第2部 Volume5:『スケッチブック』 SIDE:クラウド
いままでにも何度も来たことのある、見慣れた寮内の廊下。
今日もまた、いつものコースを辿って奴の部屋の前まで行き、その扉をノックしようとしたのだが、しかし俺は拳を握りしめたまま、しばらくその場で立ち尽くしてしまった。
……あいつの顔を見て、はたして俺は、平静を保っていられるのだろうか……?
そんな不安が、ふと、胸をよぎる。
だけど奴は、レインは、今日のカウンセリングのさいに起こった出来事を、俺が見ていたなんて気づいてはいないはずだ。だから俺は……、そう、いつも通り、りとめもなく他愛無い会話をすればいい。
それに、今日はあいつに渡したいものもあるじゃないか。
これを渡しながら、ごく自然に、今まで通り接するのが一番いいんだ。
俺は必死で自分にそういい聞かせると、小脇に抱えたあの大きな茶封筒を、きつく胸に抱きしめた。
そして震えそうになる拳を、一度、ぎゅっと握りしめてから……、俺はいつも以上に軽快な調子で三度扉を叩き、奴の返事を待つより早く、朗らかな笑みを浮かべて、その部屋の中を覗き込んだ。
「よう! レイン!」
俺が部屋の中を無遠慮に見回すと、レインは本当にいつもと変わらぬ様子で、そこに居た。
ベッドのうえで、硬い壁に背をもたせ掛けて、そして右手にペンを持ち、左腕をキャンバスに……。
その光景自体がまるで一枚の美しい絵画であるかのように、俺の目には映った。
「……ああ、クラウド……」
しかし俺の姿を目に留めても、レインはペンの動きを止めるでなく、「入れ」とも「帰れ」とも言いやしない。
まあ、そんな調子もいつものことだったので、俺も勝手に部屋の中に入り込むと、レインのベッドに片肘をのせ、そして絨毯のうえに直に腰を下ろすと、わざと大胆にくつろいで見せた。
そう、俺はそうやって、なんとか自分自身の平常心を保とうとしていたのかもしれない。
「とうとう、雨がふってきたぜ」
「そう……」
「……そうって、お前他に言い方ないのかよ」
俺は大袈裟に肩を竦めてみせたが、レインとの会話は、だいたいいつもこんな感じだった。
伸びをしながらぼんやりと天井を見上げると、部屋のなかは白熱球が放つ橙色の光で埋め尽くされていた。聞こえてくるのは、静かな雨だれの音だけだ。
そんな静けさに誘われるうち、俺は自分の興味を抑えられなくなり、首を捻ってレインの左腕に期待込めた視線を向けてみた。
へえ……。
今日の奴の腕に描かれていたのは、水のうねりのような不思議な紋様。
そして、それが淡い光に照らされ、陰影を纏って、いつも以上に幻想的な美を醸し出していた。
「……ジャンヌには、見つからなかったの?」と、俺に視線を向けることなく、レインが呟いた。
「ああ、さっき廊下ですれ違ったよ。初めのうちは、見つかる度に怒られたけど、もう最近は向こうも諦めたみたいだぜ。騒ぎだけは起こさないでこっそり帰るのよって、小声で言われただけ」
「そう。まあ……、相手が教授の息子さんなら、誰だって、きっと強くは言えないんだろうね」
「…………」
「僕も、クラウドのお父さんがこの学園建設の関係者で、そのために転校してきたっていうのは前から知ってたけど……、まさかキミのお父さんがあのツェラー教授だったって知ったときは、正直、ちょっと驚いたもの」
驚いた……と、口ではそう言うものの、やはりレインの表情は先程から少しも変わらない。
俺もこの町にやってきたばかりの頃は、父さんのことを故意に隠していたわけではないけれど、でも周囲から特別扱いされるのがなんとなく嫌で、あえて自分からはその話をしていなかったのは事実である。
それがまあ今となっては、学園内のこいつに会いに来るために、都合よくツェラー教授の息子という立場を利用させてもらっているわけなのだから……、俺自身、自分の身勝手さに呆れないでもなかったが。
父さんだって、俺がけっこう勝手にこの学園に入り込んでいるのを知らないわけではなかったと思うけど、別に今までそれについて、とやかく言われたことはない。
というより、おそらく父さんの頭のなかは研究のことでいっぱいで、俺の動向なんかいちいち構っていられないというほうが正しいのかもしれない。
でも、父さんの俺への無関心さは昔からだったし、常に家政婦を置いてもらっていたから、生活で不自由をしたこともない。
むしろ、このくらい徹底的に放っておいてくれるなら返って気も楽だし、レインに会うという目的を果たすためには、今の状況が俺にとっても好都合であることは、間違いなかった。
「そんなことよりさ、なあ、レイン! 今日は、お前に渡したいものがあって来たんだ」
「……え?」
「ほら、これ」
俺は、今日一日、小脇に抱え込んだままだった、紐付きの大きな茶色の封筒をレインに手渡した。
持ち歩きすぎたのと、途中から雨が降ってきたのとで、やや封筒は型崩れをしてしまっていたが、中のものは別に問題ないはずである。
レインは少しだけ不思議そうに俺を見つめはしたが、それでもゆっくりと腕を伸ばすと、その封筒を受け取ってくれた。だが、巻き紐をとき、中に入っていたものを見止めた瞬間……
「……クラウド、僕、これは受け取れないよ……」
奴には珍しく、唇に薄い苦笑いを浮かべると、レインはそれを俺の手元へと押し戻してきた。
俺が、奴に贈ろうと思っていたもの……、それは、ごく普通のスケッチブックだった。
「どうしてだよ? 別にこんなの高いものでもないぜ? ただ、お前がここに入っちまってからは、前みたいに毎日お前の描いた絵を見られないから、だからせめて、どうせ描くなら腕だけじゃなく、これにも描いておいてくれればなあと思って……」
俺は自分の眼に触れることなく消え去っていく奴の絵が、どうしても口惜しくてならなかったのだ。
しかし、レインは俺ではなく、カーテンさえ閉めていない、その窓の向こうの雨だれを見つめて、ぽつりと答えた。
「……ごめんね、クラウド。でも、やっぱりこれは受け取れない。だって、僕は……サードだから……」
「は? お前がサードだってことと、それとどういう関係が……」
「だって、今日、聞いてたでしょ? 僕の、母さんの話……」
「…………」
「ごめん。窓の外にクラウドがいたの見えちゃった」
そしてレインは、唖然としたまま動けなくなっている俺に、もう一度「ごめんね」と声をかけた。
どうして、レインが謝らなくちゃいけないんだよ……。
謝らなければならないのは……、勝手に盗み聞きしてた俺の方なのに!
そうは思うのだけれど、俺はそのとき頭の中から……すべての言葉を、失ってしまった。
だから、ただ唇を震わせたまま、奴の話を黙って聞くしかできなかった。
「あのとき、母さんが言ってたでしょ? 僕はね、サードだから、何もこの世に残してあげられない。ううん、残しちゃいけないんだよ。だって、サードは寿命だって短いし、たぶん母さんより僕のほうが長くは生きられない。それなのに、下手に僕の作った物とか、描いた絵とか、そういうのを残しちゃったら……、母さんそれを見たら、きっともっと悲しむでしょ?」
「…………」
「だからね、いっそ僕が死ぬときは、本当に何にもこの世に残さないほうがいいのかなって……ずっと、そう思ってた。だから、絵を描くのは好きだけど、今まで一度も母さんには見せたことはないし、形に残したこともないんだ」
そう言うとレインは袖を巻くりあげ、先程まで描いていた左腕の美しい紋様を俺に示した。
そんな……、だから今までこいつは、わざと自分の腕なんかに……。
「でも、そこまでクラウドが僕の絵を好きだと思ってくれてるなんて知らなかったから、キミの気持ちはすごく嬉しいよ。だけど、前にも言ったでしょ。僕はただ、何も残さず、静かにいなくなりたいって。だけどそれはね、もっと本当のことを言えば、僕はこの世に何かを残すのが……怖いんだ」
「……怖い?」
「そう。だって、僕がこの世に生きていても、あとに残せるものはたったひとつだけ……、母さんの、悲しみだけだから」
「…………」
「せっかく持って来てくれたのに、ごめんね、ありがとう。でも……やっぱりこれは返すね」
これ以上はないというほどに穏やかに囁くと、レインは俺の手にそっとスケッチブックを戻した。
その時のレインの顔は、信じられないくらい、俺を慈しむように微笑んでいた。
俺はその微笑みに見つめられれば、見つめられるほど……、息が詰まりそうなくらいの憤りを感じずにはいられなかった。
いったい……、どこのどいつだっていうんだっ!?
サードは感情を持たない生き物だなんて、馬鹿げたことを言ってる奴らは!
サードが感情を持っていないっていうなら、いま、レインが浮かべているこの微笑みの意味は、だったらなんだっていうんだ……!?
「……レイン……、あの、お、俺は……」
やっぱり、俺のほうが、こいつよりもよっぽど意気地なしだ。
本当はこいつに、いっぱい、いっぱい、かけてやりたい言葉があるはずなのに、何一つ、口から出てきやしない。何を言っても、こいつの心を傷つけてしまいそうで、こいつの心を壊してしまいそうな気がして、どうすることも、できなかった。
だがそれは……、ちょうど、そんな時だった!
「ちょっと! あなた、そんなところで、何やってるんですか!?」
突然、寮の裏口のほうから、雨の音に混じって、俺たちの耳に激しい怒鳴り声が聞こえてきたのだ。
ようやく、隠されていたレインの心に触れることが出来た、クラウド。
しかしその心の奥に、長い間、秘められ続けていたのは、深い、深い、哀しみでした……。
なのに、レインの顔に浮かんだ微笑みに込められていた、その想いとは……?
そして、次第に激しさを増す雨のなか、次回、物語は急展開を迎えることになります。
気がついていましたか……?
あなたはすでに、「青の世界」の入口のすぐ前まで、やって来てしまっているのですよ……。