海底宮 10
遊永の封神の本体は亀のような造作をした巨岩だった。
少しずつ自分の中に仕舞われた記憶を引き出していく【須久那】。
何万という年月を生きながらえている、神界でも屈指の長老。遊永という古の都を縄張りとして、滅多に外界に現れない隠居の神。
【須久那】は神船【羅摩】を、地元の人間に認識されないぎりぎりの高度に保ちながら、老成した封神の姿を探す。
「この地には結界が張られていないのだな」。風来の神は視線を走らせながら、遊永という神域の特徴に気づいた。
神にはそれぞれのテリトリーがある。四神で一つの都市を統べる豊都でさえ、青龍、白虎、朱雀、玄武の縄張りは個々で分かたれている。
普通なら、神々はおのれの棲息域に厳重な結界を張り巡らせ、魔や他の神の侵入に警戒するのだが。
「遊永の封神はすでに結界を張ることもできないほど精彩を欠いているのかも知れぬ」。よぼよぼとした老神がのんびりと余生を送っている様を想像した【須久那】は、「さて、こういう輩こそがいまの【このはな姫】には必要だということだろうか?」と、若干の不信感を持ちつつも、微かな希望を支えに上空を周遊し続けた。
冬枯れした田の間を抜ける細い畦道。ところどころでこんもりと盛り上がった神域の森。アップダウンのきつい地形の各所には、古代人の遺構とされる巨石のオブジェが転がっている。
一四〇〇年ほど前には人間の王国が築かれていた土地。亀岩はその王国の守護を司っていたと言い伝えられている。
盆地の早い日暮れが寒さの厳しい遊永に下り始めた。人間の姿はほとんどなく、明かりがついているのも駅に近い商業施設だけだ。
風来の神は個性的な真紅の目を地上に走らせながら、同時に大きな耳を傾けた。見た目に違わぬ優秀な聴覚が拾う様々な音。
車のエンジンの始動音が、眼下の商業施設の駐車場から次々と流れた。古都、を売りに観光地化されている遊永では、実際に住んでいる人間よりも他所から働きに来ている人間のほうが多いようだ。
「さよならー」
「また明日ねー」
などと挨拶を交わしてこの土地から逸脱していく人の群れが見える。
山辺のほうからは小さな獣の足音と巣に帰った鳥のさえずりが鳴る。
「侘しい土地だ」と【須久那】は思った。すでに廃れてしまっている様子の遊永。ここを棲家とする封神自身にもそれほどの期待は持てないのではないかと、智賢の神は考え始めた。
その刹那。
「亀の神さま、船、降りて来ないねえ」
【須久那】の耳が場違いな子どもの声を拾った。
今度は、それに対し、意外なほど若くて張りのある声が答える。
「そうだな。お嬢が乗っているのは間違いないと思うんだが」
びくっ、と半ば床に伏していた此花が跳ね起きた。
「い、いま、亀さんの声がしたような……」
首を巡らせ、宵闇に溶けかけている景色に目を配ろうとして、
「【須久那】のおじさま、ここはどこなの……? もしまだ遊永にいるのだったら、すぐに離れて欲しいのです……」
また、頭を抱えるようにして自分の内に篭っていく。
【須久那】の聴力を持ってしてやっと掴むことができた地上の声。それを女神が聞き分けられたわけはなかった。
ならばなぜ少女は、どうやら封神のものらしい会話に反応することができたのだろうか。
此花の感能力は並外れて鋭い。それは【須久那】が知るのみならず、周知の事実だった。
だが。
下界を見下ろして、風来の神は「これだけ距離がある先の思念を拾うことはできまい」と目測した。暗がりに紛れてだいぶ高度を落としているとはいえ、【羅摩】は未だに上空二〇〇〇メートルほどの位置をキープしている。
しかし。
もしかして、とも【須久那】は思う。「もしかして遊永の封神は、【このはな姫】の心に強制的に入り込むことができるのだろうか」と。
【須久那】の耳が、また幼児の声を捉える。
「花のお姫さま、どうして亀の神さまに会うのを嫌がってるの?」
それに対し、
「嫌がってるんじゃないんだ」
と断定する、少年のような封神の声。
「お嬢は不二に帰って女官の後を追うつもりなんだよ。だから俺に会って心変わりするのを拒んでいるんだ」
どうやら海底宮での騒動は封神の元にも届いているようだった。
しかし【須久那】が驚嘆したのはそこではなかった。
「【このはな姫】」
険しい顔で詰め寄る智賢の神に、此花は突っ伏して耳を塞いだまま、
「だって……」
と囁いた。
「だって……。【良来】を殺してしまったのはわたくしなのだし……。【瓊々杵】さまはもう自由になってしまったのだもの。わたくしが生きていける場所はないではないですか」
「お願い、おじさま。すぐに船を出して」
本心が知れてもなお訴える少女に、承諾するわけにはいかない【須久那】は、逆に神船を急降下させた。
「遊永の封神はそなたの考えを変えることができるのであろう? だからそなたはここから逃げようとしているのであろう?」
説得と言うよりは脅迫のような勢いで矢継ぎ早の質問を繰り出す【須久那】に、女神は言い訳もできずに、ただ首を横に振る。
だが容赦なくさらに畳みかける智賢の神。
「姫は本当は遊永の封神に会いたいのではないのか? 会って考えを変えてもらいたいのではないのか?」
先刻、一瞬だけ少女が見せた生き生きとした表情が【須久那】に確信を与えていた。此花はどうにもならない自分の感情を封神に解決してもらおうと望んでいる。
それなのに、どういう理由からか依怙地に遊永への着地を嫌がる女神に、【須久那】は、今度は穏やかに尋ねた。
「のう。姫はなぜ封神を避けようとするのだ?」
すると此花は、
「だって……っ」
と半ば叫ぶように声を詰まらせながら答えた。
「だって、わたくしが頼ってしまったら、亀さんも【良来】と同じことになってしまうではありませんか!」
【瓊々杵】と【建雷命】が少女に見せた残像はあまりにも強烈で、此花はその恐怖から逃れることができないでいる。
二度目の犠牲を出すぐらいなら、自らが天界に旅立ったほうがましだと思うほどに。
「わたくしに救いなど与えないでください、【須久那】のおじさま。わたくしはもう生きている資格がないのです。だから【良来】のところに逝きたいのです」
壊れそうな心を必死で繋ぎ止めていた女神は、泣き崩れながら懇願した。
その時。
「僕、花のお姫さまが死んじゃうの、やだな」
まっすぐに封神の元へと下った天翔船が、地上すれすれに滞空して、幼児の声を船内に運んだ。
「俺もだ」
黒岩の言葉が女神の耳に直接届く。
呆然とした表情で【須久那】に縋りついていた此花は、
「誰も【このはな姫】に死んで欲しいなどとは思っておらぬ」
と諭す智賢の神に、
「わたくしにそんなことを言ってもらう資格があるのでしょうか……」
と呟いた。
「そなたのどこに罪があるのだ?」
もう一度、優しく少女の思い違いを正す【須久那】。
その瞬間。
女神の体を銀の光が取り巻いた。
「わたくし……この世界にいてもいいのでしょうか……」
迸るように本音を漏らす此花は、重ねて、
「わたくし、生きていてもいいのでしょうか」
と希望を口にした。
舳先から船外を覗き見た【須久那】は、「これならば姫を託しても構うまい」と微笑む。
棒状の巨岩を組み上げて作られた古の祭祀場。その上に立って見上げている、予想とは大きく外れた少年の姿をした封神。
真っ黒な短髪に真っ黒な服。敏捷な筋肉をつけながらもどこか繊細な雰囲気を伝える、人間でいえば一三歳ぐらいの男神。
そばに小さな人霊を従えた彼は、その若い風貌に似合わない、まるで娘の苦悩を案じた父親のような切なげな顔で、女神の降臨を待っていた。




