言葉
愛があればなにも言わなくてもわかる、なんて言い出したのは誰でしょう。
「何が不満なの!?」
(ごめんね、こういうところだってわかってる)
「ぎゃんぎゃん喚くなよ!うるさいな!」
(違う違う!おれが悪いんだ)
「もう知らない!」
(嘘、知りたい。なにか悪いところがあったなら直すから)
「ああ、そうかよ!さっさと行っちまえ!」
(傍にいてくれ)
ああ、こんなくだらない喧嘩を何度しただろうか。でも言葉にしなくても、本当はお互いがお互いを大事に思ってると思ってた。だから今までがあったんだと思ってた。
もう遅すぎたね。ごめんね、愛してたよ。想いが、言葉がなくても伝え伝わるものだったらよかったのにな。
雨のしとしと降る中で傘も差さず、雨を避けようともしないわたしはこの都会の中で浮いているだろうか。涙は雨が隠してくれることだけがありがたかった。
けれど、風邪を引いたら明日からの仕事に差し支えると冷静に告げる自分が憎たらしい。仕方なく近くのカフェに寄った。タオルを借りてあったかいココアでも飲もう。幸い涙もそろそろ引っ込んできたらしい。
扉を押し開けるとカランコロンとベルが音を立てて、カウンターの内で本を読んでいたマスターが顔を上げた。
「いらっしゃい」
初老の男性のマスターは、びちょぬれのわたしを見て、おやおやという言葉が似合いそうな顔をする。こちらから願い出る前にフェイスタオルを2、3枚手渡してくれた。
「急に降りましたからね。あったかいお飲み物、飲んで行かれるでしょう?なにになさいますか」
カフェの中には誰もいない。閑古鳥が鳴いているとはまさにこのことだ。
「あ、ありがとうございます……。ホットココアを」
髪を絞り拭きながら告げると、マスターは「かしこまりました」と答えてゆったり見えるのにてきぱきと動き始めた。
席について、ほう、とため息をついた。窓ガラスの向こうは確かに都会で車が走り、人々はせわしなく歩いているのにこちら側はゆったりとした時間が流れているようだ。
「ねえ、マスター。恋愛相談は受け付けられますか」
狭い店なので窓際の席とカウンターは少ししか離れていない。小さな声でも彼は拾ってくれたようだ。
「さて、うまく助言ができるとは限りませんが。お話したいのならいくらでも聞きますよ」
気の良いマスターは出来上がったホットココアを持ってくると、またカウンターの内側に座った。
「あの、これ」
目線の先には湯気の立つホットココアと並んで、マフィンの乗ったお皿。
「サービスですよ。食べきれなかったら残してくれて構いません」
小さなマフィンだったから残すようなことはないだろう。
「ありがとうございます。マフィン大好きです」
その好意が今の自分には染みるようだ。
「わたし、ついさっき彼氏に振られたんです。喧嘩ップルって言われるくらい喧嘩ばかりだったんですけど、まさか別れるとは思いませんでした。特に思い当たることもないんです。いきなり別れを告げられて。結局最後まで喧嘩でした。いつも喧嘩ばかりだったけど、本当に大事なことはお互いわかってると思ってました。別れるなんて思ってもみなかった」
また感情が溢れ出してくる。さっき借りたタオルを顔に押し当てて深呼吸をする。すぐに治まった。
「……そのマフィン、食べてみてください」
マスターは助言もなにもなく、ただそう言った。呆れられちゃったかな。早く食べて帰れって言いたいのかな。少し落ち込みながらフォークを手に取り、マフィンをすくって食べてみた。
「………あれ?」
咀嚼するまでもなく、すぐにわかる。
「いちご?」
口の中に広がる甘酸っぱい味。紛れもなくいちごの味だった。
「ジャムを中に入れたんですよ。お好きですか?」
こくこくと頷く。小さな頃はいちごジャムをそのまま食べて母に叱られたものだ。
「言葉ってねぇ、大事なものなんですよ。言葉を使うのは人間だけ。使わなきゃもったいないじゃないですか。人間はみんな頭が悪いから、相手の気持ちを汲み取るのが苦手なんです。だから言葉があるんです。言わなきゃ伝わりませんよ。そのマフィンだって、言わなきゃ中にジャムが入ってるなんてわからないでしょう?」
マスターは少し意地の悪い笑い方をした。
「言葉がなくても伝わるなんて大きな間違い。当てずっぽならできても、確実にわかるなんてそんなの誰にもできません。あなたは自分の想いをちゃんと口に出したことはありましたか?」
……ああ、そのとおりだな。マスターの少ししゃがれた声が素直に心に沁み込む。
「……わたし、今からでも言わなきゃ」
ぽつりと独り言のように言った言葉を、マスターは頷いて答えてくれた。
ホットココアとマフィンを、勇気のかけらを飲み込んだらもう一度彼に伝えに行こう。
「タオル、洗ってまた返しにきますね」
カランコロン、後ろでベルが鳴る。外はすっかり晴れ上がって虹が出ていた。