海底宮 11
全長一二メートルほどの古代船を模した【羅摩】は、地上への着陸を避けたまま、主の【須久那】を吐き出した。
船首から身軽に飛び下りた風来の神は、少年と言えども自分よりは遥かに背の高い遊永の封神を見上げて、堅苦しい挨拶を交わす。
「目通りが叶って嬉しく思うぞ、封神よ。我は異邦の民、【須久那】と申す。遊永への突然の来訪、礼を失しているのは承知。騒がせて申し訳がなかった」
「いや……」
黒岩が謝罪に反論をしかけた瞬間、
「ね、ねえ、亀の神さま……。兎さんが喋ってる……」
少年神の肩口から【須久那】の様子を覗いていた人霊が、上ずったような声を上げた。
「さ、触っていい?」
そっと風来の神に近づく陽介を乱暴に引き戻すと、
「挨拶ぐらいちゃんとさせろ」
黒岩は儀礼の理を知らない幼児を保護者の顔で叱りつけた。
不二の神霊である【このはな姫】を連れて天翔船でやってきた【須久那】。本来なら物々しい訪問の様相を呈する相手であるが、世情から取り残されたような遊永においての対面はいたって質素に進められた。
智賢の神は、神船に残してある此花の処遇を、
「姫を下ろす前にそなたに確認したいことがある。封神の返事如何では【このはな姫】をこの地に着かせるわけにはいかぬ」
と伝えた。
この場に及んでまだ勿体をつける【須久那】に、わずかに不快の表情を返した黒岩だったが、
「それが条件なら呑むしかないだろう」
と承認する。
【須久那】はまず【瓊々杵】のことを切り出した。
「海底宮での顛末は、遊永の封神も聞き知っておろう?」
と探りを入れた智賢の神に、少年神は頷いて、
「こっちでも噂になっていたからな。【建雷命】という雷神が竜宮を急襲したんだろ。お嬢……【このはな姫】の名前が出ていたから、俺も気を揉んでいた」
と答える。
そこで【須久那】は
「【建雷命】の名まで知っているなら話は早い」
と先を急いだ。
「このたびのこと、裏で糸を引いていたのは、【このはな姫】に懸想していた【瓊々杵】という男神だ。そして【瓊々杵】自身は、いま放免の態を許されているのだ」
凶悪な雷鎚の神が竜宮を襲い、巻き込まれた【このはな姫】を救うために女官の一人が犠牲になった。黒岩が噂で耳に入れていたのはそんな内容だった。
「【瓊々杵】……というのは、たしか日向国の王だった男だな。人間からの昇格神のはずだが、それが【大山津見】の娘に惚れたってのか?」
古い記憶から該当の名前を引っ張り出してきた封神は、一般的に格が低いとされる人間上がりの神が、由緒ある【このはな姫】に近づけた理由を訝る。
「【瓊々杵】は野心家なのだ。いまでは人間であったときの生家、日向に降臨して、高志穂の山中に大きな屋敷を構えておる」
その疑問に【須久那】は答えて、さらに話を続けた。
「【瓊々杵】の権力に配慮した天界の沙汰により、今回の【瓊々杵】への罰は、海底宮殿への出入りを差し止めるという甘い処置に留まった。つまり【瓊々杵】は現在も【このはな姫】への求愛を禁止されてはいない立場となっている」
黒岩が聞いている限りでは、【建雷命】は天界の裁きによって神界のどこかに拘束されているという話だった。それなのに、黒幕の【瓊々杵】が罪を問われていないとはどういう理屈だろうか。
「なぜ天界の神は【瓊々杵】にそんなに肩入れする? いくら強権者とはいえ、下手したら【大山津見】と戦争になったかもしれないことをしでかしたんだろ? だったら厳罰を与えるべきだと思うが」
封神が率直な疑問を投げると、智賢の神は、
「さもあろう」
と意見に賛同しながらも、神の一般常識では、【瓊々杵】の行為は決して否定されるばかりのものではないという弁解もした。
「【このはな姫】を欲することが生きがいである、という【瓊々杵】の言い分は、神界や天界から見れば優遇されて当然の言葉なのだ。女神である姫の感情など、神の間では、我儘、としか受け取られぬ」
眉を寄せて智賢の神の顔を見下ろした少年神は、
「わけがわからん」
と呆れた口調で呟いてすとんと腰を落とした。
「欲しけりゃ攫っていいってもんでもあるまい」
黒岩自身も神界における男神と女神の力関係はわかっている。けれど気に入った女神を得るには最低限、承諾、という手順を踏むべきだという定石があることも知っていた。力づくで連れて行くなど言語道断である。
改めて此花が受けた屈辱を思いやった封神は、
「一人にしなきゃよかったな……」
と少女が残る天翔船を見やった。
そんな少年神の様子を見て、【須久那】は大いに興味を持った。
【良来】以外の理解者を得られなかった【このはな姫】に、あっさりと心を通じ合わせた彼。
此花は神としてはかなり特殊な感性を有している。自分の納得しないことには決して迎合せず、かと言ってこだわりが他に理解できないほど歪んでいるわけではない。純粋。ひたすらに正直である女神。
その彼女のそばに置く男神として、これほどの適任者はいないのではないか、と智賢の神は思う。
そんな【須久那】の思惑に気づくこともなく、黒岩は、今度は風来の神を見上げて、言った。
「天界も神界もそんな調子なら、お嬢の気の休まる場所はないに等しいんじゃないか? 【瓊々杵】がもしまた襲来したとしても、あいつを守ってやれるやつはいないんだろ?」
だったら、と言いかけた少年神を制して、【須久那】は最初に話を戻して、条件、を提示した。
「ここに姫を置いていくためには、【瓊々杵】の強襲に耐えうるだけの力を示してもらわねばならぬ。遊永の封神よ。結界さえ張れぬそなたが【このはな姫】を預かるという自信の根拠を我に見せよ」
【須久那】の言い分はもっともだった。いまは少女の保護者のような立場の智賢の神。娘の預け先の安全に留意するのは、むしろ義務のようなものだ。
少年神は空を見上げて無言になった。
「やはり神力のほうは歳相応であるのか」。反応のない封神に幾分がっかりとした【須久那】だが、自分から性急な催促はせず、黙って黒岩の動向を見守る。
まるで大気の様子を窺うように、数分間、風の向きや星の瞬きの強さに感覚を先鋭化していた少年神は。
ひょいっと巨石の舞台から飛び降りると、兎のように毛をもこもことさせた【須久那】に向かって、言った。
「その毛、防水? そうじゃなかったら濡れないところに避難しててくれ」
「亀さん、わたくしを引き受けてくれるのかしら……」
話がつくまで天翔船で待っているように言いつかっていた此花は、やきもきとしながらも、命令通りに地上の様子から神経を背けていた。
そんな彼女の背に、こつんと小さな衝撃が伝わる。
「……何?」
振り向いた女神は、そこに掌大の白い玉が浮かんでいるのを見つけた。表面には幼児の笑顔がうっすらと浮かんでいる。
「陽介ちゃん!?」
喧嘩のような形で別れてしまっていた陽介が、少女の腕に飛び込んだ。懐かしさに魂を思いっきり抱きしめる此花。
嬉しそうに自らも身を寄せた幼児は、その状態のままで、女神に向かって言った。
「花のお姫さま気をつけてね。いまから大雨になるんだって。亀の神さまが結界を張るから」
狭い遊永を囲むようにして、大地から密度の違う空気の膜が迫り上がった。
澄み渡っていた夜空に黒い雲が押し寄せる。
湿った気流が盆地の中を走っていった。
遠雷の音が轟く。
異常なほどの雨雲の群れが次々と空に重なった。
ぽつり。
巨大な雨粒が落ちる。二筋、三筋。
それがたちまち奔流となり、静かな古都に豪雨を降らせた。
巨石の下に入り込んで雨を逃れた【須久那】は、驚きで赤い目を丸くした。
「結界の布陣で嵐が来るなど聞いたこともないわ」
そばに立っていた少年神は、全身から水を滴らせながら、
「たぶん俺の本体の下に封じてある人間たちの魂が作用しちまうんだろう。迷惑だからあんまり使いたくないんだ、この力」
と苦々しく呟いた。
一方、【羅摩】の上では、同じくびしょ濡れになった少女が、
「亀さんに会いに来るときはいつもこんなのだわ」
と文句を垂れていた。
裳の裾から行儀悪く水を絞り出す女神に対し、逆に陽介ははしゃいだ様子で、
「だって亀の神さまは、お姫さまが遊永に来たときは必ず結界を張るって言ってたもん。赤鱗竜と【このはな姫】は有名だから、悪い魂も引き寄せちゃうんだって。でも僕は雨好きだから、花のお姫さまが来てくれたほうが嬉しいんだよ」
と言った。
優れた聴力で此花と陽介の会話を拾った【須久那】は、我知らずにんまりと笑みを浮かべていた。
現実には、災害に直結する封神の結界は、継続的に使えない。けれど、「この心根があれば、【このはな姫】の守護の役割を欠くものでもなかろう」と智賢の神は判断した。【良来】があれだけの力量差のあった【建雷命】の捕獲に一役買えたのは、最終的には此花への忠誠心がものを言ったからだ。
最後に一つ、【須久那】は黒岩に確認を呼びかけた。
「遊永の封神よ。我と【大山津見】の願いは、【このはな姫】の永遠の存続である。そのためにはそなたを蔑ろに扱うこともあろう。それは承知か?」
「いいよ」
【良来】の話、【建雷命】の話、そして【瓊々杵】の話を聞いてなお女神を受け入れる姿勢を変えなかった封神は、事も無げにおのれの不利益を了承した。




