風穴 7
不二の裾野に広がる広大な林は、密集した樹木がまるで波のように重なって押し寄せる様から、樹海、と呼ばれている。昼も陽光の届かない陰気な密林は、地盤に溶岩流の冷え固まった鉄が多いせいか、方位磁針が正しい方向を差さずに迷うと言われる。
だが女神は、封神を案内しながら、
「方角がわからなくなるほどの奥まで来るのは、もう帰る気のない人間だもの」
とその噂を否定した。
樹海は人間界で言う自殺の名所である。
樹海を掠めるように通る国道。そこで車と運転手を乗り捨てた此花と黒岩は、不二の麓にしては起伏の少ない林間を進んだ。
一応、人間が入って来られるような遊歩道や村落もあるのだと、女神は説明する。だが二人が歩いているのは、そういう整備された環境からは程遠い原生林だった。
見事な黄葉を見せるミズナラの巨木。その枝にかかる古びた荒縄を指さしながら、少女は苦にした様子もなく、言う。
「あれは去年のお正月に自殺した男のもの。この樹は、ああいう人たちにとってはお気に入りになっちゃうみたい」
この美しい樹木は、すでに10人以上の生命を断っているという。
なぜ人間は自ら死を選ぶのか。生きることはそんなにも耐え難いことなのか。
過去、遊永が都だったときに起こった権力闘争では、国家元首の地位を求める人間たちが、欲望のためにお互いを消し合った。彼らは、おのれの欲には忠実であったが、自己を否定する執念はほとんど持ち合わせていなかった。
その歴史をそばで見てきた黒岩には、現在の人間がおのれを討伐することに情熱をかけてしまう心根が、どうにも間違ったものに見えてしまう。
人間とは、本来、自分の満足のために生きるものではないのか。満足を覚えることに罪悪感を持つ現代人の生き方は、どこか歪んでいるのではないか。
封神の違和感を後押しするように、此花は、この地で死を選んだ人間たちの末路を伝える。
「いまでもずっと後悔しているのよ。もっと生きたかった、とか、理解のない世の中に殺された、とか。馬鹿みたい」
自ら命を断った結末にさえ不満を漏らす人霊たちは、いつになったら己の本質と向き合うことができるのだろうか。
そこからしばらく歩くと、ほどなく。
ひゅうひゅうと耳障りに甲高い風音を鳴らす空間が、二人の前に現れた。
「ここに捨てられたの」
女神は地面を割くように開いた大穴の中を指さして、母子の遺体の所在を教えた。
「不二の底にはたくさんの洞があって、たまにこういうふうに入り口を覗かせているのよ。中はたぶん地底湖になっていると思うわ。たまにびしょ濡れの霊体がよじ登ってくるもの」
ぱらぱらと細かい崩落を見せるその穴に顔を突っ込み、黒岩は、
「そんな中に入れってか?」
と露骨に嫌悪感を表した。母子の霊魂との対面は覚悟していたが、遺体を追って闇の支配する地下空間に突入するのは、想定外だったからだ。
それに対し、
「亀さんが入ってくれなかったら、わたくしが入らなきゃならなくなるわ。行って」
にべもなく促す此花。
「この穴には赤鱗竜もいるかもしれないの。あの子は普段、不二山の地下で眠っているもの。万一あの子に見つかったら、無事では済まないわ。亀さんに協力を頼んだのは、そういう意味もあるの」
なんだか釈然としない理由に、
「……俺に万一のことがあるのはいいのか?」
と黒岩が不平を漏らすと、女神は
「全然問題ないわ」
とさらりと答えた。そして続ける。
「わたくしが赤鱗竜に害されてしまえば、不二山は終わってしまう。そうすれば人の営みにも大きな被害が出るわ。亀さんが死んでしまっても、わたくしが気に病むぐらいのことで、他には影響ないもの」
お願いします、と、急にしおらしく頭を下げる女神に、困惑する封神。
地の底へと続く細くて急な傾斜を、半ば滑り下りながら、黒岩は、結局此花に押し切られてしまった自分を腹立たしく思っていた。「あれは反則だろう」。弱々しい表情を浮かべながら懇願をする美少女に、無視、という選択肢を取れる男がいるわけがない。
あの容姿は思った以上に曲者だった。華奢でありながらしなやかな肉体を想起させる女神の姿を見ていると、少女にこの黄泉路の探索を押しつけることが耐え難いように感じてしまう。
女神の父【大山津見】は、身内の女たちを実力ある男神の元へと送り込んで縁戚を結ばせるやり方に長けた神だと言われていた。
稀代の英雄【須佐之男】との婚姻を成立させた【櫛名田】という女神。彼女も【大山津見】の一族の一人だった。【櫛名田】は、【須佐之男】が如雲の地を通りかかったときに、八つ頭の大蛇の贄にされかかっていた美姫だ。その哀れさに奮起した英雄神が、大蛇を倒し、女神を妻として手に入れたのである。
だが、このエピソード自体が【大山津見】の計略であったのかもしれない、と囁かれている。力のある神々との系譜を交えていくことに貪欲な此花の父にとって、身内に生まれ出た美しい女を利用しないことは考えられない、と思われたから。
此花も、もしかしてそういう教育を受けているのだろうか。黒岩はわずかに考えた。
清楚な雰囲気を持つ魅惑的な少女。高慢な態度も、その後に一変する思慮を見せつけられれば、むしろ好感度を上げる要因になる。
だが、と封神はすぐにその想像を打ち消した。此花には、
「あいつは阿呆すぎる」
男神に取り入るための計算というものが欠如している。
「姉も出戻りだと言っていたし、お嬢の姉妹だけは、【大山津見】にとっても失敗だったのかもしれないな」
女神に対してひどく失礼な分析をしながら、黄泉路のような陰気な細道を慎重に進む黒岩。
その足先に、突然、冷たい水たまりの感触が渡った。
真闇の中、耳をそばだて、辺りの様子窺う。
うごめく者たちの気配が、封神を取り巻いていた。