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火出国(ひいずるくに)の姫  作者: 小春日和
封神との出会い
12/30

風穴 12

「なぜ私を責めないでいてくれるの……?」

 吹き荒れる竜神の風と、叩き落ちる封神の雨。暴風雨の轟音が鳴り響く中、静かに静かに、雅子の想いが広がっていく。

「私がいたから陽介は殺されてしまったの。私がいたから健児(けんじ)は不幸になったの。私がやり方を間違えたから、誰も幸せになれなかったの。それなのにどうして私に責任はないって言ってくれるの?」

 自虐に走らなければならなかった彼女の生き方が、黒岩に迫ってくる。

 溢れ出す感情の奔流。締めつけるような悲しみと孤独。


 雅子は当初、幸せだった。とても幸せだった。【佐々木健児(けんじ)】の妻になれたことが。ずっと愛し合ってきた男と家族になれたことが。

 結婚式で数多の知人に祝福を受ける喜びの中、一人だけ睥睨(へいげい)の視線を向ける健児の母が、棘のように気になった。でも離れて暮らす義母への不安は、それ以上大きくはならなかった。

 貪るようにお互いを求め合った新婚期。若い夫婦にとっては急激な変化だった、結婚、という転機。

 その環境に早く慣れようとする焦りが、雅子と健児を少しずつ蝕んでいく。


 陽介の誕生。自分の分身を得た充足感に満たされた雅子に比べて、親になる心構えの薄かった健児は親密な母子の関係に嫉妬した。そして、強権を行使できる世帯の主という自分の地位を取り戻そうと、雅子に敵意を抱く自分の母を味方につけた。

 毎日のようにかかる義母からの不条理な説教の電話。「あんた自分の立場がわかってるの!?」。それを訴えたときに夫が返す冷笑。「嫁なんだからお前が折れるのは当たり前だろう」。味方のない中、手のかかる赤ん坊の世話の疲労も手伝って、雅子は急速に病んでいった。


 雅子は夫に対してずっと理解を求めていた。一生懸命母親になろうとしたこと、そのために協力して欲しかったこと、それを健児にわかってもらいたかった。

 だから何度も訴えた。「お義母さんの電話を止めさせて。あれを聞くと頭がおかしくなりそうなの」。妻の懇願に、けれど依怙地になっていた健児は耳を貸さなかった。「俺の母親を迷惑がるなんて、お前には失望した」と。


 やがて義母は雅子の家庭に乗り込んできた。半同居のような形で陽介の懐柔を図っていく貧相な老婆。「ママはそんなこともできないんでちゅか。駄目でちゅねえ」。まだ言葉を解さない乳児に繰り返された言葉は、孫に向けてというより、それを見守る雅子に対しての嫌味だった。

 自信を失い、辛さを吐き出す相手すら見失った若い母親。


 義母が帰った後の健児との怒鳴り合いは日常茶飯事になっていた。精神を病んだ雅子は、ときどき自覚もなしに夫に刃物を向けることすらあった。健児はそんな妻を持て余し、多くはその場から逃げ出した。夫を追い出した後の家庭は、雅子にとって空気すら清々しい空間に昇華した。

 だから言ったのだ。「あんたなんかこの世からいなくなればいいのに」。それを聞いた健児は激怒した。「お前こそいなくなればせいせいする」。


「みんなが私を責めるの。だから私が悪者にならなければいけないの」

自分に課せられた不条理な罪を、受け入れようとする諦めの心と、認めたくない抵抗の心が、いまもまだ雅子の中で拮抗している。

「悪者の私が健児を否定したから殺されたの。だけど、本当にそう? 私のせいで陽介まで殺されなければならなかったほど、私は悪いことをしたの?」


 人間は愚かだ。自分の本当の立場も見えない。

 多くの魂を封じてきた黒岩にとって、雅子の心情は、よくある、迷い、であった。その結果が夫から殺されるという惨事だったとしても、同情はするが、神の自分が白黒の判別をつける結論にまでは至らない。

 でも、と黒岩は上空を漂う赤鱗竜を睨んだ。

 この哀れな母には、次の人生、というやり直しが間違いなく約束されていたはずだ。落ち度のない生き方をしてきた雅子の魂が滅びる理由など、あるはずがないのだから。


 鱗の劫火がわずかに勢いを弱めた。母が、囚われていた妄執を吐き出したからかもしれない。

 封神は意を決して、赤い魂に直接手をかけ、内部に腕を突き通した。

 再生したばかりの少年神の体を炎が焼く。けれど今度は片っ端からそれを湖水に封じ込む。

 水と火。どちらが先に音を上げるか。敗北の結末を頭から追い出し、臆することなく、黒岩は神竜の鱗を仕留めにかかる。


 赤鱗竜の轟きがいっそう激しく響き渡った。水上を忙しなくうねる長い体は、いまやどす黒い火炎に包まれている。

 咆哮の圧力にまた吹き飛ばされそうになった少年神は、必死で母子の魂にしがみついて怒鳴った。

「もうちょっとなのに邪魔すんなよっ! 鱗の一枚ぐらい封じられたっていいだろうがっ!」


 だが、上空を見上げて、かの竜の様子を知った黒岩は息を呑んだ。

 赤鱗竜は、水中に顔を突っ込んで、封神を見ていた。


 地底湖には潜り込んでこないと信じていた竜神。それが大口を開けて構えている。

 呑まれる、と瞬時に危機感を高めた少年神は、母子を抱えたまま、慌てて身を翻した。刹那、竜の巨体が黒岩のいた位置を抉る。


 なぜ赤鱗竜は鱗一枚でこんなにも必死になるのか。

「もしかして、鱗っていうのはあいつの一部なんじゃなくて」

黒岩は推量する。

「あいつ、鱗と本体が繋がっているんじゃないのか」

 鱗は赤鱗竜の化身。赤鱗竜そのもの。もし封神がそれを封印したりしたら、神竜自体も動きを止められてしまうのではないか。


 だったら。

 少年の目に強い勝機が宿る。

 赤鱗竜を封じるなんて夢物語だと思っていた。けれどそれが実現するかもしれない。

 鱗はたしかに厄介な存在だが、竜神本体を相手にするよりは、ずっと精神的負担が減る。


「おい、【佐々木雅子】、【佐々木陽介】。協力してくれ」

黒岩は母子に呼びかけた。

「あんたたちからも強い意志で赤鱗竜との縁を切って欲しいんだ。神なんてもんは人間がいなけりゃ何の力も持てない存在なんだから」

と。


「神さまよりも僕たちのほうが強いの?」

沈黙を守っていた陽介が反応した。

「ああ。お前たちがいなかったら、誰も拝んでくれないからな」

少年神は、赤玉の中の幼子が無事に動き出すのを見届けてから、答えを返す。

「拝んでくれないと神さまは死んじゃうの?」

無邪気な質問がまた飛ぶ。それに対して封神は、

「俺や赤鱗竜はもともとただの物にすぎない。岩や山が神格を持っただけの【付喪神(つくもがみ)】って神なんだよ。だから人間が支えてくれないと、また物に戻っちまうんだ」

と答えた。


 人間の想念の力は強い。無から有を生み出すことができるのは、恐らく人間だけだろう。

 その念、つまり、信仰、の力によって誕生した神という存在は、どんなに超人的な能力を持とうとも、生みの親である人間をないがしろにはできない。


 それを忘れた赤鱗竜に、敗北以外の道が残るわけがない。


 力任せに母子の魂から鱗を抜き出そうとしていた黒岩は、内部からそれを押し出す意志を受け取った。

「そうだ。その調子」

 陽介と雅子にとって、いったん自らが望んでしまった赤鱗竜の助力を拒否することは、相当に強い抵抗感があるはずだ。それが火勢の強さとなって彼らを苦しめていることは想像に難くない。

 けれど母子は封神に協力した。

 黒岩が母子に救いをもたらすと信じてくれたから。


 爛れたように赤く溶ける母子の魂から、ゆっくりと鱗が顔を出した。

 巨大な神竜のものらしい、一抱えもある火の塊。

 身を焦がしながら、少年神は、赤鱗竜の分身に渾身の力を込めた封印を施した。

 辺り一面を真っ白な蒸気が覆い、地底湖の水が目に見えて減っていく。


 火勢がぐんぐんと減少した。

「いける」。封神は確信を持つ。


 だが、感覚のほとんどを封印の能力のほうに使っていた黒岩に、赤鱗竜は激しい頭突きを食らわせてきた。まったくの無警戒で跳ね飛ばされた少年は、呼吸を詰まらせて、一瞬意識を手放す。

 半分ほど消火された鱗が封神の手からこぼれ落ちた。

 すぐに覚醒し、

「あ、しまった」

と回収に腕を伸ばした黒岩の鼻先。

 竜神の長い胴が掠めていく。


 そして赤鱗竜は、自らの分身を飲み込んだ。

 その後は、気が済んだとばかりに上昇していく。


 あと少しのところまで凶神を追い詰めた少年神。

 本音はまだ神竜に食らいついて行きたい。

 だが。

 もう力は尽きていた。

 悠然と地底空間を飛翔する火の竜を見上げながら、

「畜生……」

とだけ呟いて、湖底に転がる。

 本当は挑む予定すらなかった赤鱗竜との闘い。力の差は歴然としていたが、それでも勝つことができなかったのは悔しい。


 でも。

「……まあいいか……」

ふと横を向いた封神は、目を細めて、おのれの行動のもたらした結果に微笑みかけた。

 ずいぶんと傷んではいたが、正常な白色に戻った雅子と陽介の魂が、慕うようにふわふわと寄ってきていたからだ。

 黒岩は身を起こして、そばにあった穴だらけの溶岩の欠片を拾い上げた。

「後でもっとましな依り代に移してやるからな」

精一杯生きた人間に対しての敬意を持って、二人を封印する。


 勝つことはできなかったが、それでも母子を神竜に奪われてしまうことは阻止できた。

 目を閉じて身の回復に努めた少年神の口から、

「ざまあみろ、赤鱗竜」

と負けず嫌いな台詞がこぼれる。


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