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火出国(ひいずるくに)の姫  作者: 小春日和
封神との出会い
10/30

風穴 10

 母子を封印する。

 最初の目的から逃げ出すわけには行かなくなった封神だが、問題は多い。

 まず力の差。黒岩が御することのできない大物の魂は扱えない。特にいま、肉体を激しく損壊している青年には、腕力で屈服させるという荒業も使えない。

 次に依り代の問題。通常の人間の魂ならば、おそらくどんな道具にでも封じることは可能。けれど、岩をも溶かすほどの熱を帯びた魂は、依り代を溶かしてしまって、ますます暴走しかねない。

 まず黒岩自身が力を取り戻すこと。

 それから適切な依り代を探すこと。

 その二点を急がなければならない。


 唯一の救いは、陽介が雅子の動揺を引きだしてくれたせいか、母子の黒岩への攻撃が止んでいることだった。新たな損傷を作る心配は、とりあえず、ない、

 冷水が燻る熱を冷ましてくれるのが心地よかった。

 目と耳の機能を失っている封神は、さらにすべての神経を遮断した。自分の状態に意識を埋没させる。

 心臓を強制的に早め、新しい血を送り出し、臓器を修復し、神経を整える。皮膚、骨、肉、脂肪を再稼働する。壊死を切り捨て、使える組織を転移し、正常な体型に作り変えていく。

 長身だった青年の背丈はどんどん縮んでいき、十代前半の少年のような容姿に変わっていった。

 水底に張りついていた体は、体重の減少とともにふわりと浮き上がり、水面へと上昇していく。


「赤鱗竜」

陽介の無邪気な声が黒岩の脳に響いてきた。

「僕たち、やっぱり鱗は返すよ。こんな怖いもの、もう要らない」

どうやら神竜と話をしているらしい。


 湖面を渡る風が、再生した封神の顔を撫でた。

 まぶたが開かれ、黒く澄んだ瞳が宙を見据える。

 地底湖にたゆたう不安定な体。

 いつのまにか湖の端のほうまで流されていた少年神は、天井から垂れ下がる石灰岩混じりのつららを掴んだ。感触を確かめながら、ゆっくりと身を起こす。


 そして彼は、復活した視界の中に、湖の真ん中でとぐろを巻く赤い鱗の竜と、その眼前に浮遊する赤い玉を見つけた。


「赤鱗竜」

陽介はまた竜神を呼んだ。

「僕はパパを殺しちゃったりしたくないんだ。赤鱗竜は、僕たちが鱗をもらえばパパに会いに行けるって言ったよね? でもこの鱗、熱くて怖くて、もう持っていたくないんだよ」

 まだ幼い陽介には神竜の脅威が理解できていないようだった。表皮のところどころから火炎を噴き上げる凶悪な竜神に、恐れげもなく、能力の返上を持ちかける。

 赤鱗竜は、一見、幼子の要望を聞いているようだった。

 だが黒岩は、神同士の感応力とでもいえる感覚で、かの竜の真意を読み取っていた。

 赤鱗竜は、怒っている。


 竜神が咆えた。と同時に、大量の羽虫が一斉に飛び立ったようなおぞましい響きが地底湖を掻き回した。低周波の蠕動が湖面を大きく波打たせる。水中にいくつもの渦が現れた。

 鼓膜を破らんばかりの赤鱗竜の咆哮に、黒岩は耳を強く塞いで目を閉じた。粘膜のすべてが揺さぶられるような強烈な振動。自覚せず、喉の奥からえづいたような泣き声が上がる。

 母子の悲鳴が、一瞬だけ、空間を裂いた気がした。

「パパあ……」

陽介の引きつった思念が、封神の心に流れ込む。

「うちに帰りたいよお……」

と。


 非常に不愉快な気分になっていることを、黒岩は自覚した。

 もともと封神は感情の起伏を抑える忍耐力に長けている。だがそれでも、ふつふつとこみあげる衝動を無視できなかった。

 なぜ赤鱗竜に母子を翻弄する権利があるのか。

 子が父を慕い、妻が夫の裏切りを恨む。それは人間ならば当然に沸き起こる情だ。人間同士で絡み合い、反発し、解していくべきことのはずだ。

 その自然な行動に横槍を入れ、正常な関係に戻ろうとしていた母子を脅かす権利が。

 なぜ赤鱗竜にあるのか。


「赤鱗竜自身を封じてほしい」と此花は言っていた。それが可能なら、黒岩はすぐにでも試みていただろう。

 できるだろうか。再びおのれの能力に問う。

 が、答えは否。

 間近にしてみて改めてわかる。この竜神は、桁違いの化物だ。


 目を水中に転じると、渦の狭間で母子の魂が振り回されているのが見えた。

 竜神はそれを目で追っていたが、追撃を加えようとする気配はなかった。

 このまま二人が擦り切れて滅してしまうのを、高みから見物する気だろうか。


「いや、待てよ……」。封神は引っかかりを覚えた。

 先刻から赤鱗竜はこの空間に滞在していた。黒岩が母子に瀕死を負わされていたときも、上空から黙って見ていた。

 なぜか竜神は、湖の中の事象に対しては、自分で手を下そうとはしない。


 黒岩への粛清に関しては、たしかに母子の力は強大で、赤鱗竜の出る幕はなかったかもしれない。でも、曲がりなりにも神である存在を消失させようとしたのだ。竜神自身が力を貸せば、確実に封神を仕留められたはず。

 いまだって、ほんの一瞬、湖水の中に潜り込んで母子を食べてしまえば、それでことは済むはずなのだ。

 もしかして。黒岩にわずかな期待が灯る。

 もしかして、火を操る神竜は、この地底湖を鬼門としているのではないだろうか。


 樹海の地下に湧く地底湖。噴火時に麓に流れた溶岩が形作ったとされる風穴に、永い時間をかけて溜まった、不二の伏流水。

 赤鱗竜が不二の噴火の化身であるなら、この地下水も、同じく不二山によってもたらされた産物だ。赤鱗竜に劣る存在ではない。

 水は火を消す。火は水に勝てない。


 ただ湖の水をかければいいというものではない。そんな単純な戦法が赤鱗竜に通じるとは黒岩も思っていなかった。そして、地底湖に神竜を引き込むというやり方にも無理がある。赤鱗竜を動かす方法がわからない。

 それに、入水させた赤鱗竜がすぐにおとなしくなるという計算にも確信が持てなかった。竜神の鱗を内包しただけの雅子と陽介は、水中でもしぶとく火炎を放ち続けた。神竜にあれをやられたらひとたまりもない。


 封神はひとまず赤鱗竜の退治を念頭から排除した。最初の目的に立ち返る。

 【佐々木雅子】【佐々木陽介】の母子の封印。赤鱗竜の火の力を与えられてしまった二人を、鎮めて、封じる。

 封印する道具は、この地底湖だ。


「待ってろよ」

活路を見出した少年神は、目をきらきらと輝かせて、勝気そうな笑みを浮かべた。

「赤鱗竜なんて毒神からすぐに引き剥がしてやるから。封印が成功したら、ちゃんと父親のところにも連れてってやるからな」

親子の関係に正常な終止符を打てなかった哀れな魂に、そう宣言する。


 ふと視線を感じて前を向くと、火の神竜が黒岩を見ていた。

「やべっ」

容姿に合わせて口調まで子どもに戻ってしまった封神は、慌てて水中に身を投じる。


 荒れる渦潮(うずしお)の中を泳ぎながら、少年は、

「あれ?」

と、いま見た光景に首をかしげた。

 自分を睨みつけていた赤鱗竜の眼窩。そこには、両方とも、目玉がなかったような気がする。


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