風穴 13
地底へと続く穴の前で待ち続けた此花の周囲で、昼が、二度、夜に変わった。
一向に上がってくる気配のない黒岩に、
「亀さん、焼き亀になってしまったのかしら……」
熱波の煽りを体感した女神は、地下で起こっただろう死闘の状況を想像して、重い溜息をつく。
赤鱗竜が現れた。ほとんど可能性を考えなかった危惧が現実のものとなってしまった。万の時代を重ねた封神でも、かの竜に遭遇してしまえば、生きて帰ることは難しいだろう。
「亀さん……」
自分が死地へと追いやった青年の行く末を憂い、此花はうずくまって後悔を抑える。
不二の神霊として誰よりも優先されなければならない女神。自分を守るために他者の犠牲を厭うことを許されない立場。
「そんな柄ではないのに……」
むしろおのれを蔑ろにすることに気楽さを覚える此花は、重責に心を潰されそうになりながら、
「亀さん……」
ともう一度呟いた。
「ごめんなさい。わたくしは酷い神だと思うわ。いずれ赤鱗竜のお守りから解放されたら、わたくしもそちらに行って謝るから、どうか許してください」
封神の消えた穴に向かって頭を下げ、思いつめて疲れた精神を休めるために、地面に転がって目を閉じる。
赤鱗竜という厄介な魔神とともにありながら、女神が実際にかの竜の猛威に遭遇したのは、今回が初めてであった。此花が不二山の神体と奉じられてから、不二は一度も噴火していないからだ。
特に自分から近づく必要のなかった赤鱗竜。そのため、「わたくしって本当に祭神として必要なのかしら」と疑問に思ってしまうほど、竜神は女神にとっても遠い存在だった。
本来なら一生関わらずに済んだかもしれない火の神竜。
ところが近年になって、赤鱗竜の鳴動の痕跡が各地で見つかるようになった。不二の裾に湧く五つの湖では、湖底の地割れを思わせる大量の泡が観測された。また、人間のために設えられた登山道にも、深い亀裂が定期的に現れている。
周辺の湧水の量が激増しているのも無視できない現象だった。過去、日本において噴火を起こした山々では同様の不可思議が何度も確認されているからだ。
不二が噴火する。
人間の間でも流言は早々に広まったが、天災に対して制御の力を持たない彼らは、すぐ対策を諦めた。敵わない敵に知恵を絞る者は、人類においてわずかしか存在しない。
一方で神の世界から見た不二の暴虐は、留めることのできる厄災だった。地震や異常気象などの災害は、神界からすれば、特定の荒神が引き起こした暴動に過ぎない。
輝夜神宮に参拝を重ねる人間たちの中には、神の力を頼って不二の噴火を抑えようとする者が少なくなかった。
「かぐやさん、このはなさん、どうか不二山を宥めてやってくださいね」
そんな祈りを聞くたびに、此花は、唯一、赤鱗竜を鎮めることのできるおのれの立場をきちんと遂行しようと、奮闘を重ねてきたのである。
でも。
「亀さん……」
三度目の言葉を夢うつつで繰り返した女神は、自分のせいで他者が死ぬという重みに耐えかねて、泣き声を上げた。
「赤鱗竜の馬鹿……。もっと嫌な神さまのときに出てくればいいのに……」
応援を頼む神に優劣をつけるという、非常に失礼な本音を口の端に乗せて、少女は身を震わせ続ける。
夜の帳が静かに大地に吸い込まれた。鬱蒼とした樹木の間から、朝の淡い光が差し込む。
湿った地面に細い陽光が届いた。
どこからか鳥の鳴き声が聞こえる。
かさかさと落ち葉を揺らすのは、活動を始めた虫たちだろうか。
伏していた自分の髪を引っ張る感触を得た此花は、
「それは食べ物じゃないのよ」
と、野生鹿の出現を想定しながら顔を上げた。
地底の穴から上半身を抜きかけた少年が、複雑な表情で、
「食わねえよ」
と答えた。
そのまま身軽に地上に這い上がった彼を見て、女神が嗚咽を激しくする。
困った顔で少女を眺める少年神。
その状況の中、此花は、制限できない感情を溢れさせながら、言った。
「ど……どちらさまですか?」
「……俺だってわからないのに、そのリアクション?」
戻ってくることを切望していた黒岩にがっかりと肩を落とさせる女神。