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火出国(ひいずるくに)の姫  作者: 小春日和
【瓊々杵】の謀略
19/30

海底宮 2

 巨大な触手を伸ばす海藻が数千という単位で森を形作る。

 一日の活動を終えた小魚たちが、思い思いの場所で眠りについていた。

 【負亀(ふき)】とともにできるだけ波を起こさないようにその場所を抜けた此花は、先にあった深くに切れ込んでいる海溝の中に身を投じた。

 海底宮殿はその奥にある。


 近づくと空気が変わる。水圧の拘束から解放され、濡れそぼった体を温かな酸素の膜が包み込む。

 女神の故郷を目の前にして、

「それではこれで我は戻る」

と亀の神獣は踵を返した。

「ありがとう、【負亀】のお爺さま」

気遣ってくれる心を感じ、此花は【負亀】に礼を言って、大きく手を振った。


 裸足で上がり込んだ宮殿の回廊は、二間、つまり三メートル半ほどの幅を持つ見通しのいい直線になっている。時間が時間のためか、左側に列挙する宮殿の住者たちの寝所に、明かりの気配はない。

 畳の感触が心地いいその廊下を、水着姿のまま此花は抜き足で進んだ。宮殿の主の娘である女神の部屋は、長い通路の最奥であった。

「どうせちょっと調べ物をしてすぐに帰るんだから、わたくしの居室は一番入り口でいいのに」。女官や従僕たちの簡易な部屋と並んでも平気だと言い切る少女。

 実際、此花はあまり棲家というものにこだわらなかった。【大山津見(おおやまつみ)】という、神々の中でも突出した実力者の息女である彼女は、必然的に高位の神格を与えられてしまう。その義務については女神自身も強く自覚しているが、身分によって他との差をつけられることは不本意だった。「偉い方は偉い方同士でそういう制約を作ってくださればいいのよ」と口の中でぶつぶつと不満を呟く。

 かなりの放任で育てられた此花は、姉の【磐長(いわなが)姫】のように、自分を売り込む教育を受けていない。【磐長】を始めとした女神たちの多くは、自分の格に見合った男神の元に嫁ぐのが当たり前となっていた。そのためには、相手の出自、功績、果ては付き合いのある友神の身分までを徹底的に調べ上げる。そうして婚姻が成立した暁には、今度は夫の勢力をおのれに取り込もうと試みるようになるのだ。

 そんな関係を、殺伐としたもの、と感じてしまう少女は、自身がその身分制度に組み込まれる可能性があることに、常日頃から強い憂いを感じていた。「お姉さまや【瓊々杵(ににぎ)】さまとお付き合いするぐらいなら、赤鱗竜と一緒に不二に(こも)っていたほうがマシだわ」。姉や、姉のかつての夫であった【瓊々杵】という男神に不平の本音を漏らしながら、あられもない姿の女神は、そっと静かに歩を進める。


 【磐長】が急進的に勢力を広げていた【瓊々杵】と結婚したのは、もう二〇〇年ほど前だった。

 【瓊々杵】は生粋の神ではなく、人間上がりの末席に甘んじていた神だ。大した神力も備えておらず、しかも風采すら冴えない劣神であった。

 その彼が【大山津見】の娘との婚姻を果たしたのは、取り巻く朋友に恵まれていたからに他ならない。人間であったときに人心を翻弄して王の位についていた彼は、その手腕を神界でも生かして、元人間という自分の希少さを売りに、好奇心旺盛な実力派の神々に取り入って行ったのだ。

 人間が神に昇格するためには、神々の世界のさらに上にある、天界、にて承認されなければならない。当時からその天界で選任委員を務めていた【大山津見】は、【瓊々杵】の力の波及を喜んだ。おのれが選んで神にした男が予想以上の上昇志向を持っていたのだ。策略婚を是とする【大山津見】にとって、これほど理解しやすく、また頼もしく感じる輩もいなかった。

 だから大事な娘である【磐長】をくれてやったのだ。【大山津見】にとっては、婚姻は【瓊々杵】への賞嘆の証であった。

 だが、一五〇年ほど結婚生活を続けた男神は、恩義があるはずの【大山津見】に向かって、こう言った。

「【磐長姫】は私には合いません。できれば【このはな姫】と取り替えていただきたい」


 【磐長】と【瓊々杵】の不仲の噂すら聞いたことのなかった父は、その申し出に憤慨しながらも、姉娘を呼び出して事情を聞いた。

 当時、まだ一四歳ぐらいの成長しか果たしていなかった此花も同席した。

 その席で、号泣しながら姉の放った一言。

「此花が【瓊々杵】さまを誘惑したのでございます」

 【大山津見】は、よもや周囲が心配するほど色気の足りない此花がそんなことをしでかすとは思いも寄らず、さめざめと泣く姉に困惑を浮かべる妹に、厳かに問うた。

「そのようなことはなかったであろう?」

すると、ますます困った顔になった少女は、首を縮めながら、ぼそぼそと答えた。

「わたくし……【瓊々杵】さまの求婚を受け入れたことがあります……。でも……っ。……だって、あれが求婚だなんて思わなかったのだもの……」


 そろそろ年頃だというのに一向に男神への興味を持たない【このはな姫】は、普段から女官たちに、半分からかいも交えてせっつかれていた。

「姫さま、遠い異国では、半人半魚の女が暴風の吹き荒れる夜に男神と出会うと運命が結ばれる、という物語があるそうですよ。お相手を決めかねるのなら、そんなふうに流れに委ねてしまってはいかが?」

 神界の末席にある女官たちよりも神力の足りない此花は、よく人間と同質であると揶揄されていた。だが半人半魚などと魚扱いまでされたことには、さすがに女神も深く落ち込んだ。

「わたくしも早々に力の強い男神さまの元に嫁いだほうがいいのかしら」。そう考え、言われた通り、嵐の日を選んで海面に顔を出した。

 その場に運悪く居合わせてしまったのが、姉の【磐長】と言い争いをして自宅を逃げ出していた【瓊々杵】であった。

 時化の海に翻弄される小舟に引き上げられた此花。憔悴しきった様子の【瓊々杵】から姉の愚痴を聞かされ続けるうちに、当初の目的も忘れて、彼に深い同情を寄せ始めた。

「そんなに自信を失わないでくださいませ、お義兄さま。お姉さまはときどききつい物言いをなさるけれど、それは一時のことでございます。いまごろはもう忘れてしまっているかもしれませんわ」

「【磐長】の性格はわかっている。だが【このはな姫】、私はそういう【磐長】自身に、もう嫌気が差してしまったのだよ」

辛そうに悲観的な行く末を口にする義兄に、此花の説得も熱が入る。

「お義兄さまはお姉さまと違ってお優しすぎるのかも知れません。わたくしもお姉さまを怖く思うことがありますもの。そういうときは少し離れてしまうと楽になるわ。そんなに思いつめたりなさらないで」

 雷雲が稲妻を頭上に降らせる。轟音の中、懸命に【瓊々杵】を慰めていた少女は、すぐそばを掠めた落雷に小さく悲鳴を上げた。

 その様子を見ていた【瓊々杵】の茫洋とした締まりのない顔に、徐々に精気が戻ってくる。

「【このはな姫】こそお優しいのだな。私のように位の低い男神にまで、この風雨の中を付き合ってくださるとは」

恐ろしげに雷の動向を窺う女神の手を取り、こけた頬を緩めて、頭を下げる。

「それでは姫、お互い、【磐長】を疎ましく思う者同士、これからも協力して行きましょう」

【瓊々杵】の言葉の真意はよくわからない此花だったが、自分の態度が義兄を勇気づけたのだと感じて、

「はいっ」

と嬉しそうに返事をした。


 長い回廊の終わりに自分の部屋の扉を見つけた此花は、ほっとして、思わず愚痴をこぼした。

「……あれは求婚を受けたとは言えないと思うの……」

 だがこの一件で奮起した【瓊々杵】が、姉との離婚を決め、さらに【このはな姫】獲得のためにいまでもこの宮殿に足繁く通っていることは事実である。

「わたくしが何をしたというのかしら……」

なぜかいつも予期せぬ厄介ごとに見舞われる女神は、おのれがいろいろとやらかしているという真実に気づかぬまま、憂鬱そうに溜息をついた。


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