一話 アールマティ
私は最後の姫になるのかもしれない。
虹彩溢れる布団を抱きながら、黒い空を見上げる。
私は陽の光を見たことはないけれど、お祖母様が仰るにはとても力強く暖かいものだったそうだ。
「失われた空を見て、何が楽しい。」
背後から声がかかる。父は強い戦士だった。
漆黒の"腕"をもって大空を滑空し、最も速く最も正確にその力強い爪で獲物を捕らえた。
それでいて驕るでもなく、ただただ空の王者としてあり続けた。
そんな話も、話として知っているだけで今の彼からは想像がつかない。
腕の色は灰色に、頬はこけ、目だけがギラついている。
「あの雲の向こうには、まだ陽があるのでしょう。いくら話を伺っても、物語の中ですから。」
「失われたものは戻らない。陽も恵みも。そして我々も。」
吐き捨てるような声が辛い。彼もどうしようもないことだとは分かっている。
強く気高いからこそ、その無力感がやるせないのだろう。
失われた空は一瞬で訪れたわけではない。
徐々に少しずつ蝕んでいった。
人間達は私たちにないその腕で色々なものを造る。生きるために、殺すために。
でも山の上で暮らす私達にはあまり関係がなかった。
いくら木の枝を飛ばそうが、そんなもので戦士達が傷つくことはないからだ。
それに驕ったものたちも過去にはいたようだが、人間の街は恐ろしく強固で、虫のように湧いて出てきた。
それ以降、私たちは私達の生活範囲を維持してきた。
なのに人間ときたら煤を撒き散らした。大量に。理由なんて知らない。また人間を殺すためなんだろう。
空気を蝕むことでどうなるのかなんて考えてもいなかったに違いない。
愚かな人間達はともかく、その煤で空は暗く蝕まれていった。
陽の光が失われていくに連れ、植物も、虫達も、動物たちもどんどん数を減らしていった。
それは食料が少なくなったことや寒さに適応できなかったからだ。
私達には私達自身に暖かさがあり、厚みのある腕がある。
より暖かい山を目指し、無理のない範囲で大地の恵みを頂ければ問題ないはずだった。
「カームが死んだぞ。」
「…そう。残念だわ。」
「弔いの儀を行いながらまた移動する。どうも日が沈むより右側には排煙を撒き散らす人間共がいないようだ。」
「分かりました。準備します。」
"日が沈む"だなんて表現もいやらしい。私達には空がなければ方向も分からない。
移動先を偵察してる戦士があまり戻らないのは不幸があったかもしれないが、それが理由なんだろう。
皆目を伏せがちで、正しく答えてくれないから。私はただただ夢想するしかなくて。
弔いの儀を行う前に彼に、カームシャードに会わなくてはならない。
私と彼は生まれが近く、少なくない交流があった。
立場の違いから一緒に過ごす時間は少なかったけれど思うところは色々ある。
彼は山の中腹あたりにある洞へ安置されていると聴いた。
洞の入り口にあるコケた木に、彼の父が立っている。
疲れきった顔で、やはり空なんて見てなくて。
「…ああ、姫様。お越し頂き…。今日はお願いします。」
「はい。今回のことは非常に残念でした。」
そのしわがれた声は、泣きはらしたためか、煤で喉を痛めたためか。
彼の母は彼を産んだ時に亡くなった。最近の私達にとって最も脅威となっている胸痛だ。
最初は煤で喉を痛め、次に胸を痛める。段々と喋ることが難しくなり最後には呼吸が難しくなる。
まさか人間達がこんな形で私達を追い立てるとは思わなかったと誰もが嘆いた。
人間は多い。原因の排除はできない。であれば受け入れてなんとか生きる希望を探すしか無い。
…それももう難しいのかもしれないけど。
洞には粗雑に敷かれた枯れ草に彼が横たわっていた。側には削られた岩に水が溜まっている。
死因は母親と同じ。陽の光を浴びたことのない若い世代は皆弱い。
深緑の艶やかさで定評のあった彼の父も息子の生まれながらにくすんだ緑色に嘆いた。
彼の父は母を奪い、期待にも応えられない息子を疎ましく思うこともあったらしいがそれでも父親だった。
彼からは再三父親の期待に応えられる戦士になりたいと聴いていた。
それももう叶わない。そんな夢半ばに潰える戦士をもう多く見すぎた。
幼子の頃に耳を啄まれて片耳が変形している彼の頬を少し撫でた。
私は水で口を濯ぐと、彼の肩に噛み付いた。血抜きのされていない獲物の味がした。
骨は噛み切れないので、彼の胸に乗り、足で彼の腕ももぎ取った。
彼と彼の腕の血を洗い流した後、軽く黙祷して腕を持ち帰る。
くすんだ緑でも、厚みがなくてもこれは誰かの暖かさになる。そうして故人の想いを紡いでいくのだ。
洞の中を腕を持ちながら飛ぶのは相変わらず慣れない。
洞の外へ出ると彼の父がこちらを一瞥したが、すぐに目を伏せた。
故人の親類は故人が何者にも冒涜されないよう見張らなければならない。
いくつかの木々の上には女性達が作業をしている。
動物を捌いたり、花を編んだり、おしゃべりしたり。
思い詰めた目をしている男性達よりは幾分か逞しい。
私が近づくと彼女たちははたと会話を止めた。
「あら姫様。…それはカームの?」
「はい。弔いの儀まで干しておいてください。」
「分かりました姫様。カームも健気でいい子だったよ。」
「うちの娘に丁度いいと思ってたんだけど…。残念だよ。」
「あんたのとこはお転婆が過ぎるさね。流石にカームが可哀想だ。」
「茶化すのはおよしよ。ああ姫様。こっちはやっとくよ。花摘みは助けが要るかい?」
「いえ、問題ないと思います。それではよろしくお願いします。」
花摘みは弔いの義の一つだ。故人の腕と同じ色の花を摘み彼への餞別にする。
夕方、空と大地の交わる時間に花と故人を空へ返す。
それはまた誰かの大地の恵みとなる。
緑の花は中々見つけられなかった。夜に舞う黒い戦士のように背景に溶け込んで分からない。
匂いを頼りに探すしかなく、また緑の花は地面に咲くものが多かった。
少し開けた山間に卵のような形の花が群生しているのを見つける。
なんとか夕方までに十分な花を詰めそうだと安心した。
手頃な大葉を噛み切って受け皿にし、一輪ずつ並べていく。
足ではうまく手折れないため口で噛み切るしかないのがちょっと大変だ。首が凝る。
トスッ。
私の近くに何かが飛んできた。何かが落ちてきたのかと見渡すも、周囲には木々はなく開けている。
空にも誰もいない。
よくよく飛んできたものをみると羽のついた木の枝だった。どこかで聴いたような気が…。
なんとか思い出そうとしているうちにまた飛んできた。私の腿に鋭い痛みが走る。
「痛っ。」
直感的に危険を感じて逃げ出す。背後からガサガサと草をかき分けて追ってくる音がする。
急いで、急いで戻らないといけない。そう焦る中さっきの枝が何なのか思い出す。
「に、人間?こんな山奥まで…。」
地面から飛び立つには少し走らないといけない。腕だけですぐ飛び出せるのは優秀な戦士くらいだ。
痛みをこらえて走るが、思うように加速できない。また近くに枝が落ちた。
恐い。どれだけ弔いの儀で人を見送っても、自分の死とはどこかで無関係だと考えていたのかもしれない。
人間達が声を張り上げている。数匹はいるのだろう。そんなやつらが私を狙っている。何のためかなんて知りたくもない。
「誰か…、誰か!」
叫んでも届かないのは分かっている。ここは地面で、私達の領域じゃなくて。ましてや生活範囲内でもない。
戦士達からは人間の住処から遠くはなれていると聴いていたのに!と恨みがましくなる。
何度か恐怖が飛んできた後ようやく飛び立つことができた。必死に空へ駆ける。木々の上にさえ行ってしまえば彼らは飛べない。
追いすがるように恐怖が飛んでくるが空へはあまり届かないようで、なんとか逃げ切れた。
先程の女性達が見えるところまでくると、異変に気づいた女性の一人がこちらに向かってくる。
「姫様!その怪我はどうされたのです!」
私は速度を緩めることなくその女性の胸へ飛び込むと
「人間、来てる。花、詰めなかった。」
とだけ言い残して気絶した。