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火出国(ひいずるくに)の姫  作者: 小春日和
【瓊々杵】の謀略
26/30

海底宮 9

 天翔船【羅摩(かがみ)】は日本の上をゆっくりと翔んでいく。

 船首から身を乗り出して下界を見ていた此花は、

「あ、ニルヤ……」

と呟いてわずかに微笑んだ。

 かつて迷い込んで神獣【負亀(ふき)】に迎えに来てもらった海中の神殿、ニルヤは、沖泡(おきあわ)県に属する小島の真下に位置している。いま見えている目印の島の上では、豆粒よりも小さな人間たちが立ち働いていた。

「人間からだと、この船はどう映るのかしら?」

空を見上げている幾人かを見つけた少女は、そばにいた【須久那(すくな)】にそう尋ねる。

「飛行機と間違う者もいるだろうし、宇宙からのものと思う者もいるだろう」

【須久那】も、少しだけ元気を取り戻した女神に目を細めた。


「不二に戻る前に【良来(らく)】との思い出の地を回りたい」と【須久那】に頼んだ此花。

「それが済んだらもう思い残すことはなくなります。一生赤鱗竜(せきろうりゅう)と二人だけで(こも)っても耐えられると思うの」

海底宮という故郷と決別した女神は、自分の生涯を永遠に不二の地に封じ込めるのだと覚悟した。


 輝夜(かぐや)神宮の祭神にして神竜と一身である【このはな姫】。神としての彼女は本来、不二に棲み着いているはずの存在だった。化身である此花がうろうろと他の地を放浪するのは、少女自身の好奇心による部分が大きい。

 だがそれも無理のないことだった。此花は見た目の通り、生を受けてまだときが浅い。隠棲するには早すぎるのだ。

 これからの長い一生を得体の知れない赤鱗竜にのみ捧げるというのは、女神にとって余程の決意が必要だった。だから、せめて不二に到着してしまう前に心の整理をしておきたい。その要望を【須久那】は受け入れたのだった。


 ニルヤの島をずいぶんと長い時間眺めていた少女は、

「……【負亀】のお爺さまに連れて帰ってもらったときに、【良来】は泣いてわたくしを迎えてくれました。お父さまもお姉さまも呆れるか笑うかという態度でいらしたので、わたくしは、【良来】がわたくしを心から心配してくれたことが嬉しくて……」

と傍らの【須久那】にさえ辛うじてしか聞き取れない声で囁いた。

「……なぜわたくしは宮殿などに帰ってしまったのでしょう……」

続ける言葉には、唯一無二の理解者を自らが死なせてしまったという悔恨が滲んでいる。


 天翔船は大洋と陸の境界線を辿って北上していく。

 渦潮で有名な江渡内海(えとないかい)を眼前に控えた光景に、少女はまた少しだけはしゃいだ声を上げた。

「ねえ【須久那】のおじさま。【櫛名田(くしなだ)】さまの住まいはこの近くにあるのでしょう? ご一緒に暮らしてみえる【須佐之男(すさのお)】さまはとても強い男神だとお聞きしています。もし【須佐之男】さまがいらしたら、【建雷命(たけみかづち)】さまを排してくれたかしら。そうしたら【良来】は死なずに済んだのよね?」

 此花と縁戚関係にある【櫛名田姫】は一族きっての美姫だと有名だった。その【櫛名田】に惚れ込んで夫になったという【須佐之男】は、神の中でも最高と言われる【三輝神(さんきしん)】の内の一人。猛神【建雷命】でも神力においておいそれと敵う相手ではない。

「【須佐之男】を応援に呼ぶには時間がなさすぎたのだよ、姫」

【良来】の死をどうしても正面から受け止められない様子の此花に哀れみの目を向けながら、【須久那】は答える。

「……わたくしが【瓊々杵】さまの求婚を退けたりしなければ、【良来】は生きていられたのよね……」

再び自虐への流れに思考を沈める女神。


「【良来】」

脈絡もなく、ぽつりと少女の口から言葉が漏れた。

「【良来】……【良来】……」

蘇生の呪文のように呼びかけ続ける此花。

「【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】」

「【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】」

「【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】、【良来】」

 さすがに聞いていられなくなった【須久那】は、

「【良来】はもう死んだのだよ、【このはな姫】」

と諭した。

 すると女神は、船首に持たせかけていた虚ろな顔を上げ、

「【瓊々杵(ににぎ)】さまにお伝えくださいませ、【須久那】のおじさま。【良来】を返してって」

と言った。


 此花は【瓊々杵】を酷く恨んでいた。実際に手をかけた【建雷命】よりも深く。

 【須久那】は少女の隣に腰を下ろし、きつい口調でたしなめた。

「そのように他者を憎んではならんぞ、姫。闘神でないそなたは怒りの()け口を持たぬ。負の思いを身に溜め込むばかりとなれば、いずれは凶神と化してしまおう」

「だったら……」

滅多に感情を荒げることのない賢神に叱られた女神は、バツが悪そうに首を縮めながらも、言い分は撤回しなかった。

「わたくしに闘うことが無理ならば、赤鱗竜に【瓊々杵】さまを討ってもらいます。わたくしはどうしてもあの方を許すことができません」


 赤鱗竜と【このはな姫】の関係については、実は【須久那】にもよくわからないところがあった。此花は神竜を操っているわけではない。むしろ引きずられているような立場である。その彼女が自分の意のままに竜神を扱うことなどできるのだろうか?

 だが。

 万一に少女の感情が赤鱗竜の暴走を促すのなら、それは是が非でも止めなければならない。赤鱗竜の活性化は不二の噴火と意味を同じくする。人間界に甚大な被害が出てしまうのだ。

 【須久那】の語気はますます強くなった。

「もし【このはな姫】が自己の抑制を忘れて赤鱗竜を使役しようとするならば、神界は一致して姫を討伐することになろう。そのような結果を招いてもよいのか、此花?」

あえて神としての【このはな姫】ではなく、身近な少女に問う賢神に、

「……だって」

とますます身をすくめた此花は、

「わたくしにもどうにもならないんだもの。【良来】がそばにいないと、わたくしは自分を抑えることもできないのです」

と、母親代わりの乳母の消失があまりにも深い傷になっていることを嘆いた。


 やれやれ、と【須久那】は立ち上がる。

 此花は思った以上の子どもだった。【良来】という(たが)が外れてばらばらになりそうなおのれを律することもできない。

 赤鱗竜との縁を強制的に断ち切るか、と賢神は考えた。けれどそれも成功する確証はない。人間の信仰から生まれた不二の化身の女神は、信仰が続く限りは、神竜との繋がりを細々とでも継いでいってしまうだろう。

 【須久那】の迷いに呼応するように、天翔船も空中を迷走していた。

 このまま不二に少女を下ろしてもいいものだろうか、と。

 気を紛らわすもののない孤独な土地に篭った女神は、この先永遠に自分の中の憎悪の感情と向き合ってしまうのではないだろうか、と。


 困り果てた風来の神は、ふと下界に目を下ろした。

 いつの間にか海岸線から離れていた船は、いま記紀(きき)半島の上を翔んでいる。

 わずかな平地を囲むようにして連なる山岳には、古代人の眠る古墳が散見していた。北の公園内には無数の人間の賑わいがある。幸福寺(こうふくじ)(※誤字ではありません)の五重塔の先端が【羅摩】からでも目立っていた。

「ここは遊永(あすな)か」

真下の田園風景を見下ろした【須久那】は、誰にともなくぽつりと呟く。


 その一瞬。

 此花の表情に生気が差した。

「遊永?」


 何が女神の琴線に触れたのかわからず、

「どうかしたのか、【このはな姫】?」

と問い返した【須久那】に、慌てたように顔を背けた少女。

「は、早く不二に戻ってください、【須久那】のおじさま」

なぜか不自然に帰途を急かす。

 遊永。

 ここに何があったか。

 【須久那】は自分の記憶を頼りに、此花との縁が繋がりそうなものを探した。

 遊永。

 遊永には巨岩の化身である封印の神がいる。

 女神とそんな会話を交わしたことを、智賢の神は思い出した。


 ほんの一時の話題にしただけの封神の存在。それが、「【このはな姫】にとって何らかの慰めになるものだろうか?」との疑問はある。

 だが、「もし姫の心をわずかでも融解してくれる可能性があるのなら、立ち寄ってみるべきではないか」とも思う。

 【須久那】は、少女に気づかれないように、ゆっくり、ゆっくりと、【羅摩】を下降をさせ始めた。


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