満月の下で
宿屋の二階にある客室。
クリスに割り当てられた個室は穏やかな月光で照らされている。
部屋の中には灯りが消えたランタンと数倍にも大きくなった紙切れが転がっている。
紙にはかなり複雑な術式が書かれていて、短期間でこれほどのものを用意できるアベルの実力には改めて驚かされた。
「きれいだな」
「そうね」
クリス(魔王)の言葉に答えたのは、先ほどアベルの術式によって姿を現したクリス(幽霊)だ。
彼女は部屋の中をくるくると飛び回りながら、月明かりを浴びる。
「まったく……とりあえず、一ついいか?」
「何?」
「飛び回るのをやめてほしいっていうのと、もう一つ。なんて呼べばいい?」
「あぁそれ?」
「そうそれ」
一つと言いながら、二つ頼みごとをしたことなど気にする様子もなく、クリス(幽霊)は飛び回ることをやめて窓枠に腰掛ける。
「そうね。あんまり考えてなかったけれど……適当につけて頂戴」
「それでいいのか?」
「それでいいわ。めんどくさいし……それに、あなたがクリスティーヌである以上、私はそれ以外の何者かということになるわ。それに自分で自分に名づける人なんていないでしょ? だから、あなたに任せるわ。幽霊のユウちゃんでもレイちゃんでもどうぞお好きに」
窓に腰掛けて満月をバックにこちらを見るクリス(幽霊)の姿はとても優雅で美しい。
先ほど、無邪気に部屋を飛び回っていたときはあまり感じなかったことだが、彼女は実際は死んでいないんじゃないかというぐらい生気はあるし、足もあるので実はクローンですといわれても違和感がない。
そんな彼女は、どこか期待を込めた目でクリス(魔王)を見つめている。
「難しいこと言ってくれる」
クリス(魔王)は深くため息をついた。
人の名前を決めるというのはそうたやすいことではない。
自分の子供の名前でさえ、時間をかけて考えるのだ。
それに目の前にいるのはクリスティーヌとして16年間生きてきた少女だ。
「ただ、あまり深く考えすぎてもいかんか……」
改めて彼女を見る。
そして、視線をその背後に浮かぶ月へと移した。
「月の輪……明月……メイなどどうであろうか?」
「メイ?」
「そうだ。わしの出身地には月に関する言葉がいくつもあってな。今日みたいに曇りなく澄み切った満月を明月と呼ぶ。どうだ? ぴったりだと思わないか?」
彼女は少し驚いたような顔を浮かべた後、にっこりと笑った。
「……そうね。メイ。気に入ったわ。それにしても、あなたは魔族領の出身じゃなかったの?」
「そうだな。わしは遠い国が出身地でな。海の真ん中に浮かぶきれいな島国だ。まぁ魔王になってからというもの一度も帰っていないが、今でも少し懐かしいと思うときがある」
「帰らないの?」
「あぁ。帰るつもりはない」
クリスはメイに背中を向ける。
「これから王宮でのことでいろいろとアドバイスを受けることになると思う。その辺はよろしく頼む」
「こっちだって最初からそのつもりよ。ただ、基本的には自由にやってもらってもいいわ。どうせ、お父様は私には関心ありませんし、最悪家出をしてもいいかもね。ただ、そんなことやってるから、あなたにさらわれちゃったんだけど」
「うっ」
彼女が言う通り、クリスをさらったのは実のところ意図的なものではない。
約一年半前。路地裏にいる少女を部下がさらってきたという報告があった。最初はよくあることとして気にしていなかったのだが、半年後その少女が偶然にもクリスティーヌその人だということが判明した。
報告を受けた魔王はクリスを魔王城に移し、その状況を利用することにした。
当時、人間側の国と国境に関する協議をしていて、それを有利に進めようとしてでのことだが、それは見事に失敗。逆に反感を買い今に至るのである。
「まったく……ある意味では頭が切れるのあろうな。国王は」
クリスは月を見ながらひとりごちる。
その様子をメイは黙って見つめていた。