風穴 2
【このはな姫】の具現した姿である此花が、黒岩の元にひょっこりと現れたのは、四日前のことだった。豪雨に天がむせび泣く中、意にも介さず惰眠を貪っていた彼の巨躯に、挨拶もなく、いきなり飛び乗ったのだ。
「起きよ、玄武」
と。
まったく身に覚えのない名称で呼ばれ、さらに無礼な闖入者にへそを曲げた黒岩は、それから二日、無視を決め込んで寝続けた。三日めの早朝、此花が、
「起きてよお……。悪かったから……」
と疲れた顔で謝罪をしなければ、いまでも遊永の地で女神を乗せたまま転がっていただろう。
黒岩の本体は岩であった。それも封印石である。記紀半島にある遊永の盆地に鎮座する、亀の顔を持った巨石。此花が「玄武」と彼を呼んだのは、遊永から北上したところにある豊都の都にいる黒い亀の守護神をもじったからだ。
現時点で日本の最高守護神とされる豊都の四神、青龍、白虎、朱雀、玄武。
暴風雨のような激烈な天候を司る青龍。
世界の国々を疾駆する脚力を持つ白虎。
炎を武器に魔を祓い浄化させる能力を持つ朱雀。
そして、強固な結界を万億の時代張り続けることのできる玄武。
その一つを冠されて満更でもなかった黒岩だったが、表情だけは無愛想を維持して、此花に問い質した。
「何の用だ、女神のお嬢さん? いくら神峰不二の遣いだといっても、無闇にひとの縄張りで暴れてもいいってことにはならんぜ」
遠く離れた遊永の地にも謳い聞こえる、不二の威光。並の神霊では、赤鱗竜や【このはな姫】の名を聞いただけでも萎縮するだろう。だが、かつて日本の首都にもなったことのある遊永で、相応の地位に着いていた黒岩は、女神の傍若に目をつぶらない。
「俺の下には、人間界が紡ぎ出した数多の怨霊が封じ込めてある。俺が少しあんたの領域の方面に体をずらせば、醜怪な死人たちが退去して不二に赴くことになるぞ」
「そのあんたの、封印と覚醒の力を貸してほしいの」
此花は、怯えることもなく、黒岩の腹に馬乗りになったまま、言った。
「赤鱗竜に力を与えるエネルギーが、いま、活性化し始めているの。その一つ一つを封じていかないと、あの子がまた暴れるわ」
自らの神体である亀岩に、かったるそうにもたれた黒岩は、目の前で、どこから取りだしたのか、クリアファイルに納められたレポート用紙の束を真剣な表情で繰る少女を眺めていた。
【人類改良計画】。ファイルの表には、達筆な毛筆で、そうタイトル付けされている。
幾つかのページには赤い付箋が貼られていた。早急に解決しなければならない案件だろうか。だがそれよりも、黒岩の内心の興味は別のところにあった。
人間の女子高生を模したのだろう。此花は、オーソドックスなセーラー服に黒縁眼鏡という衣装を身に着けていた。
「……いる? その演出?」
思わず口を挟むと、忙しそうな女神は、
「こんな趣味でもないと、赤鱗竜なんて気難しい子の相手なんて、していられないわよ」
と、コスプレへの強い愛着を口にした。
「最初にやってほしいのは、不二の樹海に居着いちゃった怨霊の抑制なの」
赤い付箋のページの一つを、黒岩の前に突き出す此花。
ページのタイトルは【緊急重点課題“テスト対策用”】となっていた。つくづく、なりきりの好きな女神である。
それでも一応付き合って目を通した黒岩は、その課題の詳細を知るにつれ、ほとんど動かない表情をわずかにしかめた。殺されて樹海に打ち捨てられた母子の怨念が、復讐のために赤鱗竜の力を欲しているらしい。
此花の説明によると、母子は遺体の状態で樹海に連れてこられたとのことだった。
「モスグリーンのフード付きトレーナーを着込んだ男が運んできたの。三ヶ月前だったから、まだ真夏ね。暑いのにどうしてそんな格好をしているのかって不思議に思ったから、よく覚えているわ」
樹海という場所の特性については、黒岩も聞き知っていた。人間が命を捨てにくる墓場。恐らくは、荒神である赤鱗竜の影響を受けているのだろう。竜神が定期的に噴火を起こしたのは、彼の好物の、高次の生き物の生命、を摂取するため、という噂を聞いたことがあったから。
【佐々木雅子】【佐々木陽介】という被害者の名前を確認しながら、封印の神は、
「その男とこの二人の関係は?」
と此花に尋ねた。女神は、
「父親みたいよ」
と短く答える。なるほど。信頼していた家族の裏切りに遭ったのなら、恨みが深くても仕方がない。
意外に人間の情に理解を示す黒岩は、此花に、
「で? お嬢は具体的に俺に何をやらせたいんだ? この母子を封じるのは容易いが、それで済ませて、殺した父親を不問にするってのは、すっきりしないんだが」
と問い掛けた。
「あ、やっぱり? それでもいいかなって思ったけど、ちょっと引っかかるものもあったのよね」
黒岩よりも感性がドライなのか、此花は、課題の載っているページに書かれた【Answer 母子の封印石を輝夜神社で祀って終わり】と書かれた回答に打ち消し線を引いた。
「それじゃあ父親も一緒に封印する? それなら、親子三人でずっと仲良く……」
「自分を殺した相手と一緒に封印されて喜ぶ人間がいるわけがないだろう」
女神のずれた考え方に呆れた青年は、新たな回答を、自ら提示した。
「母子に父親の処分を任せるっていうのはどうだ?」
「意外に酷いやつね、亀さんって」
今度は、此花が溜息をついた。
「人間の怨念に手を貸したなんて知れたら、お父さまに大目玉だわ」
此花の父親は、海と山を統べる、日本の神の中でも屈指の実力者だと評判が高い神霊だった。名を【大山津見】という。
しかも子や孫には美女が多く、超有名な【須佐之男】の神などとも婚姻による親戚関係を結んでいる。
「怖い親父なのか?」
黒岩がそれとなく気遣いをすると、
「怒らせると決まって、お姉さまを輝夜神社の祭神に送り込む、って脅すのよ。お姉さまは、一度結婚に失敗して出戻ってから、わたくしに嫉妬し続けているの。すごく意地悪な性格になってしまったから、もう付き合いきれないのよね」
「ふうん……」
此花からは、思わぬ複雑な家庭事情を突きつけられた。
出戻った理由は定かでないが、たしかに、黒岩から見ても容姿だけは愛らしい此花は、姉という比較存在にとって憎まれる対象なのかもしれない。
性格は別として。
「じゃあどうする? お嬢が人間の怨霊と深く関わりたくないというなら、俺も手伝いは断らせてもらう。人間に対してモノ扱いできるほど、反人思想は持ち合わせていないからな」
神という立場でありながら、黒岩にとっては、人間は支配する階級とは成り得なかった。古にはただの岩石だった自分を、信奉で神の位置にまで持ち上げてくれたのは、彼らに他ならなかったからだ。
それは、黒岩に限らず、此花にも同じことが言えたはずだ。山という自然物に降臨した神霊として、女神が大事にされてきたのも、人間に信仰心があってこそのことだったのだから。
「わたくしが神として穢れから遠ざかろうとすること自体が間違っている、ということなの?」
考えたこともない、というような、驚きの表情で聞き返す此花に、
「人間の営みを、穢れ、と思うところから直せってこと」
万を越える年を重ねた岩石の神は、大人が子どもを諭すような口調で、女神に自分の信念を刷り込んだ。