海底宮 12
「姫さま、遠い異国では、半人半魚の女が暴風の吹き荒れる夜に男神と出会うと運命が結ばれる、という物語があるそうですよ」。年頃だというのに一向に男神への興味を持たなかった【このはな姫】に対し、女官たちがからかい半分で持ち出した伝聞。
雨の中、黒岩の迎える遊永の地に降りた女神は、
「……暴風じゃなくて暴雨だったらよかったのに……」
とぽつりと呟いた。
「相変わらずすっ飛んだ言動だな、お嬢」
少年神は意味不明の此花の言葉に笑う。
入れ替わりに【羅摩】に乗り込んだ【須久那】は、
「【このはな姫】の所在は秘密裏にするから漏れることはないと思うが、万一を考え、【瓊々杵】の動向にはこちらも重々配慮しておこう」
と請け負った。そして、
「もし姫の精神状態が回復したなら、父神の元に戻ることを説得してもらいたい。やはりあそこが一番安心であると思う」
と封神が美少女の女神を独占する欲を出さないように釘を刺す。
飛翔していく神船を見送りながら、陽介の魂が溜息をついた。
「兎さんに人参あげたかったなあ……」
「やめとけ」
密かに【須久那】に対して緊張していた黒岩は、阿呆な理由で幼児が智賢の神の機嫌を損ねなくてよかったと胸を撫で下ろした。
結界を解くと同時に迎えた晴天の夜明け。
「……陽介ちゃんと仲直りできたのね」
自分を引き受けてくれた黒岩になんとなく真正面から向かい合うことのできない少女は、陽介をだしにして会話を始めた。
「こっちでは、お嬢が帰郷してから四ヶ月が経ってるからな」
封神も女神を直視することを避け、幼児の魂に意識を割きながら答える。
海底宮と地上では時間の進み具合の差異が大きい。此花にとっては四日ほどの出来事だったが、黒岩にとってはひと季節が終わる期間に相当していた。
晩秋の寂しい空気から一転、朝日に照らされた遊永の光景は、早春の息吹を伝えている。
女神は意外そうな顔で、
「時間の流れが違うなんて初めて知ったわ」
と驚いた。
「竜宮と不二を行き来していたら絶対に気づくだろ」
呆れる封神に、
「だって……。不二に戻っても、こんなふうに季節のことでお喋りをする相手はいなかったんだもの」
と言い訳する。
海の底の故郷では女官一人に依存してしまうほど孤独だった少女。それが、地上に上がっても結局は独りだったのだと知って、
「……気の済むまでここにいればいいよ」
黒岩は柔らかな手つきで此花の髪をくしゃくしゃと撫でた。
陽が昇り切り、人間たちが一日の営みを始める。
それを遊永においてもっとも高い丘の上から眺めた女神は、
「人間って働き者なのね。落ち込んで動けなくなることはないのかしら」
と、自分と違って短い時間に次々と行動を切り替えていく人の逞しさに感心した。
大好きな此花がそばにいることに興奮しっぱなしの陽介が、
「今度遊永を探検しようよ。僕、お姫さまといろんなとこに行きたい」
と意図せず少女を元気づける。
でも、また夜が来て、此花は泣きながら地面に伏した。
「【良来】は死んだときに辛くはなかったのかしら……」
惨い目に遭わせてしまった女官を思い出し、身を震わせる。
【良来】と同じく闘神の資質を持つ黒岩は、
「自分が死ぬことよりも、主の役に立てることのほうが嬉しいもんなんだよ」
と慰めた。
すると少女は、必死な目で封神に縋りながら、
「でも亀さんはわたくしのために死んだりしないで……」
と訴える。
翌日の夜も、女神は沈痛な面持ちで涙を落とした。
「わたくし、【良来】に置いて行かれるぐらいなら、一緒に逝ってしまえばよかった」
「……そうか」
とだけ返した黒岩は、無言で少女の傍らに寄り添った。
次の夜、少しだけ此花は笑顔になった。
「【良来】には意外に可愛いところがあったのよ。闘神の修行を始めてから筋肉質になってしまったから、どうしたら痩せて見えるかって、いつも衣装で悩んでいたの」
一緒に笑いながら封神は、
「会ってみたかったな」
と言った。
風に春の温かさが混ざる頃。
黒岩は女神を、遊永から南下したところにある山岳に連れて行った。
山中では何万本もの桜が満開を迎えていた。淡い桃色の花弁に埋め尽くされた景色に、此花は歓声を上げる。
険しい斜面を少女を抱えるようにして下りた封神は、谷底に取り残された孤高の大木の前で立ち止まった。
華やかな桜花に周辺を囲まれながらも、まだ開花を見ないその枝には、桜鼠色の蕾がついている。
凛とした姿が特徴的な薄墨桜だった。
「……【良来】の袍の色だわ……」
わずかにピンクがかった明るい灰色を目に止めた女神は、その大樹の根本に座り込んで、まるで母に甘えるように身をすり寄せる。
「【良来】……」
目を閉じて、女官のように大きな懐に、自分を委ねた。
春の強風が全山に花吹雪を舞い散らせる。
【良来】の樹の下で延々と眠り続ける此花を見ながら、
「花のお姫さま、もう五日も起きないね」
と陽介は退屈そうに呟いた。
「それぐらいはかかるさ」
黒岩は口に人差し指を当てて、少女の目覚めをおとなしく待つように、幼児に指示する。
太陽の力は日に日に強くなっていく。深い谷に立つ遅咲きの桜にも明るい木漏れ日が降り注ぐようになった。
ぽつんぽつんと生命の開く音を響かせて、女官の色の花が大樹の枝を埋め尽くしていく。
二週間ぶりに目を覚ました此花は、自分を包むように薄墨の花びらが降っていることに気づいた。
髪にも肩にも膝にも、優しかった【良来】の掌のような温かい感触が積もっている。
「……ああ、そうね。そうだわ」
少女は納得が行ったような顔をした。
「わたくし、本当は【良来】にお礼を言わなくてはならないのね。わたくしが悲しんだままだと、【良来】も悲しくなってしまうのよね」
やっと、見失っていた自分を取り戻す。
少し離れた位置で、座って女神の覚醒を待っていた黒岩が、
「ちゃんと別れを言えるか、お嬢?」
と聞いた。
此花は、
「はい」
と答えた。
それから。
姿勢を正して、地面に手をつき、
「いままでありがとうございました、お母さま」
大事にしてくれた母へ、深い感謝を口にした。




