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火出国(ひいずるくに)の姫  作者: 小春日和
【瓊々杵】の謀略
21/30

海底宮 4

 海底宮殿の朝は陽の光ではなく魚たちのさざめきによってもたらされる。

 資料を読みながらうたた寝をしてしまった此花は、回廊の柱にこつこつとぶつかる小魚たちの乱舞の音で目を覚ました。

 傍らの【良来(らく)】が、

「もう眠くはありませんか?」

とまともに伏していない女神を気遣う。

「少しだけ。でももう起きなくては。みんなが目を覚ます前に不二に帰りたいもの」

少女は答えて、大きく伸びをした。


 此花は例外だが、神は基本的に睡眠を必要としない。が、それでも下位の者の多くは疲労という感覚を覚えるために、夜の間は自室に引き篭もるのが常だった。

 だが黒岩や【良来】のような闘神としての素質を持つ者は、疲れや、もっと言えば恐怖などのマイナスの感情にまで鈍感になることができた。そのため限界値は通常の神とは一線を画す。女神の警衛である女官が一晩中起きて主君の安全に気を配れるのは、そういう理由からだった。

 でも、つい自分の肉体と同じつもりで、

「【良来】も少しは寝られた?」

と尋ねた少女に、【良来】は笑って、

「はい、お陰さまで」

と嘘をついた。

 此花の神としては壊滅的な弱さは、一方では他への友愛となって周囲を癒している。


 石造りの頑丈な扉を開け、【良来】はそっと回廊に顔を覗かせた。

「まだ誰もおりませんわ。姫さま、どうぞ」

ほっとした表情を見せて、逞しい女官に続いた女神。

「自分の家でこそこそしなくてはならないなんて、なんだか悔しい気がするわ」

そうこぼす少女に、【良来】はにこやかに、

「ならば【瓊々杵(ににぎ)】さまが完敗するような男神を見つけていらっしゃいまし」

と焚きつけた。

 その不意の煽動に、此花は顔を真赤にする。

「そ、そんな方、いないものっ」


 此花が赤鱗竜への忠誠を誓っているのは、実は半分は、ふり、であった。その目的は男神の接近を拒むため。つまりは【瓊々杵】を避けるためだ。

 【瓊々杵】は赤鱗竜という得体の知れない化物を怖がっていた。だから竜神を後ろ盾にして不二に篭ってしまえば、彼に追跡されることはない。

 けれど【瓊々杵】の求婚を退けるのに、たとえば【良来】の言うような、他の男神と結婚するという選択もあるにはあるのだ。

 ただ。

「わたくしの夫となる方は……【瓊々杵】さまに嫌がらせを受けたりしないかしら……」

神界において影響力の大きい【瓊々杵】。此花が別の男神を選べば、当然、【瓊々杵】は敵視するだろう。その懸念があるために、女神は男神に対する興味をあえて断ち切ろうとしているのだった。

「【良来】はお味方しますよ」

勇気づける女官に感謝しながらも、【瓊々杵】という障害があるうちは、やはり自分には赤鱗竜以外のパートナーを得ることは無理だろうと、少女は早々に諦めた。「いいの。赤鱗竜のそばで一生を送るのがもともとのわたくしの使命だもの」と。


 突然、先導していた【良来】が此花の歩みを制した。

 ぼんやりと考えごとをしていた女神は、女官の後頭部に思いっきりぶつかってから、

「な、何、突然……」

と鼻を押さえながら前を見た。

 宮殿を支える回廊の太い柱の陰。男神の着衣である(はかま)の裾と、膝部分を縛った足結(あゆい)の緒がはみ出している。

 待ち伏せされていたのだ。


 強張った力でしがみつく少女に、

「大丈夫でございますよ」

と努めて穏やかな声をかけた【良来】は、一人でその男神のそばに近づいた。

「こんなに朝早くからみっともないことをなさらないでくださいまし、【瓊々杵】さま」

遠慮のない物言いで迷惑な来客を誘い出す。

 すると、過たず現れ出た、【磐長(いわなが)】との結婚時よりだいぶ贅肉がついた【瓊々杵】は、

「女官ごときがでしゃばるものではない。私は【このはな姫】に用があるのだ」

と逆に【良来】をたしなめながら、歩み寄ってきた。


 【良来】の背に闘気が湧く。背後から見ていた此花にも、いまの彼女が普段の温厚な女官ではないことが見て取れた。

 だが肝心の【瓊々杵】はそれに気づかないのか、馬鹿にしたような薄笑いを浮かべたままだ。

「【このはな姫】に話があると言っている。そこをどきなさい」

そう言って【良来】を退けようとする。

 一方で。

 女官の桜鼠(さくらねず)色の(ほう)が大きく盛り上がった。

「姫さまへの無礼は主の【大山津見(おおやまつみ)】への背徳にもなりまする。お引きなさい」

一歩も退避する意志を見せず、闘いも辞さない【良来】。


 【瓊々杵】は戦闘に長けた神ではなかった。直接の争いになれば、恐らく【良来】の勝利は確実だろう。

 だが勝ってしまった場合でも、位の高い【瓊々杵】に敗北を負わせた女官は処分を受ける。

 【良来】が自分の立場も顧みずに地位ある男神に挑む理由は、此花を衛るため。

「そんなのおかしいわ。【良来】は【瓊々杵】さまと争ってはダメ」。少女は自分のことで不利益を被ろうとしている元乳母を庇おうとして、「そうだわ。お父さまに頼んで【瓊々杵】さまを止めていただこう」と、【大山津見】の居室のある後方に向かって振り向いた。


 けれど。

 そこには。

「……あ……」

思わず吐息が漏れてしまうほどの狂気の塊が、いた。


 岩石のように硬質で巨大な体躯。

 白く逆立った髪と怜悧な刃のように研がれた目つき。

 見たことのない男神だった。ただ心当たりはあった。

 昨夜の【良来】が「【瓊々杵】さまは覚えのない男神を連れておいででした。凄まじいほどの筋肉質な方」と説明した【瓊々杵】の連れ。

 目の前の、明らかな闘気……いや、殺気を放つ彼は、ほぼ間違いなくその男神だろう。


 此花は本能的な危機感から動けなくなった。動じれば強大な男神が確実に自分に害を成すことがわかったからだ。

 けれど彼を越えなければ父神の元には行けない。

 背後では【瓊々杵】が、

「【このはな姫】を逃がすでないぞ!」

と檄を飛ばす。

 【良来】の、

「姫さま、お逃げください!」

の叫びに、ますますどうしていいかわからなくなる女神。


 刹那。

 圧倒的な力量差を見せつける凶神が、非力な少女に向かって突進した。

「きゃあ!」

悲鳴を上げてとっさにしゃがみ込もうとした此花。

 けれど男神は、女神の腹に巻かれた帯を掴み上げ、その行動を制約した。

 がたがたと音が鳴るほどに震える少女。

 その様子に微かな悦楽の表情を浮かべた鬼神は、雷のように割れた低声で、此花に言った。

「あまり強情を張るものではない。美姫よ」


 ばり、と激しい痺れが体の中心部を貫いた。

 自分が発光したのを、此花は一瞬だけ視認した。

 すぐに力が抜けて床に崩れ落ちた少女の目に、雷撃の余波で白く輝く凶神の姿が映る。

 雷神。

 扱うのが非常に困難だと言われる稲妻を操る、希少な神。


「俺の名は【建雷命(たけみかづち)】である」

と男神は名乗った。

 その名前には覚えがあった。あまりにも危険な性質と能力を持っていたために豊都の玄武によって封じられたとされる、凶霊。

 それがなぜ【瓊々杵】と行動を共にしているのか。

 四肢が痺れて動けない此花は、その問いを発することもできずに、ただうずくまる。

 【建雷命】は、またあの威圧的な重低音で、床に転がった脆弱な女神に向かって命じた。

「諦めて【瓊々杵】の妻となれ、【このはな姫】」

そして嘲笑を重ねる。

「女の分際でずいぶんと【瓊々杵】を手こずらせたようだが、これで終いだ。父、【大山津見】といえど俺に敵うものではない。お前を救える者はもういない」

 恐怖と絶望感に否定の意志さえ示せない少女は、青ざめた顔をただ床に伏せてやり過ごすしかなかった。


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