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第3部 Volume3:『黒い河』  SIDE:クラウド

 横殴りの雨に何度も身体を持って行かれそうになりながら、それでも俺は学園からの一本道を必死で駆け下りていった。

 濡れた下り坂のアスファルトがすべり、時折前のめりになりそうになりながらも、俺はようやく町の入口までやってくると、風雨に霞む視界のなかにレインの後姿を見つけた。


「レイン!」


 背後から怒鳴りつけるようにして呼びかけたが、通り過ぎる車の吹き上げる激しい水しぶきが俺の声を掻き消してしまったのか、それともただ奴には振り返るつもりがないだけなのか……、とにかくレインは彷徨うような歩みを止めようとはしない。


 俺がやっとの思いで奴に追いついたのは、むかし俺たちがまだ同じ学校に通っていた頃、いつもここが別れ道と決めていた、あの交差点の手前あたりであった。


「……お、おい、レイ……」


 息も絶え絶えにそう呼びかけようとしたのだが、喉が擦れてしまって、まともな声にはならない。

 とにかく俺は奴の隣に並ぶと、その横顔を覗き込もうとしたのだが……、その瞬間、俺は言葉を失くしてしまった。


 なぜなら、すれ違う車のライトに照らし出された奴の顔は……、俺が今までに目にしたこともないほどに、真っ白な色をしていたのだ……。

 そしてその瞳もまるで焦点が定まっていないかのように虚ろで、なのに怪しい輝きを宿している。

 後姿を見たときには、ただ彷徨っているようにしか見えなかったのだが……、もしかすると奴の眼には、奴にしか見えない、何かが映っているのかもしれない……、そしてレインはそこを目指しているんだ。


 漠然とではあるが、俺は、そう感じた。


 だが、奴が目指そうとしていたものが何なのか、どこなのか、俺には想像さえもつかなかった。

 だから結局……、俺はしばらく口を開くことを諦め、ただ無言で奴の後ろをついていくことにしたのだ。


 やがて俺たちは、交差点を河の方へと曲がった。

 その方向は、そう、レインの家のある方角だ。


 以前なら、あの交差点から先はレインは絶対に俺がついてくることを許してはくれなかった。

 けれど、今は……、レインはそんな咎めさえ、何一つ言ってくる気配はない。

 そもそも俺が一緒に歩いていることにだって気づいてはいないのではないか……、そう疑いたくなるくらい、奴はただ雨に、風に、揺られながら、まるで嵐の中を舞うように歩き続けていたのだ。


 もしかしたら、奴は母親に会うために、自分の家を目指しているのだろうか……?

 ふいに、俺の胸にそんな思いが過ぎった。


 自分で産んだ子供を愛することさえ出来ない、あんな母親ではあるが……。

 いや、あんな母親だからこそなのか、レインは母親に会うために家に向かおうとしているのだろうか?


 ……駄目だ、やめよう。

 いくら考えても、俺のような単純な人間には奴の深い心の奥底なんて、想像など出来る訳がないと思った。


 しかし歩いてゆくに従って、徐々に道は河沿いへと近づいてゆく。

 そして幾らもしないうちに、吹き荒れる風でさえも震わせるような、轟々という凄まじい河の流れる音が聞こえ始めてきた。


 ただでさえ、ここ数日はずっと雨の降る日が続いていた。

 それが今日にきて、天の底が抜けたのではないかと思えるほどのこの大雨だ。

 さぞかし増水しているだろうし、時間がたてば経つほど上流からの水が大量に流れ込んできて、下手をしたら堤防さえ決壊……、なんてことにもなりかねないかもしれない。


 俺は荒れ狂う獣の唸り声のような河の流れを聞きながら、急にそんな不安に捉われ、俯いていた視線を少しだけ堤防のほうへと向けてみた。けれどその時、俺の目に映ったものは……。


 ……あ……あいつ、何やってんだよっ!?


 俺が考え事をしていた、そのほんの僅かな間に……、レインはいつの間にか、こともあろうに堤防の斜面にある、コンクリートの階段を登り始めていたのだ。


「ばか……! 河のほうには行くな! 危ないぞ!」


 思わず叫び声を上げると、俺は弾かれたようにレインを追って駆け出した。


 堤防……、なんていったところで、実際はただ雑草が生い茂っている、子供たちの遊び場みたいな土手と、多少の遊水地が河の両岸に拡がっているだけだ。

 普段はそんなのどかな、田舎町によく似合う風景ではあったのだが……。


 けれど今夜は、いつもとは訳が違う。


 俺はコンクリートの階段まで行くことさえももどかしく、伸び放題の濡れた雑草に足を縺れさせながらも、無理やり土手の坂道を駆け上がった。

 そして何とかぎりぎりのところでレインに追いつくと、俺は後ろから、奴の身体を有無を言わせず羽交い絞めにしたのだ。

 

 だって俺がそうでもしなければ、レインはそのまま河の中にまで、足を……進ませようとしていたのだから。


「おい、いい加減にしっかりしろ! この流れが、見えないのか!?」


 土手のちょうど真上あたりで、俺たちは少しの間、揉み合った。

 でも、レインがどれほど暴れて俺の腕を振りほどこうとしても、俺は決して奴の身体から両腕を離そうとはしなかった。だって、俺たちの足のすぐ下を流れている大量の土砂を含んだ重々しい流れは、俺の予想を遥かに超える激しさで、今立っている所から、たった数メートルも下れば、もう河面に触れてしまいそうなほどだったのだ。


 だが、そんな危険な状況であるということさえ、レインは理解していないというのであろうか。

 気色ばむ俺に対し、奴はこともあろうに軽い苦笑いのような吐息を洩らすと、まるで拗ねた子供を諭すような穏やかな声で、俺の耳元でこう囁いたのだ。


「……ねえ、クラウド、離して……。僕ね、腕を洗いたいだけだから……」

「はぁ? 腕ぇ!?」

「そうだよ……。僕ね、前の学校にクラウドと一緒に通ってた頃は、いつもキミと交差点で別れたあと、この河べりで腕を洗って……、絵を消してから家に帰ってたんだ……」

「…………」

「だから……クラウド、本当に、腕を洗うだけだから……、お願い、離して」


 そしてレインは少しだけ顔を俺のほうに向けると、青い瞳でまっすぐに俺を見つめ、僅かに微笑んだ。

 正直、どうしていいのか……分からなかった。


 レインが今まで俺を、あの交差点以降ついてこさせなかった理由は、もう充分すぎるほどに分かった。

 分かったけれど……、そして今日もまた奴は今までと同じように、この河で腕の絵を洗い流したいだけなのかもしれないけど……でも! いつもの穏やかな河と、今日のこの河ではあまりにも状況が違いすぎる。


 だけど、奴の「……クラウド、お願いだから……」という、背中越しの囁きを耳にすると、俺はつい、あいつの肩を掴んでいた両腕を緩めてしまった……。


「……ありがとう……」


 両腕を自由にされた後で、レインは唇の端にだけ薄く笑みを浮かべ、俺に向かってそう呟いた。


 そして、いつ高波のような激しい流れが来てもおかしくない河の中に、奴は膝まで水に浸かりながら、ゆっくりと歩を進めてゆく。

 瞬く間に、弾け飛ぶ茶色の水しぶきが、奴の服に、顔に、文字通り土気色の染みを作ってゆく。 

 けれど、レインはそんなことは少しも気にしていないかのように、おもむろに左の袖を捲り上げると、淀んだ泡が舞い踊る激しい流れの中にその腕を曝し、丹念に、丹念に、奴の白い肌を埋め尽くしていたあの美しい紋様を、洗い流しはじめたのだ。


 しかし、奴が懸命に洗い流そうとしている絵そのものも、やはり渦を巻く水の流れのような紋様をしていた。

 それはまるで、奴は今日……、初めからここにこうして来ることを、予見していたのではないか……と、俺には思えてならなかった。でも、だとしたら、それはどういう……。


「ねえ……、どう、クラウド? きれいになった?」


 膝まで濁流に浸かったまま、レインは半身だけ俺を振り返り、茶色い水を滴らせる左腕を風雨のなかに掲げて見せてきた。

 たしかに水性のインクで描かれていた絵自体は、ほとんど跡形もなく消えてはいたが……。

 土砂の混じる流れに身を浸している奴の身体のほうが、まるで捨てられた人形のように泥にまみれてしまっていて……、見ている俺のほうが辛くなるほど、無残な有様になっている。それでも……。


「……あ、ああ……。きれいに、なったよ……」


 俺は、そう応える以外の方法を思いつけない。

 レインは、俺の答えを聞くと満足そうに微笑み、そして……。


「そう、よかった……。これで、何もなくなったね。僕が、この世に生きていた証しが、何も……」


 真っ暗な闇の中、腕から伝い落ちる滴と雨とを、両方ともその顔に浴びながらそれでも高らかに、奴は両腕を空に向かって大きく拡げた。


「クラウド……、僕はね、この雨とおんなじ……。青い水と、母さんの涙っていう水だけで、できている」

「…………」

「だからね、本当はいつかこうしたいってずっと思ってたのかもしれない。僕は……いま降り続いているこの雨のように、この河とひとつになって、流れて、流れて、そして消えて無くなりたかったのかもしれない……。それを今日、久しぶりに母さんの涙を見て改めて感じた……」


 辺りに響いているはずの濁流の音は、相変わらず凄まじいままのはずなのに……、そのときの俺の耳には、奴の呟く言葉しか聞こえては来なかった。

 それ以外のすべてが、どこか遠い世界での出来事のようにしか感じられなかったのだ。


 だがこのとき不意に、そんなレインの声を遮るようにして、堤防の下の道を1台の大型車が近づいてくる音が聞こえてきた。

 しかし、そのタイヤの音が俺たちの脇を通り過ぎようとした瞬間……、車のライトが迸らせていったその光は、暗闇に慣れてしまっていた俺の網膜を焼くには、充分な……鋭さを持っていた。


 そしてそれは、俺がその光に目をくらませた、そんな、ほんの一瞬であった……。


「……クラウド、ありがとう……」


 奴は静かにそう呟くと、矢のような雨が降り注いでくる真っ黒な空を見上げたまま……、ゆっくりと……、背後へ倒れこむように、濁流のなかにその身を投げ出したのだ。


「……レ……レイン!!」


 その時はもう、無我夢中だった。

 気がついた時には、後先なんか考えず、俺自身も真っ黒な濁流の中に向かって……、飛び込んでいたんだ。






 レインを追って、自らも濁流の中に身を投じた、クラウド……。

 彼はレインの身を、そして心を、本当に助けることはできるのでしょうか。


 河の流れは、不思議な力を秘めています。

 さまざまな水が流れ込み、そして、より強い力が集められていくからでしょう。

 

 果たして、この河はレインを無に返すのか、それとも力を与えるのか……どちらでしょうか?

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