表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火出国(ひいずるくに)の姫  作者: 小春日和
封神との出会い
16/30

風穴 16

残酷な描写があります。ご注意ください。


 モスグリーンのフード付きトレーナーが、綺麗に畳んで床に置かれている。

 そのほぼ真上で【佐々木健児】は首を吊っていた。


 深夜の佐々木家の内部。自分が殺した息子の、幼児だからまだ危険だと一度も使ったことのないのハイベッドの柵に縄を括りつけ、父はだらりと弛緩した体を揺らしていた。

 朝方に見た夢が耐え切れないほど彼の心を乱したのだ。五歳の幼な子と妻を絞め殺した過去の夢。血走った目で彼らの死体を車に詰め込み、一時間ほど走行した先の樹海に投棄した。

 もがく雅子とは対照的に、ほとんど抵抗のなかった陽介。けれど唇が何度もこう呼んだのを、健児は明確に記憶している。「パパ」。


 施錠された窓を丸ごとサッシから外した黒岩は、月明かりが煌々と差し込む室内を大股で横切った。

 そして健児の腰に腕を回すと、体を持ち上げて、首から縄を外しにかかる。

 作業の最後に、一度だけ後方に向かって、

「本当に助けていいのか?」

と確認した。

 後からついて侵入してきた此花が、掌に乗せた親子型のマスコットたちから意志を読み取って、

「お願いします」

と答える。


 雅子と陽介の「もう一度夫に会いたい」「家に戻りたい」という要望を受けて、同じ県内の西端の市までやってきた封神と女神。

 母子の接近が影響したのか、明け方に酷くうなされた健児は、一日中不可解な行動を取っていた。

 起きてから、まず丁寧に髭を剃った。それから勤め先に欠勤の連絡をし、その後、台所から持ち出した包丁を床に並べた。

 午後になって外出し、白いナイロンロープを一メートルだけ買い込んだ。子どものサイズに合わせたベッドは、背の高い仕様になっているとはいえ、健児の体を吊るすにはぎりぎりの丈しかなかったからだ。

 夜になってから、かつての家長は、自分の母に電話をした。嗚咽を垂れ流しながらの

「俺が二人を殺した」

の告白に、老女は金切り声を上げて、

「あたしは何も聞いてないからね!」

と通話を叩き切った。

 遺書を書き、酒を煽った後は、どろんとした視線を長いこと神峰不二に向けていた。


「生きているの?」

此花は、健児を床に転がした少年神の背後から覗き込んで、その生死を確認した。それに対して、

「まだ魂が抜けていないから大丈夫だろう。でも肉体のほうは限界を超えたように見える。蘇生してもまともには動かないだろうな」

そっけなく返す黒岩。

 それから封神は、女神の手から二体の依り代を受け取ると、魂を拘束している力を緩めた。

「少しだけな。あんまり器から離れていると昇天しちまうから」

 一時的に解放された母子は、懐かしい我が家を嬉しそうに飛び回る。


 満月より一日遅れの十六夜の月に照らされる室内。

 無表情で健児の遺書を繰っていた封神とは対照的に、此花は陽介の魂と楽しげに家内探索をしていた。

「花のお姫さまはどんな家に住んでるの?」

幼児の質問に、軽やかな足音を響かせた少女は答える。

「すごく広い屋敷よ。廊下がずうっと長くて、自分の部屋に行くまでに疲れちゃうようなところなの」

「どんなものを食べてるの?」

重なる陽介の問いには、

「それがよくわからないの。元の形が想像できなくなるまで加工しちゃうもの。わたくしたちは本来、他の生き物を食べてはいけないのよ。でもお父さまやお姉さまは好奇心が旺盛だから、いろいろなものを供されて困っているの」

と語る。


 いつの間にか雅子の気配が黒岩に寄り添っていた。

「あの人は何を書き遺そうとしたんですか?」。思念で尋ねる母に、封神は、

「あんたたちを殺したことの告白と、それから母親への恨みだな」

便箋数枚に渡る遺書を床に撒きながら返答した。


 いままでお世話をかけました。

 文面はそんなふうに始まっていた。

 私は妻の雅子と息子の陽介を死なせ、遺体を不二の樹海の穴の中に捨てました。八月三日のことです。妻とは長い間不仲でした。けれどそれは妻に非があるわけではなく、ほとんどが私に起因するものでした。雅子は忍耐強く賢い人で、息子の陽介もそれに倣って五才児とは思えないほど大人びた口を利く子どもでした。私は愚直な男であったために、二人の間にうまく入ることができず、家庭においてはいつも孤独を感じていました。

 滔々と自分の想いを語る前半部分から一変、内容は母親への苛烈な批判に移る。

 母の真千(まち)はずっと私の敵でした。学友との付き合いにも会社での人間関係にも、すべてにおいて口汚い罵倒を挟み、私は母のせいで深い人付き合いを断たれてきたのです。雅子との結婚に関してもそうでした。雅子自身はもちろん、妻の親族や友人に至るまでを母は調べ上げて嘲りの対象にしました。私が今回、自分の命を絶とうと最終的な判断をしたのも、母の思いやりのない一言が原因です。私が今後殺人者として裁かれることになるのなら、どうか母、真千にも相応の償いをさせてください。

 そして最後は罪のない息子にまで手をかけてしまった後悔を綴る。

 陽介に対しては申し訳ない気持ちでいっぱいです。愚か者の父を許してくれとしか言いようがありません。あの子が園で作ってきた数々の作品を見るたびに胸の痛みに号泣しました。陽介、どうかパパを恨まずに安らかになって欲しい。お前を早く天国に行かせてやりたいと、パパはいつも願っている。


「卑怯な男だな」

黒岩の口調には強い非難が込められていた。

 健児はおのれが人を殺したという事実に向き合っていない。原因を他に求め、死んだ後まで自分の立場を守ろうと、下手な卑下を繰り返し、同情を集めている。

 雅子も、消沈しながらも、「弱い人だったのですね」と納得したようだった。


 封神は遺書を回収し、それを手の中で握り潰す。

「人間の生ぬるい法で裁かせるより、このほうがいいだろう」

 このまま健児が意識を戻さず半死半生状態になれば、母子を殺した罪が世間に開示されることはない。代わりに彼にとってはもっとも辛い先行きが待っている。

 健児はこれから、軽蔑しきっている母の手で生かされ続けなければならないのだ。真千は不出来な息子の世話を喜びはしないだろう。雅子に対したのと同様に罵倒と侮蔑を繰り返すに違いない。しかも生命線を握られた健児には反抗の態を示すこともできない。

 真千にしても大幅な人生の狂いは避けられなかった。老いたいまになって、息子にすり減らされる生活が待つのだ。そして健児が殺人者であるという事実に関わりたくない彼女は、いつ蘇生して真実を喋ってしまうかわからない彼の動向に、ずっとはらはらと監視を続けなければならない。


「あんたと違って、健児と真千の穢れた魂はこれで大幅に寿命を縮めただろうよ。少しは気が晴れたかな?」

と雅子を慰めた黒岩に、母は「いろいろとありがとうございました」と満足気に礼を言った。そして、「人間は小さなことに囚われて過ぎているんですね」と重ねる。

 封神は、これもまた不器用だった健児の妻に対し、

「次の人生ではもっと自分を大事にしなよ」

と穏やかな声音で諭した。細微なことにこだわり、自分を責め続けてしまった雅子の間違った心根を、来世では少しでも正しい方向に向けてやりたいと思ったから。


 その瞬間。

 母の魂が、急に身軽になって、飛翔した。

 拘泥(こうでい)から解き放たれた念が、天空にあるという魂の源に引っ張られたようだ。


「陽介……」。戸惑ったような雅子の感情が息子を呼ぶ。

 けれど、幼児とともに在りたいと願う彼女の意に反して、魂は家屋の屋根を突き抜け、ぐんぐんと空に上る。


 外した窓から虚空を眺め、

「それでいいんだ」

黒岩は昇華していく母を優しい目で見送った。

「辛かったことから解放されたら、もうこの人生は終わっていいんだ」

 陽介への執着が現世に雅子を留めておく新たな枷になってはいけない、と封神は、死者の未練に同情しそうになる自分をも律する。


 漆黒の高みから、母の最後の想いが伝わった。「陽介をお任せしてもいいでしょうか?」と。

「ああ」

人間の想念を司る封印の神は、迷いなく、頷く。

「安心していい。そのために俺は神でいるんだから」


 雅子の気配が静かにこの世界から消え失せた。


 肉体を消失して三ヶ月。赤鱗竜という魔神に心を売り渡そうとまでしていた【佐々木雅子】は、清浄な夜気の中、天寿を全うして。

 逝った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ