りしめたクレヨンを動かすばかりだ。私は両手に山盛りのサラダボールを抱えたまま、大袈裟に肩をすくめてしまった。
今年7歳になったばかりのこの次女は、二人目は無理だろうと夫婦ともに諦めていたときに、思いがけず授かった……、文字通りの、愛娘だった。
そのせいで、傍らのベンチで飼い猫の背をなでている夫には、溺愛している娘のことを目を細めて眺めこそすれ、テーブルを空けるように注意を促してくれる気配などは、まったく、なく。
どこか隅にでも皿を置けるスペースはないものかと、私は白いテーブルの上を、ぐるりと見遣やった。
するとその瞬間、幼い娘の指の隙間から、彼女の描いている絵がちらりと……私の視界に飛び込んできた。
彼女が鷲づかみにしていたクレヨンの色は、青。
そしてクレヨンが折れてしまいそうなほど、力を込めて塗りつぶしていたのは、空。
けれど、今日の爽やかに澄んだ空の色は比較的やさしい色をしていたので……、画用紙の中の空は、現実のそれよりも、いささか青が濃すぎて、どこか薄ら寒い思いがした。
それになにより、私は……青が、嫌いだった。
「ねえ、聞いてるの、ローリー? お絵かきはお仕舞いにして、早くお兄ちゃんを呼んできてちょうだい」
すこし強めの口調でそう声をかけると、ようやく娘は顔をあげてくれ、けれど甘えたように、こう聞いてきた。
「呼んできたら……、あとでまた、ラズベリーのパイを焼いてくれる?」
「ええ、いいわよぉ」
「ほんと!」
私から、大好物であるおやつの約束を取り付けると、娘はとたんに機嫌をよくしたようだ。
広げていた画用紙などをあっという間に片付けると、そのまま一目散に家の中に向かって駆け出した。
そう、いま我が家の2階にいるはずの兄……、果たして兄と呼ぶのがふさわしいのかは分からないが……、とにかく我が家の長子であるその人物を、呼びに行ったのだ。
だが、このとき2階を見上げていた自分は、いったい……どんな顔をしていたのだろう。
「どうかしたのか?」
ふいに呼びかけてくる、夫の声が聞こえた。
私はあわてて平静を装うと、ベンチに腰掛けたままの彼へと、微笑みを返した。
「いいえ、別になんでもないわ。ただ、ローリーも……ずいぶん大きくなったなあと思って」
「そうか……、そうだな」
私の言葉に曖昧にうなずいた彼は、穏やかに口元をほころばせたが、その笑みは先程までとは少々異なった色をしていた。たったこれだけの会話ではあったが、それだけで、私の心のうちに潜む愁いを……、彼なりに感じとってくれたからなのかもしれない。
その証拠に気がつけば、彼の猫を撫でていた手は……いつの間にか、止まってしまっていた。
「あの子ができて、本当によかったわ」
「……ああ、そうだな」
「そういえば、来年からとうとうアメリカも戸籍の管理法を改めることにしたらしいわね」
「そうか」
「ホスピタリティにうるさい北欧なんかじゃ、もうどの国も法律を改定してるっていうし、きっとあと数年もしたらこの国の体制も、ずいぶん……変わるんでしょうね」
「…………」
並べたグラスにソーダ入りのミネラルウォーターを注ぎながら、私は独り言のように言葉を続けた。
思えば、ここ数年でこの国の……、いやこの国だけでなく、世界中の様々な国で人口管理法などが必要に迫られ、次々と改定を余儀なくされている。
考えようによっては、この改革決定が遅すぎたのだとも、いえなくはない。
しかし私たち……、そう幸か不幸か、通常の男女としての性を得て、それが当たり前のこととしてこの世に産まれてきてしまった者たちには……、この現実を受け入れるだけの時間が、どうしても……必要だったのかもしれない。
かつては人口過密から一子までしか出産を認めていなかったというアジアの大国でさえ、今ではこの信じられないような現実に直面し、二子以上の出産を認可せざるを得なくなったらしい……。
「ねえ、あなた。もしも、もしもよ……? 私たちが、ある日突然死んだとしたら、あの子達はどうなるのかしら?」
「おい、何を言い出すんだ、急に」
「だから、もしもよ。もし、私たちが事故か何かで死んだとしたら、この家は……どうなるのかしらね?」
「それはもちろん、あの子たちがこの家を継いで……」
「あの子、たち?」
「…………」
いったい私は、何を言っているのだろう。
母親として、人間として、今の言葉が許される発言でないことなのは、誰よりも自分自身が……一番良く、分かっていた。
ふたりの間に流れる沈黙の中、グラスで揺れるソーダの泡の弾ける音だけが、妙に大きく響いている。
けれど、その瞬間の空気がただならぬ緊張感を孕んでいたことを、本能的に感じたのであろうか。気がつけば、いつの間にか夫の膝にいた飼い猫でさえ、鈴の音とともに、するりと足の間を抜けてどこかにいってしまった。
だが……。
「ママァ、お兄ちゃん呼んできたよ」
突然聞こえてきた娘の声で、私たちふたりは、はたと現実に引き戻された。
「あら、ごめんなさい。いま、支度するわね。ほら、パパもこっちに来て」
「あ、ああ……」
慌てて私が、キッチンに置きっぱなしだった残りの料理を取りにいこうと振り返ったとき、丁度、こちらに向かって歩いてくる細い人影が、目に……映った。
ああ……、これこそが、私がこの世に産み落とした……最初の、子供なのだ。
子供が出来にくいと医師からも告げられていた私たちは、初めての懐妊を医師から告げられたとき、それをどれほど神に感謝したか知れない。
けれど現実は、私たちが思い描いていたほど……甘くは、なかった。
夫婦ともに待ちわび続け、そしてようやく産まれた、最初の子供。
しかし……その子は、男の子でも、女の子でも、なかった。
そう、私が自分の腹を痛めて産んだ最初の子は……『サード』……だったのだ。
出生届けの性別欄を埋める文字は、この子が生まれた当時は、サードに関しては、任意で「M」でも「F」でもよいとされていた。絶望感に打ちひしがれる中、次の子供さえ望めないかもしれない私たちは、考えあぐねたすえ、せめて嫡男として育てようと、出生届を「M」とし、名前も男子の名を与えたのだった。
しかし、今では男の子ではない我が子を、男名前で呼ぶことさえ……虚しくてならない。
「さあ、ロイ。突っ立ってないで、ママと一緒にお皿を運んで」
いつもにまして無表情な彼……に、形ばかりの笑顔をむけ、私は、精一杯の母親を演じる。
「…………」
だが、ロイの口からは返事は聞こえなかった。けれど、それも……いつものこと。
でも、それなのに……この子は私の言うとおり、無言のまま中庭へと皿を運び始めるのだ。
しかし、この子のこういったすべての反応の薄さが、決して笑顔を浮かべない表情の無さが、どうしても生きている人間であるという実感を……、私に与えてはくれないのだ。
私がこの子を授かったのには、いったいどんな意味があったというのだろう……。
野生の鹿は、産まれてすぐに立ち上がることの出来ない子は、生き残れないと判断し、その場に捨て去ってしまうという。熊でさえ、産み落とすのは必ず2頭と決まっているのに、実際に育てるのは、より強い生命力を持っていると思えた子のみで、残りの一頭は、やはり捨て去るのだそうだ。
人間としての理性が、自分の産み落とした子を愛せと、私自身に母親を演じることを、強要する。
しかし、自分の中に間違いなく存在する母としての本能が、種を残すことの出来ないこの子を愛することを、どうしても……拒絶してしまうのだ。
そして、諦めていたふたり目の子供……、ローリーが産まれてしまったいま、その思いは年を追うごとに強くなるばかりで……。
いっそ、野生の動物たちのように……この子を捨て去ることができたら、どれほど気が楽になるだろう。
そんな自分の胸に沸きあがる感情に、人間としては激しく嫌悪するものの、やはり本能としては到底打ち消すことなど……できるはずもなく……。
まして、いま目の前を横切っていく我が子の身体の中に流れる血が、赤でさえなく、塗りつぶされたクレヨンと同じくらい……青い色をしているだなんて……。
人としての理性と、母親の本能としての……、葛藤。
けれど、私にはそんな葛藤を抱えながらも、毎日懸命に、母親を演じ続けるほかは……ないのだ。
これが悪夢なら、一日も早く醒めて欲しいと、何度、願ったであろうか……。
お読みくださっている、みなさまへ。
この物語は、あくまでフィクションです。
ただ、私のなかにずっとあった、「命」ってなんだろうな~という想いを
描いてみたくなって、とうとう書き始めてしまった物語です。
第1部は、すべてショートショートになっておりますので、
まずは深く考えず、この世界観をお楽しみください。