プロローグ
この世の中に、偽りの無い友情、愛情、好意は存在するのだろうか?昔ならともかく、今、こんな日本に本気の青春を、恋をしている人はいるのだろうか?私は、問うてみたい。『絶望』と呼ばれるこの2030年代の子供たちに。『絶望』と呼ばれて傷つきはしないのだろうか。その『絶望』を創っているのは大人だと気づいているのだろうか。もしも、気づいているのなら何故に責任転嫁しない。逃げてもいいはずだ。たとえ逃げたとしても大人たちは彼らを責めることはできないだろう。逆に私たち大人は気づいているのだろうか。自分たちが悪いのに、自分の不始末をまだ幼い子供たちに押し付けていることを。私はそんな大人たちに尋ねたい。
「絶望」と云われる彼、彼女らに「希望」を見出だしてあげないのか。彼らはまだ幼い、年齢的にも精神的にも。だから、悪い方向に導けば直ぐ付いてくる。だが、逆もまた然りだ。我々大人たちがしっかり良い方に導けばいい。何故彼らの「希望」を潰そうとする。それはおかしいはずだ。だから変えてやる。しかし、大人が大人に訴えても無駄だ。それ故に、子供たちに訴えさせる。だが、子供たちに訴えさせたところで今の大人たちが気づくのだろうか。逆に、子供たちが弾圧され現状より立場が悪化するのではないのか。やはり、どこかで博打を打たないといけないのだろうか。私は賭けるべきだろうか、子供たちの「希望」と大人たちの素直さに。ここが正念場だ、勝負所だ。ここで負ければ、日本の未来は無い。ここで勝てば、「希望」の花が咲くことだろう。とやかく言っても、私は疑いを捨てきれずにいる。しかしそれでは他の人たちと何も変わらないではないか。やはり賭けるしかない。彼らには辛い思いをさせてしまうかもしれない。それでも信じてほしい。たった一人の革命を。こうするしかなかった、こうさせてしまった世の中を。
最後にもう一度聞こう。
パンドラの箱が開かれたこの世の中に託された。箱の奥の奥に詰まっていた、小さな小さな希望を。どんな災厄をも吹き飛ばす可能性を秘めた唯一の武器を。我々は何故信じられない。最後の可能性を、潰すか、開花させるか、後は彼らに託した。我々は信じるだけで良い。
後は、任せた。
(最後の手記より抜粋)