小さな宿
魔王城のすぐ近くにある町の宿。
クリスティーヌ姫(中身は魔王)を奪還した勇者一行はこの宿で祝杯を挙げていた。
「良かった! 姫が無事で本当によかった!」
「そうですね。少し強引で魔王がかわいそうに見えてしまいましたが……」
そう語るのは東の島国出身の武道家モモと王宮お抱えの魔法使いリンネだ。
「本当にさ、姫が無事でよかった。あんな人類の害悪のところにいたかと思うと……本当によかった」
うん。君が言う人類の害悪が姫の中身なわけだが、一週間ぐらいの間でやっと、姫やクリス、クリスティーヌと呼ばれて返事ができるようになっていた。
クリスは深くため息をつきながら思考する。
これからどうしよう。
割と真面目な話、王宮に行ってからの対応が何かと困る。
国王とかそもそも顔を知らないし、王宮の構造もまったくわからない。いっそのこと、記憶喪失ということにでもしてしまおうか? いや、そんなウソ絶対にばれるにきまっている。
その時であった。
『……クリス。クリスティーヌ』
誰かが呼びかけてきたのだ。
それも脳内に直接念話を送ってくるという方法でだ。
「誰?」
『……とりあえず、怪しまれないように宿の裏まで着て頂戴。話はそれからよ』
「わかった」
クリスは周りをゆっくりと見て勇者たちが酒盛りで盛り上がっているのを確認した。
「それじゃ、こっそりと」
抜き足差し足忍び足……泥棒ではないが、そんなことを意識しながらこっそりとその場から離れようとする。
「クリス。どうしたんだ?」
それに感ずいたようで勇者に呼び止められてしまった。
「えっと、少しお花を摘みに……」
「そうか。暗いから気を付けろよ」
「はい」
口調から察するに勇者とクリスは相当仲がいいようだ。
まぁクリスも勇者と昔馴染みだというような話をしていたのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが……
勇者パーティが盛り上がっているのを背にクリスは急ぎ気味に宿の裏へと向かっていた。
実をいうとあの念話の声に聴き覚えがあったのだ。
姫をさらってからの約一年間。ほぼ毎日聞いていた声。
死んだはずの本当のクリスの声だった。
「……どこにいる」
小さな宿だったため、あっという間に裏に出た。
「ここだよ。悪いなわざわざ」
そう言いながら黒いローブに身を包んだアベルが姿を現した。
「アベルか」
「そうだよ。魔王城にいた以上私も随分と厄介な身の上になっちゃってね。ゆっくりと話す時間はないから手短に話させてもらう」
アベルはローブの中から青い光が灯るランタンと一枚の紙切れを出した。
「まず、先ほど君に話しかけたのはこのランタンだ。この紙に書いてある術式を起動すればクリス嬢の姿を見ることができる」
「はっ?」
「要するにだ。もしものことを考えて魔王の体からクリス嬢の魂だけを抜き取れる術式を組んでおいたんだよ。それで死ぬ寸前に魂だけ救済した。残念ながら、魂を何かに定着させる魔法は持ち合わせていないからな。今はランタンの中にあるが、その術式を使うことによって霊体としてだが、クリスの姿が見えるようになる。まぁお前さん以外に見えないようにしてあるがな……そういうわけだ。一応、今後もクリスの体に本来の魂が入れられるように努力はしてみるが、先の戦いで水晶が失われてしまってな。時間がかかるかもしれない。それだけ頭に入れておいてくれ」
アベルはランタンと紙切れをクリスに押し付けて背を向ける。
「あれだ。今後、どこかで会う機会があったらよろしく頼むよ」
そう言い残し、アベルは夜の闇の中を歩き始める。
「待て」
しかし、クリスの一言で足を止めた。
「……後悔はしていないのか? わしに関わって、そのせいで大切な研究も無に帰ってしまった。これからもまっとうな生活ができる保証なんてどこにも……」
クリスの問いにアベルは小さくため息をつく。
「後悔なんてあるわけがないだろう。私は自分自身で望んでお前の隣にいた。こうなることも承知のうえでだ。それに、お前のところにいた八年間。案外、悪くなかったぞ」
背を向けたままそう言い、今度こそ彼はその場から立ち去る。
「後悔なんてない。か……」
クリスが空を見上げるとそこには満天の星空が輝いていて、彼の旅路を明るく照らしていた。
「がんばるか」
そろそろ戻らないと怪しまれてしまう。
クリスは新たな決意を胸に宿へと戻って行った。