第1部 Episode1:『芝生』
「ねえ、こんどのプロム、誰を誘うかもう決めた?」
学園の中庭にある、敷地内でもっとも大きな樫の古木のした。昼食の後、ぼんやりとそこでまどろんでいたら、不意にそんな声が聞こえてきた。私が形ばかりに眺めていた本から視線を上げてみると、こちらを覗き込んでいたのは、クラスメイトのシンディだった。
「……そういう、あなたは?」
質問に対し、質問で答える。
この応答、日頃何かと口うるさい父親にはよく注意されるのだが、日常生活では思いのほか使い勝手がよいので、つい口にしてしまうことが多かった。
「私も、まだ、誰といくかは決めてないわ」
「そう」
「で、ケイトは?」
「…………」
問い返したことで、最初の質問をなかったことにしたかったのだけれど、どうやらそこまで甘くはなかったらしい。
シンディは、なぜかいたずらっぽい笑みを浮かべながら私の横……、匂いたつ芝生の上に座り込むと、再びこちらを覗き込んできた。
彼女の浮かべている笑みの……、その意味を、私は図りかねてしまう。
「なんで……、そんなに笑ってるの?」
まどろむばかりで大して読み進めていなかった本を、私はぱたりと、閉じた。
「だって……」
「だって?」
「うん? いえね、幼馴染の間柄なのに、ずいぶん水臭いなあと思って」
両膝をかかえ、拗ねたようにこちらに向けているその顔だけが、木漏れ日を映して、淡いまだら模様に揺らめいている。そんな彼女のもの言いたげな視線が、私の心の僅かな動揺を誘った。
そして戸惑い始めた私は、なにかしら問いかけの言葉を紡ごうとしたのだけれど……だが私の言葉よりも僅かに早く、彼女の次の台詞が、穏やかな陽だまりのなかに飛び出してきたのだ。
「ねえ、ケイト。好きな人……できたんでしょ?」
「…………」
「ほら、図星だ」
唐突な友人の言葉に、私は、ガラにもなくたじろいでしまった。
話の成り行きからいって半ば予想できた台詞とはいえ……、こうも面と向かって言われると、いたたまれないこと、この上ない。
「ちょっと待って、シンディ、あのね……」
「やっぱりねえ、おかしいなぁとは思ってたのよね。だって、ジュニア・スクールの頃からずっとクリケットにしか興味を示さなかったあなたが、どうしてか急に髪を伸ばし始めたりするから」
「こ、これは、単なる気分転換で……」
「そう? でも前までは、動くのに邪魔だからって、絶対に伸ばしたりしなかったくせに」
栗色なのは父親ゆずりだが、このどうにもまとまらない猫毛なのだけは母親ゆずりだ。
妙にしおらしくカールして輪郭をふちどってしまうこの髪質が嫌いで、確かに今まではずっとショートカットを貫いてきた。
そう……、今までは。
それが彼女のいうとおり、なぜ急に、髪を伸ばそうかと思うに至ったかといえば……。
「ねえ、いったい誰なの? こんな肩よりも長くなるまで、聞かずに温かく見守ってあげてたんだから……、そろそろ教えてくれても、いいんじゃないかなぁ?」
「…………」
「うちの学校の生徒?」
シンディは、白い頬をやんわりと赤く染めながら、瞳を輝かせ、私の答えに耳を澄ましている。
彼女の傾げた首筋に、柔らかそうなブロンドがひとすじ滑らかにすべり降りてきて、自分の髪もこんな艶やかであったならば、もう少しくらいは、自らの抱いている淡い想いにも正直になれたかもしれないのにと……、私は内心苦笑した。
しかし本音を言えば、この愛らしい幼馴染が、私の髪が肩につくようになるまで、なんとなく今の質問を温めてくれていたのは自分としても薄々気づいてはいたのだ……。だから、その友情に報いるためにもと、私は木の葉の隙間を見上げ、できるだけ平静を装いつつも、結局最後には……、
「分かったわよ」
そう……呟いたのだった。
私の返答を待ちわびていた彼女は、その言葉を耳にするなり、かかえた膝をいっそう強く抱き、そして満足そうに目を細めた。その期待に満ちた青い瞳が、唇いっぱいに浮かんだ嬉しそうな笑みが……、私のかすかな羞恥さえもときほぐし、舌のすべりを滑らかにしていくかのようであった。
彼女の爪先がわずかに芝を擦り、吹き抜けてきたそよ風に、青い香りを織り交ぜている。
私はその芳しい香りを深く吸い込み、抱えた本を訳もなく閉じたり開いたりしながら、そしてそっと……唇を、動かし始めた。
「あのね、隣のクラスの、黒髪の……」
「……黒髪の?」
「ロイっていう人……、分かる?」
けれど、何か不可思議なことでもあったのだろうか。
私が名前を告げたとたん、シンディの微笑が、ほんの少しだけ強ばったような気がした。
だが一度名前を口にしてしまうと、私は私で、シンディの様子が気になりはしたのだが、今まで抑えこんでいた気持ちの箍が外れてしまったのだろうか……、自分でも呆れるほどに溢れ出る言葉を止められなくなっていた。
「本当はね、学校に入った頃からずっと気になってたんだ。だって、同じ歳のほかの男の子なんかと違って、すごく物静かで大人っぽいし、いつも冷静だし、なんて言ったらいいのかなぁ、とにかく雰囲気が違うのよ」
「…………」
「そりゃあ、特に背が高いって訳でもないけど、でもすごく頭はいいのよ。彼、うちの教会に毎週家族で来るんだけど、そのお祈りをしてるときの横顔が、すごくクールでかっこいいの」
私は、そこまでを一気にまくしたてた。
そして傍らにいる友人と、自分自身のほのかな恋の行方に対し、微笑み合えるであろうことを期待し、胸を高鳴らせたのだった。
……しかし。
驚いたことに、シンディは、先ほどまではあれほど輝かせてくれていた瞳を、なぜか今は戸惑いがちに俯かせてしまっている。
私は彼女の愁いの訳を模索したが、けれどその答えを見つけるには至らず……だから結局、彼女の呟きを黙って待つほかは、なかった。
そして、大きく息を吐いたあと、ゆっくりとシンディが語った言葉というのは……。
「ねえ、ケイト……、あの人は、やめたほうがいいよ」
「え? ……どうして?」
「だって、あのロイって人……、男の子じゃ、ないよ」
「…………」
一瞬、シンディが何を言っているのか、分からなかった。
しかしシンディは、私の顔色を伺いながらも、諭すように……静かにこう告げたのだ。
「あのね、ケイト。あのロイって人、あの人は……サードだよ」
「サード? ……うそ、だって……」
「うん、知ってる。男の子だって名簿にも書いてあるのは、知ってる。でも、ほら……今年から、サードに関しての法律が変わったでしょ?」
「…………」
「今までは、男か女、どちらかとして任意で申告をしていいってことになってたけど、今年から規則が変わって、サードの人は、サードとして申告をしないといけないってことになったのよ」
「そ、それは知ってたけど……。でも、じゃあ……」
「うん。ロイってね、本当はサードなんだって……、クラスの子が言ってた」
頭のなかが、一瞬、真っ白になった。
気がつくと私は……「そうなんだ」とだけ答え、中途半端に伸びかけた髪を、指先に絡めていた。
まるで、無意識のうちに、その毛先を引きちぎろうかとしているかのように……。
けれど、大きなため息をひとつ吐いた後……。
私は髪から指を離すと、その代わりに胸の前でわざとらしいほど大きく、十字を切った。
「こないだ、パパが言ってたの……」
「え?」
「サードは、神が人間に与えた、もっとも大きな試練かもしれないって」
「……試練?」
「確かに、そうかもしれないね」
誰にともなく呟くと私は立ち上がり、そして服についていたまだ若い芝の葉を、乱雑にふり払った。
試練。
本当に、そう思うしかないような気がした。
そうでなければ、昨今、この世界に起こっている信じがたい現象……、それの説明の仕様がなかったからだ。
そして、自らが抱いていた淡い恋心を……捨て去るためにも。
「さあ、そろそろ行こう」
「う、うん……」
私は、まるで何事もなかったかのように薄い笑みを浮かべると、むしろ私よりも戸惑いを浮かべたままのシンディを促し、そして足早に、その場を後にした。
けれどシンディは、果たして気付いていたのだろうか。
私が座していた芝が……、これ以上はないというほどに、きつく、踏み躙られていたということに……。
前々から考えていたお話だったのですが、他の書きかけのお話が終わるまでは書かないでいようと思っていたんですけど……、つい、魔が差して書いてしまいました(汗)
とりあえず「Episode」という形で、ショート・ショートをいくつか書いてみたいと思います。
まずは、この『世界観』を、お楽しみいただけたらなと思います。
よろしくお付き合いくださいませ<(_ _)>