海底宮 終
「ねえ亀さん……。わたくし、もう実家に帰らなくてはならないのかしら……」
最愛の母の死の痛みから卒業して遊永に戻ったその夜、此花は少年神と並んで座りながらそう聞いた。
「亀さんはわたくしが立ち直るまでの間の面倒を見てくれただけなのよね……。だからわたくし、いつまでもここにいるわけにはいかないのよね……」
言葉を重ねた後、俯き、
「でもわたくし、まだここに置いて欲しい」
と願う。
女神の保護者である【須久那】からは、少女を海底宮に戻すように言われている。実際、黒岩もそのほうが建設的だと思っていた。もし【瓊々杵】が【このはな姫】の居場所を嗅ぎつければ、出入りを禁止されている宮殿に帰ってしまう前に手中にしようと襲ってくるだろう。
権力的な群れを作らない封神にとって、此花の受け皿になることは荷が重い。竜宮に帰すことが、女神の心根はどうであれ、守護する資質のない自分の責務のように感じる。
だが。
返事をしあぐねてごろりと横になった黒岩の目に、薄雲に滲む朧月が映った。
少女を安全地帯に送る。その当然の行為に対して迷っている自分の本心は何なのか、と問う。
「お嬢」
呼びかけると、此花は不安と期待の入り混じった顔を封神に向けた。
「はい。……何、亀さん?」
「勘違いさせたくないから言い訳するが」
少年神は空に視線を固定したまま、言う。
「俺はお嬢を遊永に引き留めたいと思っている。竜宮に帰って欲しいと思ってるわけじゃない」
それから、
「では……」
と顔を輝かせた少女に向かって、でもきっぱりと、
「だけどお嬢は戻るべきだ。ここにいてもこれ以上してやれることはない」
と突き放した。
「……そう」
諦めたように溜息をつく此花。
少女を竜宮に行かせたくない理由。それはきっと、まだ彼女に不安要素が多々あるからだ。黒岩は自分の感情にそう理屈をつけた。
【大山津見】の元に戻して、また孤立したりしないだろうか。
【良来】のことを思い出して泣く夜は、もう来ないだろうか。
天翔船の中で極限の精神状態を迎えていた此花は、ずっと、抑え込んだ想いの奥底で叫んでいた。「亀さん」、「亀さん」、「亀さん」、「亀さん」と。陽介の銀細工によって女神との意思疎通を容易くしていた封神は、その声に強く心を乱されていた。
恐らく少女は、神として不完全なおのれを理解してもらいたいがために、それが可能となりそうな黒岩を欲していたのだろう。
「こいつを俺から引き離してしまうことは本当に正しいんだろうか」。封神は、いったん答えを出しておきながらも、惑う。
いや……。
本音はそうではなく。
白い幼児の魂が相当な勢いで少年神の腹にぶつかった。
「てっ」
大したダメージでもないが、陽介の気持ちを汲んで大袈裟に顔をしかめる黒岩。
「亀の神さまの馬鹿! 花のお姫さまが帰りたくないって言うのに、なんで帰れって言うの!?」
「大人には大人の事情があるんだよっ」
知らずに苛ついていた心情そのままに、封神は幼児に、大人気の欠片もない反論をぶつけた。
「お嬢にとって一番いい方法が里帰りなんだからしょうがねえだろ!」
「花のお姫さまは亀の神さまとケッコンしたいと思ってるんだから、ここにいればいいと思う!」
負けずに激高した陽介は、女神の真情をあっさりと暴露した。
幼児が喧嘩ばかりしていた母と父の仲直りのために作った銀細工。いま黒岩と此花の体内に埋め込まれているそれは、表面を取り繕う、大人の事情、という殻を透過して、陽介に二人の真意を漏れこぼす。
真っ赤になって、
「そ、そこまでは考えていないのだけれど……」
と言葉を濁す少女の横で、呆気に取られながら半身を起こす少年。その封神に対しても、空気を読むという配慮を知らない幼な子は、
「亀の神さまだってお姫さまといると嬉しいって思っ……」
と白状しかけた。
だがその告白は、途中で強制的に封印を施した黒岩によって中断させられる。
薄雲に滲む朧月は、相変わらずぼんやりと、人影の絶えた遊永の盆地を照らしていた。まるでおのれの本質をさらけ出すことを恐れる人の心のように。
人間に近い性質を持つ女神ばかりでなく、欲を律することに慣れ過ぎた封神もまた、自分の感情と向き合うことを苦手とする性格だったのだ。
そんな二人の頭上、輪郭を溶かす月光の周囲には、いつの間にか主張の強い星々が瞬き始めていた。まるで煮え切らない本心をさらけ出せと鼓舞するように。
「ああ、まあ……」
眉を寄せて苦い表情を作った少年神は、頭を軽く振った後、
「お嬢に帰れっつったのは……半分以上は痩せ我慢だったんだけどさ」
と苦笑した。
羞恥のあまり目を潤ませていた此花は、
「わ、わたくしはここにいてはいけませんかっ?」
と、黒岩の言葉で弾みがついたのだろう、勢い込んで再確認する。
それに対し封神は、
「う……ん。でもお嬢は帰ったほうがいいと思う、んだよ」
と、幾分強制的なトーンを落としながらも、やはり承諾はしなかった。
「どうしても……?」
女神はしつこく重ねる。
「そんなに食い下がられると、陽介の言ったこと真に受けるぞ、俺」
笑いながら返事を濁した黒岩に。
少しだけためらった後、少女ははっきりと言った。
「わたくし、陽介ちゃんの言うとおり、きっと亀さんのことが好きなんだわ」
万の歳を取っていようと、青年の見た目を持っていた黒岩に心を奪われた女神。
少年の容姿であろうと、大人びた内実の封神に尊敬を抱いて恋い慕った少女。
「ら、【良来】が死んだときに思ったの。もしわたくしがあやふやな態度を取らずに【瓊々杵】さまをはっきりと拒んでいたなら、あんな結末にはならなかったのではないかって」
自分の告白に動揺した此花は、慌てて説明を取り繕った。
「だから、だからね。亀さんに対してもきちんと……、……お、想ったことを伝えておかなければって……思って……」
尻すぼみになりながらも、的確に言葉を選び切った少女。
それに対し、少年神が困惑半分、喜悦半分で返事を返そうとしたとき。
正直な女神は、心の内にあるおのれの感情のすべてを、蛇足だというのに吐き出した。
「わたくし、元の麗しかった男神の亀さんが好きなのです」
万の歳を取っていようと青年の見た目を持っていた黒岩、に心を奪われた女神。
少年の容姿であろうと大人びた内実のみ、に尊敬を抱いて恋い慕った少女
黒岩の反応を待って沈黙した此花と、しばらく無言になった封神。
妙に空虚な時間を、最初に妨げたのは少年神のほうだった。
「……確かめておくけど、それって、いまの俺には何の興味もないと言ってるんだよな?」
「わたくし、年下の趣味はないもの」
必死の告白に的外れな答えを返された女神は、自分の想いが通じなかったのかと危惧して、また本音を重ねた。
「でも亀さんはいずれ大人になるのだし。別にいまが子どもの姿だとしても、わたくし、そんなには気にならないの」
だが言葉は自爆を連ねるばかりだ。
「むしろ亀さんが大人になることを楽しみにできると思えば、いまの亀さんも苦にはならないぐらいなの。一〇年待てと言われれば待ちます。だから亀さんのそばに置いて欲しいの。お父さまの元には帰りたくな……」
真摯な思慕の中に微妙に含まれる否定の意志に。
封神は、心の狭さを露呈した一言を、返した。
「竜宮に帰れ」
半泣きの表情で、
「どうして? わたくしが何を言ったというの? 亀さんの馬鹿っ」
と罵る女神。
春霞を裂いてくっきりとした態を現した月は、半分の存在同士が二つ合わさった綺麗な満月ではなく、少しだけ欠けた、まだ歪な形をしていた。
これで第二章は終わりです。今章では不快な表現を多用してしまいました。ご気分を害された方はすみません。
次章は豊都の四神が出てくる予定です。ただこちらの執筆に取りかかる前に、拙作の『黒い神』を完結させてきますので、しばらくの期間お待ちください。
ここから閑話。
例によって案はあったのですが機会がなくてボツったネタを置かせていただきます。此花が【良来】に叱られて海底宮の衣装を身に着けたときに中に水着を着込んだまま、という伏線の回収に当たります。
※注 微エロ
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【建雷命】の女官への蹂躙を目の当たりにした少女が、放心状態で【瓊々杵】に抱きつかれるままになっていたシーンの合間。
雷神の乱暴な扱いによって、此花の袍の襟元は乱れ、白い肌の一部が露出していた。
それを見つけた【瓊々杵】は、ごくりと喉を鳴らし、そうっと、為すがままになっている女神の上着に手をかける。
「ど、どうせ私の神殿にお連れしたら、このような関係になるのだ。遅いか早いかの違いなだけだ。よ、よいであろう、【このはな姫】?」
返事がないことを見越した上で、形ばかりの承諾を求めた卑劣な男神は、震えるほど興奮した様子で、女神の深紫な黒髪を避けると、袍の背に指を入れ、するりと引き下ろした。
身につける物のない純潔の裸身。
……が現れるはずであった。
でもそこにあったのは、不可思議な生地で作られた、体にぴったりと纏いつく、見たこともない衣服だった。
気が焦っている【瓊々杵】は、肩口に引っかかっている帯状の細い部分を引き下ろそうと試みる。けれど震える手では、少女に貼りつくその異様な服地を剥がすことはできなかった。
「これはどうやって脱がしたらよいのだ……」
ある意味純朴な男神は、期待値が大きかっただけに、一気に深い悲嘆に暮れた。
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閑話休題。
ここまでのお付き合い、ありがとうございました。




