第3部 Volume4:『星の煌き』 SIDE:クラウド
体中が冷え切っているのに、喉の奥だけが焼けるように……、熱い。
俺は抱えた奴の身体ごと……、這い上がった草むらのなかに倒れこんだ。華奢だと思っていた奴の身体だったが、ずしりと染み込んだ泥水のせいで想像以上に重く、こうやって何とか河岸まで戻って来れたのだって、本当に奇跡だとしか思えなかった。
「……おい、レイン……レイン、しっかりしろ!」
何度か頬を軽く叩き、耳元で名前を呼びかけてみる。
すると次の瞬間、奴は大きく胸を弾ませたかと思うと飲んでいた水を吐き出し、そして咳き込みながらではあるが、徐々に荒い息をつき始めた。
……よかった……。
奴が息を吹き返したのを見たとたん、俺はようやく安心したのか……、思わずふっと気が遠くなりかけた。
けれど丁度その時……。
「ク……クラウド……、どうして……?」
俺の名を呼ぶレインの擦れ声が、俺の意識をぎりぎりのところで繋ぎとめた。
残念ながら俺が気を失えるのは、まだ早かったようだ。
俺がふたたび目蓋を開けてみると、奴は唇の端にこびり付いた泥を拭いながら、咎めるような上目遣いで俺を睨みつけていやがった。その小憎らしい顔を見た瞬間、俺はカッとなって怒鳴り飛ばしてやろうかと思ってしまった。「俺がお前を助けあげるのに、どれだけ苦労したと思ってるんだ……!」と。
だが俺がそんな怒声を上げるよりも、奴の顔に表れた変化のほうが、ほんの少しだけ早かった。
俺の見ている目の前で、奴の恨みがましさを残した目元から……、幾筋もの止まることをしらぬ熱い滴が、後から後から、溢れ出してきたのだ。
……涙?
俺は驚きのあまり怒りさえも忘れて、その涙をただ見つめてしまった。
レインは、サードにしてはまだ笑みを浮かべることは多い方ではあったが、それでもやはり大きく表情を崩すことは滅多になく、少なくとも俺がこいつの涙を見たのは、この時が初めてだった。
「どうして……、どうして、僕なんか助けたの!?」
「どうしてって、そんなの当たり前だろ? 目の前で飛び込まれて、そのまま見過ごせる訳なんかないだろ?」
そう言い返しはしたが、おそらく俺なんかの言葉じゃ、こいつの心には何も届きはしない。
それが解ってしまっていたから、そのあと俺はこいつが泣き叫ぶのを、ただ黙って聞くしかできなかった。
「本当はね、母さんはね、すごく優しい人なんだよ! だって、あんなに哀しい想いをしてるのに、でも僕を施設に入れたりはしないで、ずっと自分の手で育ててくれたんだ! 僕が怪我をして青い血を流すたびに、母さんは泣きながら、それでも僕の手当てをしてくれた。母さんは本当は、自分の子供をすごく愛したかったはずなんだ……」
「……レイン……」
「だから、もし僕がいなくなれば……、母さんはまた別の人と結婚して、サードじゃない子供を産めるかもしれない。母さんのためには、そのほうがいいんだよ。母さんだって、本当はきっとそう思ってるんだ!」
「そんなこと……」
「僕は……、僕はもう、母さんの涙を見るのは……嫌なんだ! だから、お願いだからもう僕には構わないで。それに僕なんかがいなくなったって、クラウドには……、何の関係もないでしょ!?」
だけど、その言葉をきいた瞬間……、
「何バカなこと言ってるんだ! いい加減にしろ!」
俺は思わず我を忘れ、目一杯の大声で奴を怒鳴りつけてしまった。
俺のあまりの剣幕にレインは一瞬びくりと身体を震わせはしたが、しかし零れ落ちる涙は依然止まりを見せることはない。そればかりか、レインは急に俺から目を逸らしたかと思うと、喉の奥から絞り出すように……。
「……そんなこと言ったって……クラウドだって……」
「俺が、何だよ?」
「クラウドが僕をかまってくれるのだって、それは僕の絵が好きだからでしょ? 僕が絵を描いてなかったら、本当はサードの僕となんて友達になったりなんてしてないでしょ!?」
「……お、おまえ、そんなふうに……」
重そうな雨粒に塗れた草の葉をじっと見つめ、レインは小さな唇をきつく噛みしめていた。
けれどその間にも、奴の瞳からは幾つもの涙が零れ落ち、次々に草の葉の隙間に吸い込まれていく。
しかしそのときの俺は、突きつけられた言葉に対し……戸惑いを隠すことができないでいた。
だって、レインがそんなふうに感じていただなんて、今まで考えたこともなかったからだ。
確かに俺がレインに興味を持ったのは、奴の描く美しい絵に心惹かれたためだったし、レインがアルシェイドに入ってからも、時々会いに行っては奴の絵を見せてもらってもいた。
だけど……、だけど、ちがう! それだけじゃ、ない!
でももし、ここまでこいつの心を追い詰めていた原因が、母親だけでなくこの俺にもあったのだとしたら……。
俺は心臓を抉り取られるような、そんなとてつもない恐怖に襲われた。
そして湧き上がってくるその恐怖に、ついに耐え切れなくなった時……、気がつくと俺は、冷え切っていたレインの身体を……力一杯、抱きしめていた。
「ク……クラウド……?」
いきなり抱きすくめられ、さすがにレインも一瞬呆気に取られたようだ。
でも、どうしたらこいつの涙を止めてやれるのか。どうしたら、こいつの心に触れてやることができるのか。
頭の悪い俺にはそれがわからない。わからないからこそ、レインの身体を力の限りに抱きかかえ……、そしてゆっくりと囁きかけたのだ。
「いいか……レイン、よく聞けよ……」
しかし、奴からの返事はなかった。
それでも俺は構わずに、自分なりの精一杯の言葉を探し、奴の耳元に懸命に語りかけ続けた。
「レイン……、俺は確かにお前の絵が好きだ。だけどそれは、お前の絵には、お前の心が描いてあるって思えたからだ」
「……こころ?」
「ああ。だってお前の描く絵は、毎日、違ってただろ? その日の気分で描いてるって、お前は言ってたよな。だけどそれは、毎日ちゃんと、嬉しかったり哀しかったり、色んなことを感じられていたからこそだろ。サードに感情がないなんて、そんなのは嘘だ。お前の描く色々な絵を見てれば、そんなことくらいずっと前から……分かってた。だから俺は他のどんな奴等より、よっぽど優しい心を持ってるお前と、一緒にいたいと思ったんだ」
「…………」
「ごめんな……。悔しいけど、俺にはお前の母さんのことはどうにもしてやれない。母さんが、本当はお前のことをどう思ってるのかも、分からないよ。だけど……、だけど俺自身は、お前がいなくなったほうがいいなんて思ったことは……一度も、ない」
なぜだろう、言いながら……この時は奴よりも、俺のほうが余程震えていたような気がする。
でも、どうしてもあと一言だけ……、こいつに伝えてやらなければならない言葉があった。それは……。
「だから俺は、お前の絵だけが好きなんじゃない。俺にとっては、お前って存在自体が凄く……大切なんだ」
それは、俺にとって不思議な感覚だった。
こいつに対する想いを言葉にしていくうち、自分にとってレインが、どれほど大事な存在だったのかを、俺自身、思い知らされていくかのようであった。
そう、俺にとっての……こいつの存在……を。
しかし、俺がそこまでの想いを口にしたにも関わらず、レインは相変わらず何も返事をしては来ない。
だが腕の中で感じる鼓動は、先程までよりも随分と穏やかになっていた。少なくとも、泣き止みはしてくれたみたいだ。俺はほんの少しだけ安堵し、僅かに腕を緩めると、屈みこむようにしてレインの顔を覗き込んでみた。
けれどその時のレインは……、何となく様子がおかしかった。
どこか虚ろな目をしていて、かといって俺の視線から逃げるわけでもなく、ただぼんやりと瞬きを繰り返していただけだったのだ。
「どうした? 具合でも悪くなったか?」
俺は急に心配になり、慌てて奴の身体を離した。
ところがレインは、逆にふっと腕を伸ばしてきて俺の袖口を握りしめると……、閉じかかった目を俺に向け、そしてこう呟いたのだ。
「ねえ……」
「なんだ?」
「泣くってさ……、すごく疲れるんだね」
「……疲れ、たのか?」
俺は予想外の奴の言葉に、やや拍子抜けしてしまった。
けれど俺が見ているうちにも、レインの目蓋はますます細くなってゆき……。
「僕ね……泣いたのって、産まれて……初めてかもしれない……」
そして、驚いたことに最後の言葉を紡ぎ終えるかどうかというところで、レインは完全に目を閉じると、すっと身体ごと俺の胸に崩れ込んできて、そのまま……寝入ってしまったのだ。
その顔には、先程までとはうって代わって、かすかな微笑さえ浮かんでいるかのようであった。
本気で、寝ちまいやがった……。
俺は奴の寝顔を見ているうち、なんだか自分も気が抜けてしまい……、気がつけばいつしか呆然と空を見上げていた。泣かれたり怒鳴ったりで、それまで辺りを見回す余裕さえなかったのだが……いつの間にか風は止んでいて、雨ももうほとんど小降りになっていた。
そして俺は、まとまらない頭で懸命に思案したのだ。
さて、このすっかり寝息を立て始めてしまったこいつを、どうするべきかを……だ。
僅かに奴の母親の顔が頭をよぎりはしたが、幸か不幸か、俺はまだこいつの家までは知らなかった。
それに、今夜は無断で寮を抜け出して来てしまっている訳だし……結局、俺はレインを背負って、学園までの長い一本道を引き返すしかなさそうだった。
意外と勝手な奴だよなぁ……。
半分呆れながら、水の引き始めたアスファルトの上を、歩く。
しかし、今日一日であった様々な出来事を思えば、レインのサードという体力のない身体には、あまりに消耗が激しかったのかもしれない。とはいえそれも、生きていればこそ、だ。
例の交差点辺りまで戻ってくると、雨もすっかり止んでしまい、今では雲の隙間からちらほらと星の瞬くのさえ見えるようになっていた。
「なあ、レイン……」
俺は、返事がないのを承知で語りかけた。
「見えるか? 凄いよなあ、星っていうのはさ、誰の頭の上にも輝いてるんだぜ。でもな、上を見上げようとしないと、自分の上に星があることにさえ気づけないもんなんだよ。でも俺は、お前の代わりにちゃんと見といてやるからな。お前の上にも、星は……輝いてるんだ。だからさあ、なあ、レイン……。もう、絶対に……いなくなろうなんて……するなよな……」
両手がふさがっていたから、流れてきた涙を拭くこともできなかった。
でも……まあ、いい。
学園までの道は、結構長いんだ。
それまでは、レインが眠っているのを好都合ってことにして……、今のうちに俺自身も、泣いておこうと思った。
見上げてください。誰の頭上にも、星は必ず輝いています。
あなたはそれに、気づいていますか……?