第3部 Volume7:『兄妹』 SIDE:ニック
俺とジャンヌは、最上階から院内の探索を開始した。
俺だって、このアルシェイドほど性質の悪い場所ではないにしろ、今まで胡散臭い幾つもの建物を……正攻法かどうかはどうかは別にしてだが……とにかく、あちこち見て回ってきた経験だってある。
また、サインボードの館内図はすでに頭のなかに叩き込んであった。
それを元にジャンヌの今までの探索結果を聞きながら、ふたりして徹底的に院内を調べ上げていった訳なのだが……。
おかしい……。
確かに彼女の言うとおり、隠し扉のような箇所はなかなか見当たらない。
部屋同士を区切っている壁の厚さでさえ気を配って見て回ってはいたが、何か仕掛けが施せそうな箇所は結局見つからなかったのだ。
俺たちは舌打ちを繰り返しながら、階を下っていくしかなかった。
途中、それなりに病院の関係者ともすれ違いはしたが、俺たちに声をかけてくる奴はほとんどいなかった。
ロイほどの大怪我をした者は他にはいなかったようだが、それでもいつもに比べれば、運び込まれた患者は思いのほか多かったに違いない。
それだけに医師や看護師たちは文字通り浮き足立っていて、俺たちに構っている暇などなかったというのが実際のところなのだろう。
しかしそんな好都合な状況であるにも関わらず、それでも俺たちは研究所の入口を見つけられぬまま、結局次の4階を目指して階段を駆け下り始めた。
と……丁度、その時であった。
「隠れて!」
突然、前を走っていたジャンヌが声をあげたかと思うと、俺は強引に通路の影に引っ張込まれてしまった。
「……どうした?」俺は、様子を伺いながら小声で問いかけた。
けれどジャンヌは言葉ではなく、僅かに視線を動かすことで、廊下の向こうを俺に示した。
何事かと思いつつも、彼女の視線を追いかけるようにして廊下の先を覗き見たのだが……。
……あれは……!
俺は目を見開きながらも、思わず口笛を吹き鳴らしてしまった。
だってこちらに向かって廊下を歩いて来ていたのは……、なんと、白衣を翻しながら厳しい顔つきで歩くツェラー教授と、そのすぐ後に続くメイヤー女史を含める数人の医師たち。そしてさらにその後ろにいたのは、不安げな様子で彼らを追いかけるロイ・ラザフォードの両親たちだったのだ。
「……思ったよりも、お早いご到着だったみたいね」
階段の影に身を隠しながらも、鋭い眼差しで彼らを見詰めジャンヌは呟く。
そういえば先程受付にいた女性も、確かロイの病室は4階だと言っていた。
しまった……、もう暫くは時間の猶予があるつもりでいたのだが、どうやら運悪く、彼らご一行と鉢合わせしてしまったということか……。
「どうする?」
「……少し、様子を見ましょう。どのみちロイのいる13号室はこの廊下の突き当たり……つまり、ここなんだから」
言うと、ジャンヌは自分の手の甲で、目の前の白塗りの壁をコツリと叩いた。
「なるほど。どうしたって、今は下手に動けないってことか」
「そう」
「だったら、逆に少しばかり奴らの様子を探ってやろうじゃないか。正直、ロイの状態も気になってはいたんだ」
俺の言葉を聞くとジャンヌは少しばかり眉を寄せたが、結局は俺の提案に同意したらしい。頷きこそはしなかったが、じっと息をひそめて壁に寄り添い、教授たちが近づいてくるのを待つ姿勢をとった。
いいねぇ……、さすがは俺の相棒だ。
胸の奥でほくそ笑むと、俺自身も彼女のそばに身を屈め、そして間近にまで迫ってきていた一行の足音に……全身の注意を傾けることにしたのだ。
「こちらです」
教授の声とともに、病室の扉が開かれる音がする。
と、同時にやや甲高い女物の靴音が我先にとその病室へと駆け込み、それに続いて他の者たちも病室へと足を踏みいれて行くのが聞こえた。
「……さぁて、どうする? さすがに部屋の中に入られちまうと、ここからじゃ話し声すら聞こえないな」
「そうね。でも、あなたのことだから、どうせもっと様子を探りたいと思ってるんでしょ?」
「そりゃあ、まあな。……あんたは?」
「私? そんなの、決まってるじゃない」
ジャンヌはそう呟くと、急に白壁から身を離し、ロイの病室へと向かい平然と歩き出したのだ。
「お、おい!」
俺は反射的に立ち上がると、慌ててジャンヌを追いかけた。
「大きな声出さないで! 設定は今までと一緒。私はロイの見舞いにきた寮母。あなたはその私の監視役」
「…………」
「でも実際にロイの病室までやってきたら、教授たちが先に面会をしているようだったので、それが終わるまで遠慮して廊下で待っているところです……、筋書きは、それでいいわね?」
「……あんたも、本当に危ない橋を渡るのが好きだな」
「あら、じゃあ、やめておく?」
「いや……、大賛成さ」
俺がそういい終える頃には、すでにロイの病室の前にまで到着してしまっていた。
そして俺たちは壁に背を向け頷き合うと、筋書き通りの役割を演じつつ、扉の隙間から零れてくる話し声へと全神経を集中させたのだ。
「せ、先生……、ロイは、どうして……こんな……!?」
扉越しに、母親の震えた声が聞こえた。
そして、我が子に駆け寄ろうとでもしたのだろうか、数歩パンプスの音がしたかと思うと、すぐにそれを取り押さえるような数人の声と靴のもみ合う音が響いてきた。
「申し訳ありません。すべて私どもの至らなさゆえです。ご子息をお預かりさせて頂いておきながらこのようなことになってしまい、言い訳のしようもございません」……と、この声はメイヤー女史か。
「いえ、今回のことは、私達も学園の皆さまのせいだなんて思ってはおりません。ただ……、どうしてうちのロイだけが……これほどまでの怪我を……?」
「正直申しまして、その理由は私どもも図りかねております。他の生徒でも若干の怪我を負った者はおりましたが、彼らはみな、学園の敷地内におりました。しかし、ロイ君だけは……なぜか、学園の裏山で発見されたのです」
「……裏山!?」
母親の驚愕する声が、部屋の中に響き渡る。
それを聞きながら、俺はゆっくりと……周囲を見渡した。
幸い、回診や食事の時間ともずれているのだろうか、俺たちの他に人の気配はなかった。
俺は突然ジャンヌの肩に手を乗せると、にやり……と微笑みかけた。
僅かに、訝しげな目をするジャンヌ。
だがその次の瞬間には、俺はその場にしゃがみ込むと、細い扉の隙間から中の様子を伺い始めたのだ。
「ちょ、ちょっと…!」
頭上から抗議の声が聞こえたが、それはあえて無視させてもらった。
周囲への見張りは、このさい彼女に一任してもらうことにする。
何てことはない、危ない橋を渡るのが好きなのは……、俺も一緒のようだ。
「なぜ裏山にいたのかは分かりかねますが、けれど発見次第、すぐにこちらに収容させて頂きました。外傷はままありましたが、命に別状はありません。ご安心ください」
白衣の背中で両手を組み、ツェラー教授はそう断言した。
緊張の糸が完全に緩んだ訳ではないのだろうが、それでも母親はやや安堵したのか、傍らの夫の肩に寄り添い大きく息を吐いていた。
カウンセリングの時は、あれほどまでに自分の子供を恐れていた彼女なのに……いま、そこに居るのはただの「子を心配する母」でしかなく、その矛盾がより彼女の哀れさを浮き彫りにしていた。
そして、そんな会話の繰り広げられるなか、当のロイはといえば……。
白いベッドの上で、全身に包帯を巻かれた状態で、懇々と深い眠りに落ちていた。
元々白かったその顔色は更に蒼白さを増し、まるで絵の具のように鮮やかな青い擦り傷が、覆い切れぬガーゼの隙間から覗いていた。
……久しぶりに見たな、あの青い血を……。
俺はロイの肌に浮かぶ青い傷を眼にすると、胸の奥に強い疼きを感じずにはいられなかった。
記憶の片隅から決して消え去ってはくれない何かを思い出し、感傷的になりかけた……ちょうどその時だった。
「ママ……、お兄ちゃん……寝てるの?」
ふいに、あどけない少女の声が、病室の中から聞こえてきたのだ。
俺はその声を耳にして我に返ると、すぐさま顔を扉の隙間にさらに擦り付け、部屋の死角へと出来る限りの視線を向けてみた。すると……今までは気がつかなかったのだが、父親に手を握られ、ただひとりだけこの部屋に場違いな雰囲気で佇む、幼い少女の姿が見て取れたのだ。
「……両親の話はほとんど聞いたことなかったけど、歳の離れたローリーという妹がいる。それだけは、ロイから何度か聞いたことがあるわ」
視線は周囲へ向けたまま、ジャンヌが静かに呟いた。
そういえば先日のカウンセリングの時にも、確か妹が居ると言っていたっけ……。
その少女……ローリーは、せいぜいまだ10歳程度だろう。
両親は慌てて幼い妹を抱き寄せると、それまでの動揺を取り繕うかのように、頭を撫でながら優しげな言葉を愛娘に囁きかけている。ローリーは母の声に軽く頷きは見せながらも、ただ眼だけはじっと……、眠り続ける兄の姿を捉えて離さなかった……。
「では、次はロイ君の寮の自室へもご案内いたしましょうか。そしてその後で、改めて今後の詳しいお話をご相談するということで……」
去り際を見極めたかのような、有無を言わせぬ教授の声が病室の中に響いた。
「まずいわ!」頭上から突き刺さるようなジャンヌの声が聞こえたと思った瞬間、俺はそれと同時に白衣の首を引っ張りあげられていた。
「もう、しっかりしてちょうだい! 危なく部屋から出てくる教授たちとぶつかるところだったじゃない!」
非常階段を駆け下りながら、ジャンヌは俺に怒声を上げた。
「いやあ、悪い、悪い。つい、見入っちまって。で、これから、どうするんだ?」
「私は早く寮に戻らないと。次に、彼らロイの部屋に来るって言ってたでしょ?」
「ああ、そういえば……」
「彼らが寮に行った時、私がいなかったら怪しまれるわ。それに、そろそろレイン達も目を覚ますと思うし」
「レイン? あいつも、どうかしたのか?」
「詳しい話はまた後で! 今は寮に戻るのが先決よ!」
「分かった。じゃあ、それまで俺はどうしたらいい?」
「とりあえず、私の部屋にでも隠れてて。彼らをやり過ごしたら、改めて色々話すから」
「了解!」
そして、俺たちは非常階段を降り切って病院の裏口から飛び出すと、そのまま学生寮へと向かって、一直線に駆け出したのだ。
思いがけず、ロイの家族たちと遭遇してしまったニックとジャンヌ。
そして、10歳の少女として成長した、ロイの妹、ローリーの、再登場。
激しく移り変わる時代の過渡期、そのなかで育つ幼い少女。
この物語の中で彼女が担う役割、ご想像ください。