表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

序章

登場人物

【ヒューマン】

藤村武 24歳

職業 保険外交員

節刀を下賜される

拾い受けた魂が大きくなり

マンションでは飼育禁止となっているため、バレないかいつもヒヤヒヤしている

老人より魂とA4の紙を手渡されるが、使い道にこまる

その紙には何も書かれていない

魂がおおきくなることにつれ、その紙には重要な内容が浮かび上がる


藤村鑑 23歳

大学院生

武の弟

AIメガネを常にかけており、常に誰かと交信をしている

ショートケーキが嫌い

武より少し汚れたA4の紙を見せられるが、丸めてゴミ箱に入れてしまう

捨てたはずのA4の紙は、翌日机の上にあり、『鳳』と一文字書かれている。


魂 生後2ヶ月

物語の途中で拾う捨て犬

ケルベロスの化身

首に何か書かれているが、武が気がつくのは3ヶ月後のトリーミングの頃



名もなき老人

魂を最初に拾う老人

魂を武に譲り渡す

実は神主

いつもA4の紙を2枚持ち歩いている

武に会ってから姿を見せない


山水施(やまみずほどこす)

水道橋駅長 48歳

温厚で親切な駅長

正体不明

飯田橋駅長と飲むことが多い

酒豪


立川傑(すぐる)

御茶ノ水駅長 42歳

正義感ある若き駅長

最近まで総武線快速の運転手

弱視となりコンタクトレンズを使用

日本史に詳しい


(かしわ)穂高

柏駅長 57歳

中肉中背で顎髭がある

駅員より『タカさん』と呼ばれている


尾畑芳樹

津田沼駅長 55歳

旅行好きから東日本に就職する


時の帝王 鳳来 63歳

武に節刀を下賜する

判断力、統率力があり、民より親しまれている


帝王の弟 月宮鳳蝶 58歳

摂政として政務を執り行う

魂の飼い主で、今でも探している

後に魂の飼い主を探しあて、任務を託す


小高一馬

首相 57歳

減税対策、雇用対策が制作の柱

元外務大臣

柏駅をよく利用する

鉄オタの一面もある

時間に厳しい


【魔界】

ケルベロス 756歳

魔界の番犬であるが、あることがきっかけで人が住む世界へ

既に何回か蘇生しているため、本来の年齢はわからない

ベルゼブブから渡された契約書を探すことに


【神】

アマテラスオオミカミ

岩戸のシーンで止まったまま進んでいない


イザナギ

桃の実を拾い上げるシーンで止まっている

このあと禊になるのだが、何故かアマテラスは別次元で活動している


【アイテム】

A4の紙

子犬

節刀

勾玉

十拳剣

契約書












第一章 魂を拾う日

一 雨の水道橋

四月の雨というのは、どうしてこうも意地が悪いのだろう、と藤村武は思った。

朝から降り続ける雨は、細かいようでいて傘の縁をすり抜け、スーツの肩口をじっとりと濡らす。革靴の底は薄く、水道橋の石畳に溜まった雨水を吸い上げるように冷たかった。手には分厚い書類鞄。中には保険の提案書が三十部、それから会社のロゴが入ったボールペンが五本。どれも今日一日、誰の心にも刺さらなかったものだ。

武は二十四歳だった。

東都生命保険の営業三年目。担当エリアは千代田区と文京区の一部、それから中央線沿いのいくつかの駅前商店街。成績は可もなく不可もなく、課長からは「お前は丁寧だけど、もう少し押しが足りない」と月に一度は言われる。押しが足りない、というのはおそらく正しい評価で、武自身もそれはわかっていた。ただ、押すことの意味が、どうもよくわからないのだった。保険というのは、誰かが死ぬか、誰かが病気になるか、誰かが事故に遭うことを前提に売るものだ。その前提を口にするのが、武にはいつも少し、後ろめたかった。

今日の最後の訪問先は水道橋駅の近くにある歯科医院だった。院長は五十代の温厚な男で、去年から医師賠償責任保険の見直しを検討しているという話を聞いていた。しかし今日も「もう少し考えさせてくれ」と言われ、お茶を一杯だけごちそうになって追い返された格好だ。

改札口に向かいながら、武は空を見上げた。低い雲が橋の向こうに重なっている。神田川が雨を受けて鈍く光っていた。

そのとき、橋のたもとの植え込みの前で、小さな老人が傘も差さずにしゃがんでいるのが目に入った。

雨に濡れた薄い白髪。皺だらけの手が地面に向かって伸びている。老人にしては奇妙なほど静かな佇まいで、まるでそこに根を張った樹木のように、ただそこにいた。

武は立ち止まった。

通り過ぎてしまえばよかった。営業マンとしてのカンが「余計なことに関わるな」と告げていた。しかし足が止まった。老人の傘のない頭に、雨が静かに降り注いでいた。

「あの」

武は声をかけた。「大丈夫ですか」

老人はゆっくりと振り返った。

驚くほど深い目をした老人だった。七十代か、あるいは八十代か、正確な年齢が見当もつかない。顔の皺は深く、しかし目だけが妙に若々しく光っていた。着ているものは地味な紺の作務衣で、足元は草履だった。雨の中の草履。それ自体がすでに、この老人が普通ではないことを示していた。

「ああ」と老人は言った。低く、静かな声だった。「ちょうどよかった」

ちょうどよかった、という言葉が引っかかった。武を待っていたような口ぶりだったからだ。

老人の両手の間に、何かいた。

最初は汚れた布切れかと思った。しかしよく見ると、それは生き物だった。小さな、灰色がかった黒い毛の子犬だった。生後一、二ヶ月というところだろうか。目をつぶり、老人の掌の中でかすかに震えている。

「この子をもらってくれんか」

老人は言った。

「え」

「お前さんに頼みたい」

武はしばらく呆然としていた。雨が鞄の上に落ちた。橋の上を自転車が一台、走り過ぎた。

「あの、でも僕は」

「マンション住まいか」

「はい」

「ペット禁止か」

「……はい」

老人はうなずいた。まるでそれも既知のことであるかのように。

「それでも頼む」

武は老人の顔を見た。老人の目に、何か重いものが宿っているように感じた。懇願でも命令でもない、もっと別の何か。義務に似た、しかし義務よりも深い何か。

「なぜ僕なんですか」

「縁というものがある」

老人は言った。「理屈ではなく、縁だ。お前さんが今日ここを通ることも、この子がここにいることも、みな繋がっている」

武は子犬を見た。子犬は老人の掌の中で、わずかに鼻先を動かした。

「名前は」

「まだない。お前さんが決めればよい」

「病気とかは」

「丈夫だ。ただ少し、普通の犬とは違う」

「どう違うんですか」

老人はしばらく黙った。それからゆっくりと言った。「大きくなる」

「大きく」

「うん。それから、他にもいろいろ」

他にもいろいろ、というのは明らかに説明を端折った言い方だった。武は何か聞こうとしたが、老人はすでに子犬を差し出していた。

武は反射的に両手を出した。

子犬が武の掌に移った瞬間、何かが体の中を通り抜けた。電気のようでいて、電気ではない。光のようでいて、光でもない。胸の奥がほんの少し、確かに温かくなった。

子犬は目を開けた。

瞳の色が、奇妙だった。黒でも茶でもなく、深い深い紅色。宝石のように澄んでいて、しかし何か底知れない暗さも持っていた。子犬はじっと武を見た。

武はその目から、しばらく視線を外せなかった。

「それと」と老人が言った。

武が顔を上げると、老人は作務衣の内側から、折り畳んだA4の紙を取り出した。二枚あった。一枚を武に差し出す。

「これも持っておいてくれ」

武は片手で子犬を抱えながら、もう一方の手でそれを受け取った。白い紙だった。折り目がついているだけで、何も書かれていない。

「これは何ですか」

「大切にしまっておきなさい」

「何も書いていませんが」

「いずれ書かれる」

武はまた呆然とした。しかし老人の口調には、質問を許さない静けさがあった。

「わかりました」

気がつくと武はそう言っていた。

老人は立ち上がった。思ったより背が高かった。雨の中に立つと、その輪郭がどこか滲むように見えた。

「あの、お名前は」

「縁があればまた会おう」

老人は言って、橋の方へ歩き出した。

武は見送った。老人の草履が石畳を踏む音が、雨音の中に溶けていった。

十秒もしないうちに、老人の姿は見えなくなっていた。

角を曲がったわけでも、人波に紛れたわけでもない。ただ、いなくなっていた。

武は腕の中の子犬を見た。子犬はまた目を閉じ、体を武の腕に押しつけるようにして眠り始めていた。その体が、思ったより温かかった。

雨はまだ降り続けていた。


二 マンションへの帰還

武のマンションは水道橋から総武線で二駅、飯田橋を経由して四ツ谷方面へ少し戻った場所にある。正確には市ヶ谷と四ツ谷の間、外堀通りから一本入った静かな路地に建つ、築十二年の七階建てだった。

一Kの部屋。六畳の居室と四畳半のダイニングキッチン、ユニットバス。家賃は八万二千円で、東都生命の営業三年目の給料にとっては少し重い。それでもここを選んだのは、日当たりがよく、駅からの距離がほどほどで、何より管理会社の担当者が感じのいい人だったからだ。

その管理会社の賃貸契約書には、明確に記されている。「ペットの飼育を禁止する。ただし小鳥、魚類を除く」と。

武は濡れた書類鞄を左脇に抱え、子犬をコートの内側にしまい込んで、マンションのエントランスを通り抜けた。

エントランスには防犯カメラが二台ある。一台は入口正面、もう一台はエレベーター前。武は顔を若干伏せ気味にしながらエレベーターに乗り込んだ。五階のボタンを押し、扉が閉まってから、ようやく息を吐いた。

コートの内側で子犬が動いた。

「しー」と武は小声で言った。「もう少しだけ、静かにしてくれよ」

子犬は鼻を鳴らした。それから黙った。まるで言葉がわかったかのように。

五〇四号室。武は鍵を出し、指先が少し震えているのに気づいた。緊張しているのか、雨で冷えているのか、どちらかわからなかった。

部屋に入り、鍵を閉め、電気をつけた。

コートを脱ぐと、子犬がぼとりと床に落ちそうになった。慌てて受け止める。子犬は武の手の中で、また目を開けて武を見た。

「お前、重いな」

生後二ヶ月にしては、確かに少し重い気がした。しかし形は普通の子犬だ。耳は少し大きく、足は思ったよりしっかりしていて、尻尾は短い。毛色は黒と灰色が混じったような、不思議な色合いだった。光の当たり方によって、深い藍色にも見える。

武は子犬をキッチンのシンク脇に置き、タオルで体を拭いた。子犬はおとなしく拭かれていた。抵抗も鳴き声もなく、ただじっと武の手の動きに身を委ねていた。

「お前、本当に普通の犬か?」

子犬は答えなかった。当然だ。

武は冷蔵庫を開けた。牛乳がある。子犬に牛乳はあまりよくないと聞いた気がする。そういえば何を食べさせればいいのか全くわからない。

スマートフォンで検索した。「子犬 生後2ヶ月 食事」。ドッグフード、ふやかしたもの、一日三回から四回。なるほど。しかしドッグフードは手元にない。今夜はどうするか。

武は台所の棚を漁り、昨日残った白米と、ツナ缶を見つけた。ツナを少量、指でほぐして小皿に置き、子犬の前に出した。

子犬はしばらくそれを見てから、ゆっくりと食べ始めた。

武はその様子を見ながら、自分が今何をしているのかを改めて考えた。

雨の中で見知らぬ老人から子犬を受け取った。何も書かれていないA4の紙を受け取った。ペット禁止のマンションに連れ帰った。明日からどうするかは全く考えていない。

これは正気の行動ではない。

しかし不思議と、後悔はなかった。

武は濡れたスーツを脱ぎながら、老人の言葉を思い出した。「縁というものがある」。それから「大きくなる」。

大きくなる、というのはどの程度の話なのだろう。今は掌に収まるくらいだが、ゴールデンレトリバーくらいになるのか。それとも。

考えても答えは出ない。

武は書類鞄を開け、老人からもらったA4の紙を取り出した。折り目に沿って広げた。

白い、何も書かれていない紙だった。

光にかざしてみた。透かし模様もない。裏側も何もない。ただの、普通のコピー用紙に見えた。

いずれ書かれる、と老人は言った。

武は紙を四つ折りにして、本棚の上に置いた。

子犬がツナを食べ終えて、鼻をぺろりと舐めた。それから武の方を見た。

「名前、か」

武は子犬の前にしゃがんだ。「何がいいかな」

子犬は答えない。ただ、その深い紅色の目で武を見ていた。

「魂、でどうだ」

武は少し考えてから言った。「お前、老人からもらったみたいなものだし。魂。タマ、じゃちょっと平凡すぎるか。でも、タマ……いや、魂でいこう。漢字で魂、と書いて、読みは、そうだな、こん、じゃないな。たま、か。魂、たま」

子犬はしっぽを一度、振った。

武はそれを名前への同意と解釈することにした。

「じゃ、魂だ。よろしく」

魂はまたしっぽを振った。


三 弟の訪問

翌朝、武が出勤の準備をしていると、インターフォンが鳴った。

時刻は七時四十分。こんな時間に来る訪問者に心当たりはなかった。が、モニターを見ると、見知った顔が映っていた。

「鑑か」

弟の藤村鑑だった。二十三歳、大学院の一年生。専攻は情報工学で、AIと人間のインタラクションがどうとか、武にはよくわからない研究をしている。

武は急いでタオルをソファに放り、魂をバスルームに閉じ込め、ドアに鍵をかけてから玄関を開けた。

「何しに来たんだ、こんな朝早く」

「近くに用事があって」鑑は言った。「ちょっと寄ろうかと思って」

鑑は武より少し背が低く、顔立ちは似ているが表情が常に飄々としている。今日も黒縁の細いメガネをかけていた。ただのメガネではない。鑑の自作した、AIアシスタント機能内蔵のスマートグラスだ。レンズの端に小さなカメラと投影装置が組み込まれており、常時インターネットに接続して、鑑に何らかの情報を流し続けている。

鑑はいつも誰かと、あるいは何かと会話しているような様子を見せる。目が宙を泳ぎ、時々一人でうなずく。外から見ると少し挙動不審だが、本人はいたって真剣だ。

「入れ」

武は言って、鑑を部屋に上げた。

「相変わらず散らかってるな」

「お前に言われたくない」

武はキッチンでコーヒーを淹れ始めた。鑑はソファに腰掛け、メガネのつるを少し触った。何かを確認しているらしい。

「最近どう?」鑑は聞いた。

「普通」

「保険売れてる?」

「それなりに」

「嘘つき。顔に書いてある」

「お前のメガネが解析してるんだろ」

「まあ、多少は」

鑑は悪びれずに言った。

コーヒーが二つできた。武は鑑の分を持っていきながら、ふとバスルームの方を見た。物音はしない。魂はおとなしくしているようだった。

「何か隠してる?」

鑑が言った。

武は表情を変えないように努力した。「何が」

「さっき一瞬、バスルームを見た。視線の動きが不自然だった」

「お前のメガネのせいで毎回そういうことになる」

「メガネがなくてもわかるよ。俺はお前の弟だから」

武はコーヒーカップを置いた。それから少し考えた。

「……実は、犬を拾った」

「え」

「昨日。水道橋で」

「ペット禁止じゃないのここ」

「そうなんだよ」

「なんで拾ったんだよ」

「老人に頼まれた」

鑑は二秒ほど沈黙した。「詳しく」

武は昨日のことを話した。雨の水道橋、傘のない老人、子犬、A4の紙。鑑は話を聞きながら、時々メガネを触り、時々宙に目を向けた。話が終わると、鑑はコーヒーを一口飲んだ。

「見せてよ」

「老人はもういない」

「犬を」

「ああ」

武はバスルームのドアを開けた。

魂はバスルームの床に座って、じっとドアの方を向いていた。まるでドアが開くタイミングを知っていたかのように。

鑑は覗き込んだ。

「……普通の子犬じゃないな」

武は驚いた。「なんでわかる」

「目が」

鑑はメガネを外した。素眼で魂を見る。「赤い目の犬種って、どんなのがいたっけ。……虹彩の色素異常かな。でも、この色は」

魂は鑑を見た。

鑑は少し後ずさった。「……なんか見られてる感じがする」

「わかるか」

「うん。普通の犬の目じゃない」

魂はそれ以上動かなかった。ただじっと鑑を見ていた。

武は魂を抱き上げてリビングに戻った。鑑もついてきた。メガネをまた装着しながら、何か考えている様子だった。

「それで、A4の紙は?」

武は本棚の上から紙を取った。広げて鑑に見せた。

「何も書いてない」

「そうなんだ。老人が、いずれ書かれる、って言ってた」

鑑は紙を手に取り、両面を確認した。それから光にかざした。スキャンするようにメガネのカメラを向けた。

「赤外線でも何も検知されない。本当に何もない」

「だろ」

「で、これを大切にしまえ、と」

「そう言われた」

鑑はしばらくその紙を見ていた。それから、不意に紙を丸めた。

「え」

武が声をあげる前に、鑑はそれをゴミ箱に放り込んだ。

「何するんだ!」

「何も書いてない紙に意味はない。老人に何か言われたからって、意味不明なものを後生大事に取っておく必要はないだろ」

「でも老人は」

「あのな、兄貴」鑑は言った。「変な老人にペット禁止のマンションで犬を押しつけられて、意味不明な紙を大切にしまえって言われて、全部聞いてるのはどうかしてる。その老人が何者かもわからないのに」

武は反論できなかった。

鑑の言うことは論理的には正しい。正しいのだが。

「まあ、犬はしょうがないとして」鑑は続けた。「隠しとおせるといいな。この大きさなら、ちゃんと訓練すればバレないかも」

「大きくなるって言われた」

「え?」

「老人に。この子は大きくなるって」

鑑は魂を見た。魂はソファの上に座って、二人を交互に見ていた。

「どのくらい大きく?」

「わからない」

「大型犬くらいになったら、さすがにバレるぞ」

「わかってる」

武はそれ以上言えなかった。

鑑はコーヒーを飲み干し、腰を上げた。

「俺は行く。今日午後から発表があるから」

「そうか」

「犬のこと、気をつけろよ。本当にバレたら大変だから」

「わかってる」

鑑は玄関で靴を履きながら、少し振り返った。

「名前は?」

「魂」

「……変な名前」

「老人の名前も聞いてないから、縁ということにした」

鑑は何か言いかけてやめた。それからメガネを少し触り、外に出た。

武はドアを閉め、ソファに戻った。

魂がそっと寄ってきた。武の膝の上に前足を乗せ、見上げる。

「お前、本当に普通の犬じゃないよな」

魂は鼻を鳴らした。


四 翌朝の紙

その翌朝のことを、鑑は後になってもはっきりと覚えていた。

大学院の自室は東中野のアパートの三階にあった。六畳一間、本棚が三つ、机が一つ、床にコードが散乱している。昨夜は発表の準備で深夜まで作業していた。

朝七時に目が覚め、顔を洗い、メガネをかけようとして、机の上に白い紙があるのに気づいた。

A4の紙だった。

鑑は数秒、それを見ていた。

昨日、兄の部屋のゴミ箱に捨てた紙と、同じ大きさ、同じ質感に見えた。しかし昨日捨てたはずの紙が、なぜここにあるのか。

自分でここに持ってきた記憶はない。

鑑は紙を手に取った。

昨日は何も書かれていなかった。

今日は違った。

紙の中央に、一文字だけ、墨で書かれたような字があった。

「鳳」

毛筆で書いたような、流れるような字だった。鑑はその文字をしばらく見ていた。

鳳。鳳凰の鳳。鳳来、という名前にも使われる。

鑑はメガネをかけ、紙を机の前に立てかけ、AIアシスタントに問いかけた。

「鳳という文字の意味を調べてくれ」

レンズの端に文字が流れた。「鳳凰の雄。中国古来の伝説の鳥。聖人の世に出現するという。日本では天皇の徳を象徴することもある」

鑑はもう一度文字を見た。

昨夜、自分はこの部屋に一人でいた。誰かが入れる余地はない。鍵は一つ、自分が持っている。窓は三階で、外からよじ登るのは困難だ。

論理的に考えて、この紙がここにある説明がつかない。

鑑はメガネを外し、素眼でもう一度見た。

鳳、という字は確かにそこにあった。

鑑は紙をそっと引き出しにしまった。

それからメガネをかけ直し、AIアシスタントに新しい問いかけをした。

「ケルベロスについて調べてくれ」

なぜその名前が浮かんだのか、自分でもよくわからなかった。ただ、兄の部屋で魂を見たときから、何かが頭の隅に引っかかっていたのだ。

あの犬は、普通ではない。

そして普通ではない犬に関する神話的存在として、最初に思い当たったのが、それだった。


五 水道橋駅

武が水道橋の歯科医院に通い始めて三ヶ月になる。今日こそ契約を、と思いながらも、またお茶だけで帰ることになった帰り道、武は水道橋駅のホームで電車を待ちながら、あの日のことを考えていた。

あれから一週間が経っていた。

魂は毎日少しずつ、しかし確実に大きくなっていた。生後二ヶ月の子犬にしては、やや成長が早い気がした。食欲も旺盛で、武が仕事から帰ると、決まって玄関の前で待っていた。鳴かない。吠えない。ただじっと、武が帰るのを待っている。その様子が、どこか番犬めいていた。

マンションのことは毎日、気を揉んでいた。

隣室の住人が廊下で子犬の鳴き声を聞いた、などということになったら終わりだ。しかし魂は不思議なほど、廊下には音を漏らさなかった。まるでここで鳴いてはいけないことを知っているかのように。

武は改札口に向かいながら、水道橋駅の入口で立ち止まった。

珍しいことがあった。

駅長室のドアが開いていて、中に人の影が見えた。それ自体は珍しくない。珍しいのは、その人物が武に声をかけてきたことだ。

「ちょっといいですか」

穏やかな、よく通る声だった。

振り返ると、五十代くらいの男が立っていた。制服を着ているので駅員だとわかる。胸のバッジに「水道橋駅長 山水施」と書かれていた。

温厚そうな顔だった。目尻に笑い皺があり、髪はきれいに整えられている。体格はがっしりしていて、しかし動作は穏やかだった。

「はい」

武は立ち止まった。「何でしょうか」

「先週も今日も、ここ前を通ってましたよね。保険のお仕事でしたっけ」

「あ、はい。近くの歯科医院に伺っていまして」

「そうですか」山水は微笑んだ。「お仕事、うまくいってますか」

奇妙な問いかけだった。武は少し考えてから答えた。「まあ、それなりに」

「そうですか」山水はうなずいた。「実はですね」

山水は少し声を低めた。「あなた、先週ここで、老人に何か渡されませんでしたか」

武の体がわずかに緊張した。

「何のことでしょう」

「答えづらいなら無理には聞きません」山水は言った。「ただ、もしそうなら、一つお伝えしておきたいことがあって」

武はしばらく山水を見た。穏やかな目だった。悪意は感じなかった。

「……何を渡されたか、どうしてご存知なんですか」

「全部知っているわけじゃないです」山水は答えた。「ただ、あの老人のことは少し知っていて」

「あの老人を知っているんですか」

「ええ、まあ。顔見知り程度ですが」

武は判断に迷った。しかし山水の物腰には、妙に安心感があった。

「犬と、A4の紙を」武は言った。「それだけです」

「そうですか」山水はうなずいた。表情に変化はなかった。「紙の方は、どうされましたか」

「保管しています。弟が捨てようとしましたが」

「捨てなかったのは正解です」

「なぜですか」

山水はまた微笑んだ。「私の口から説明するのは難しいんですが」彼は言った。「あの紙は、大事にした方がいい。それだけは言えます」

「何か書かれているんですか、本当は」

「今は何も書かれていないはずです」

「では、いずれ書かれると老人が言っていましたが、それは?」

「おそらく、そうなるかと」

武は苛立ちを少し感じた。誰もはっきり説明してくれない。老人も、この駅長も。

「もう少し具体的に教えていただけませんか」

「申し訳ないんですが、私にも全部はわからないんです」山水は言った。「ただ、あなたが動き始めることで、いろいろなことが見えてくるはずです」

「動き始める、というのは」

「犬を育てること。紙を持ち続けること。それだけでいい」

山水はそう言ってから、少し間を置いた。

「それから、その犬を連れてドッグランに行く機会があったら、首のあたりをよく見てみてください」

「首ですか」

「何か書かれているかもしれません。小さいうちは毛に隠れて見えないかもしれませんが」

武は考えた。「あの老人は、今どこに」

「私には把握していません」山水は言った。「一つだけ確かなことは、あの方は信頼できる人だということです」

ホームに電車の音が聞こえてきた。武の乗るべき電車が来る。

「また伺ってもいいですか」

「もちろんです」山水は言った。「私はいつもここにいます。よかったら、今度ゆっくり話しましょう」

武は礼を言い、改札を通った。

電車に乗り込みながら、武は山水の言葉を繰り返した。

首のあたりをよく見てみてください。


六 マンションの緊張

帰宅すると、魂が玄関で待っていた。

一週間、これが日課になっていた。武がドアを開けると、魂は一歩引いて武を迎える。吠えない。跳びつかない。ただじっと、しっぽを低く振りながら、武を見る。

武は荷物を置き、靴を脱ぎ、魂の頭を撫でた。

「ただいま」

魂は目を細めた。

武は夕食の準備をしながら、魂の様子を観察した。一週間で少し大きくなった。最初は掌に収まるくらいだったのが、今は少し持ち上げるのに力がいる。

食後、武はソファに座り、ノートパソコンを開いた。翌日の訪問先の準備をしながら、片目で魂を見る。魂はキッチンマットの上に伏せて、武を見ていた。

不意に、廊下の方から足音が聞こえた。

武はパソコンを閉じた。

足音は武の部屋の前で止まった。

次の瞬間、ドアをノックする音がした。

武は魂を見た。魂はすでに立ち上がり、ドアの方を向いていた。

「あの」外から声が聞こえた。「すみません、隣の部屋の者ですが」

隣室の住人だった。五〇三号室。三十代前半くらいの女性で、週に三日か四日、夕方に帰ってくる。武はほとんど話したことがなかった。

「少々お待ちください」

武は小声で魂に言った。「クローゼットの中に入ってくれ」

魂は武を見た。一秒、間があった。それからゆっくりとクローゼットの方へ歩いた。武はクローゼットを薄く開け、魂を中に入れ、ドアを閉めた。

「はい」

玄関を開けた。隣室の女性が立っていた。

「夜分すみません」彼女は言った。「さっき、なんか音がしたような気がして」

「音ですか」

「なんか、擦るような音というか。気のせいかもしれないですけど」

武は表情を整えた。「それは失礼しました。書類を棚から下ろしていたので、そのせいかもしれません」

「そうですか、ならいいんですけど」彼女は少し首を傾げた。「なんか動物みたいな感じがしたんですよね、音が」

「うちは何も飼っていませんので」

「ですよね、ここペット禁止だし」

「はい」

「あ、でも何かいい匂いがしますね、ペットフードみたいな」

武の背中に冷や汗が流れた。「昨日、牛肉を炒めたので、その匂いが残っているかもしれません」

女性はもう一度首を傾げた。それから「そうですか、失礼しました」と言って戻った。

武はゆっくりとドアを閉めた。

クローゼットを開けると、魂が静かに座っていた。

武はその場にへたり込んだ。

「危なかった」

魂は武の足元に近づいてきた。そっと、鼻先を武の手の甲に当てた。

その感触が、奇妙なほど温かかった。


七 御茶ノ水の駅長

週が明けた月曜日、武は御茶ノ水駅近くの法律事務所に訪問した。弁護士向けの職業賠償責任保険の提案だ。担当の弁護士は若く、話は早かったが今日は検討中の一言で終わった。

帰り際、武は御茶ノ水駅のホームに立った。

空は晴れていた。神田川が駅の下を流れ、橋の向こうに聖橋が見える。東京の中でも、武がひそかに好きな景色だった。

「藤村さんですか」

声が後ろからした。

振り返ると、四十代前半くらいの男が立っていた。制服を着ている。胸のバッジに「御茶ノ水駅長 立川傑」とあった。

細身で、真っ直ぐな目をした男だった。コンタクトレンズを使っているのか、目元を少し気にするような仕草がある。

「はい、藤村ですが」

「先週、水道橋の山水から連絡がありまして」立川は言った。「少し立ち話よろしいですか」

武は驚いた。「山水さんから?」

「はい。あなたのことを教えてもらいました」立川は言った。「老人から何かを受け取った方がいると」

武はホームの端の人の少ない場所に移動した。立川もついてきた。

「山水さんとはどういう関係で」

「同期入社です。今でも時々一緒に飲みます」立川は答えた。「山水は飯田橋の駅長とも親しいので、たまに三人で」

「立川さんは、あの老人のことを知っているんですか」

「少しは」立川は言った。「私は日本史が好きで、神道の成り立ちについても多少勉強したことがあります。あの老人については、山水から断片的に聞いただけですが」

「神道?」

「実は」立川は声をやや低めた。「あの老人は、神主の方なんです。普通の神社の神主ではなく、少し特殊な役職の方で」

武は黙って聞いた。

「詳しいことは私にもわかりません。ただ、彼が誰かに何かを預けるというのは、それなりの意味があることです」立川は続けた。「特に、犬を誰かに預けるというのは」

「犬を預けることに、何か意味があるんですか」

「神道において、犬は特別な存在として扱われることがあります」立川は言った。「特に、特定の犬は境界の番人とされる。この世とあの世の間、人の世と神の世の間を守るものとして」

武は立川の言葉を咀嚼した。境界の番人。

「魂、というのがその犬の名前です。私がつけました」

「魂」立川はその名をゆっくり繰り返した。「それは、適切な名前かもしれませんね」

「なぜですか」

「たまには魂と書いて、霊魂のことも指します。境界を守るものとしての犬に、魂という名前をつけた。それは偶然ではないかもしれない」

武はしばらく黙った。

「立川さんは、あの老人が何をしようとしているか、知っていますか」

「いいえ」立川は首を振った。「ただ、何かが動き始めているとは感じています。私は運転手を長くやっていたので、線路というものをよく知っています。線路は繋がっている。どこかで一つのことが始まると、それが伝わっていく」

ホームに電車が来た。立川は少しお辞儀をした。

「山水と私は、できる範囲でお手伝いします。何かあればいつでも声をかけてください」

「なぜそこまで」

「あの老人が信頼した方ですから」

電車が来る。立川は制服を整えた。「一つ聞いていいですか」

「はい」

「その犬の首に、何か書いてありませんでしたか」

武は思い出した。山水も同じことを言っていた。

「毛に隠れてよく見えなかったんですが」

「もう少し大きくなるまで見えないかもしれません」立川は言った。「でも、その文字が読めたとき、多くのことがわかると思います」

電車が扉を開いた。武は乗り込んだ。

振り返ると、立川がホームに立っていた。真っ直ぐな姿勢で、武を見送っていた。


八 鑑の一夜

あの紙のことが、鑑の頭から離れなかった。

引き出しにしまったA4の紙。鳳という一字。どこからともなく現れた白い紙。

鑑は論理的な人間だった。説明のつかないことは信じない。説明のつかないことには、説明がついていないだけで、何らかの理由があるはずだと考える。

だから今夜、鑑はその説明を探していた。

パソコンの前に座り、論文データベースを検索した。「A4 紙 自動筆記 霊的現象」では学術論文は出てこない。当然だ。「未説明文字出現 心理学」でも欲しいものは出てこない。

鑑はキーワードを変えた。「鳳凰 文字 神道 意味」。

いくつかの記事がヒットした。神道における鳳凰の位置づけ、帝の徳を表す象徴として、中国由来の概念が日本に輸入された経緯、神社建築における鳳凰の意匠。

それらを読み込みながら、鑑はメガネ越しにAIアシスタントと会話していた。

「鳳という字が突然紙に現れるというのは、神道的に何を意味する?」

AIアシスタントが答える。「神道の古典には、文字が突然現れる現象に関する記述はほとんどありません。ただし、神社の神託において、特定のサインや文字が媒介として使われることはあります。また、鳳凰は帝の出現や聖なる時代の到来を告げる存在として描かれることがあります」

「帝の出現、か」

鑑は考えた。

兄から聞いた話を改めて整理する。名もなき老人から犬を受け取った。A4の紙を受け取った。老人は神主だという情報があった。そして紙には鳳という字が現れた。

ケルベロスについても調べた。ギリシャ神話における冥府の番犬。複数の首を持ち、生者が冥府に侵入することを防ぎ、死者が脱出することを防ぐ存在。日本の神道とは直接の関係はない。

しかし、境界の番人という役割は、神道における犬の位置づけと重なる部分がある。

鑑はそこで考えを止めた。

自分は何をしているのか。

説明のつかない出来事を、神話的な枠組みで解釈しようとしている。これは科学的なアプローチではない。

しかし、引き出しの中の紙は確かに存在する。鳳という字は確かにそこに書かれている。

鑑はメガネを外した。

素眼になると、世界が少しぼやける。弱視とまではいかないが、視力は〇・三程度しかない。メガネなしでは不便だが、メガネをかけていると常にAIの声が届いてくる。時々、その声から離れたくなる。

鑑は引き出しから紙を取り出した。

素眼で見ると、鳳という字がぼんやりと見える。

この字を書いた者は、何を伝えようとしているのか。

鑑は長い間、その字を見ていた。


九 帝王との邂逅

二週間後のことだった。

武はいつもと違う経路で、神田の得意先から水道橋方面に向かっていた。靖国通りを歩き、千代田区と文京区の境界あたりで、何気なく脇道に入った。

細い路地だった。両側に古い建物が並んでいる。午後の光が建物の間から差し込んで、路地を斜めに照らしていた。

その光の中に、人影があった。

武は立ち止まった。

路地の突き当たりに、一人の男が立っていた。年齢は六十代前後。体格はしっかりしていて、姿勢がよい。着ているものは、一見すると普通のスーツだった。しかし質感が違う。素材と仕立て、その全てが、普通の人間が着るものとは違う何かを纏っていた。

男は武を見ていた。

武が近づいても、男は動かなかった。ただ静かに立っていた。その目に、判断力と言うべき何かが宿っていた。多くのことを見てきた目。多くの決断を下してきた目。

「藤村武か」

男が言った。

武は驚いた。「はい、そうですが」

「探していた」

「私を?」

「お前に渡すものがある」

男は懐から何かを取り出した。布に包まれた、細長い何かだった。武に向かって差し出す。

武は受け取った。布を開いた。

刃物だった。

短い、しかし明らかに普通ではない刀。刃は三十センチほど、柄には細かな装飾が施されている。鞘に収められており、刃は見えないが、持った瞬間に重さと、それに反した不思議な軽さを同時に感じた。

「これは」

「節刀だ」

「せっとう」

「節刀。古来、天皇が将軍や大使に授けるもの。今日では形式的な意味が強いが、これは違う」

武は刀を持ったまま、男を見た。「あなたは」

「鳳来という。時の帝王とも呼ばれる」

武は沈黙した。

時の帝王。それが何を意味するのか、武には判断できなかった。しかし男の立ち姿、声の質、目の深さ、それら全てが、この男が普通ではないことを示していた。

「私に節刀を渡す理由は何ですか」

「お前が必要だから」

「何のために」

「それはまだ話せない。ただ、その刀はお前のものだ。今から、ずっと」

「受け取ることはできません」武は言った。「理由も目的も知らないまま、こんな物を」

「もうお前は受け取っている」

男は静かに言った。武は気づいた。確かに、手の中にある。布で包まれた刀が、武の手の中にある。

「持っておきなさい」男は続けた。「使い方は、いずれわかる」

「老人と同じことを言う」

「あの老人とは面識がある」

「あなたも老人を知っているんですか」

「知っている。信頼している」

武は刀を見た。鞘の紋様が、光の中で少し輝いた。

「その犬を大切にしなさい」男は言った。「あれは普通の犬ではない。お前もそれはわかっているだろう」

「わかっています」

「その犬が成長するにつれ、多くのことが動き始める。お前の持っている紙も、やがて何かを示すはずだ」

「紙のことも知っているんですか」

「おおよそのことは」

男は路地の奥を見た。それから武に向かって、わずかにお辞儀をした。

「時が来たら、また会おう」

男は歩き出した。

武は見送った。男の後ろ姿が、路地の光の中に溶けていくように見えた。

気づいたとき、路地には武だけが立っていた。

武は手の中の節刀を見た。

本当に、これは自分のものになったのだろうか。

ならば、どこに置けばいいのか。マンションの部屋に刀を保管する場所は、あまり思い浮かばなかった。タンスの上は高すぎる。押し入れは出し入れが面倒だ。

現実的な問題が頭をよぎり、武は少し呆れた。

神秘的な出来事の後に考えることが収納場所というのは、我ながら地に足がついているというべきか、あるいはただのサラリーマン根性というべきか。


十 月宮鳳蝶

帝王、鳳来の弟である月宮鳳蝶は、その日の夕方、神田の古い料亭の一室に座っていた。

五十八歳。摂政として兄の政務を補佐するかたわら、自身もいくつかの役割を担っている。その一つが、今日の用件だった。

失った犬を探すこと。

それは三年前から続く、月宮の密かな任務だった。

犬はケルベロスという名で呼ばれる存在だった。本来は魔界の番犬として知られるが、ある事情から人間の世界に出てきた。月宮はその経緯を知っている。知っているが、詳細を語る時ではない。

今日、月宮は一つの報告を受けた。

水道橋のあたりで、黒い子犬を連れた若い男が目撃された。その犬の目が赤かったという。

月宮は茶を一口飲んだ。

赤い目の犬。それは普通の犬ではない。

ケルベロスは既に何度か転生している。蘇生のたびに姿を変え、しかし本質は変わらない。今回は子犬の姿で現れたか。

月宮は部下に指示を出した。水道橋周辺の情報を集めること。若い男の身元を調べること。ただし、接触はするな。まず状況を把握してから。

ケルベロスが誰かのもとにいるならば、それは偶然ではない。あの老人が介在しているとすれば、なおさらだ。

月宮は窓の外を見た。夕暮れの神田川が、オレンジ色に染まっていた。

魔界には、ベルゼブブという存在がいる。ケルベロスに契約書を渡し、特定の任務を課した者だ。その契約書が今、どこにあるか。

ケルベロスが転生するたびに、契約書も姿を変える。しかし内容は変わらない。

月宮は紙を一枚取り出した。白いA4の紙。

まだ何も書かれていない。

しかしそれは、月宮が待ち続けているものだった。


十一 柏と津田沼

週末、武は思い切って魂をキャリーバッグに入れ、散歩に連れ出すことにした。

公園は遠いが、電車に乗るわけにはいかない。徒歩圏内の小さな公園で、週末の朝早い時間なら人は少ない。武はできるだけ目立たないよう、キャリーバッグの蓋を少し開けた状態で、魂を中に入れた。

公園に着くと、魂はすぐにバッグから出て、芝生の上を歩き始めた。

武は周りを確認しながら、魂の様子を見た。

一週間でまた大きくなった。今では中型犬くらいの大きさになっている。生後二ヶ月の子犬がこの大きさになるのは、どう考えても普通ではない。老人の言葉を思い出す。大きくなる。それから、他にもいろいろ。

魂は芝生を歩きながら、時々立ち止まり、鼻を地面に近づけた。何かの匂いを嗅いでいるらしい。その動きは、どこか儀式的だった。

武はスマートフォンを取り出し、魂の首のあたりを確認しようとした。山水と立川の言葉が気になっていた。首に何か書いてある。

しかし毛が邪魔で、よく見えない。

武は魂を呼んだ。魂はすぐに戻ってきた。武は魂の首を両手で持ち、毛をかき分けるようにして見た。

何かある。

薄く、しかし確かに何かが書かれているようだった。文字のような線が見える。しかしこの光の中、この距離では、何と書かれているか判別できない。

武は写真を撮った。画像を拡大した。

かすかに、何かが見えた。

アルファベットか。漢字か。確信が持てなかった。

その日の夕方、武のスマートフォンに見知らぬ番号から電話がかかってきた。

「藤村さんですか。柏駅長の槲穂高と申します」

低く、穏やかな声だった。

「柏駅長の」

「はい。立川から連絡を受けまして」

「立川さんから」

「御茶ノ水の立川です。あなたのことを教えてもらいました」

武はまたか、と思った。駅長が次々と自分に接触してくる。これは一体どういうネットワークなのか。

「何かご用ですか」

「実は、津田沼の尾畑とも話しまして」槲は言った。「藤村さんが何かを任されたようだという話で、我々でお役に立てることがないかと」

「尾畑さんというのは」

「津田沼駅長です。我々、何人かで時々連絡を取り合っていて。山水も立川も、その輪の中にいます」

武は少し考えた。「あなた方はどうして、こんなことに関わっているんですか」

「一言では説明しにくいですが」槲は言った。「我々はそれぞれの駅を守っています。駅は人が集まり、人が散っていく場所です。長くそういう仕事をしていると、普通では説明のつかないことに、少しずつ気づいていくんです」

「普通では説明のつかないこと」

「はい」槲は答えた。「駅というのは、ある意味で境界なんです。出発と到着の間にある場所。人と人が出会い、別れる場所。そういう場所には、見えないものが集まりやすい」

「見えないもの」

「さしあたり、そう呼んでおきましょう」槲は穏やかに言った。「我々は、そういうものをいつも感じながら仕事をしています。だから、今回のようなことにも、少し感覚的に気づいたんです」

武はしばらく黙った。

「その犬が大きくなっていますよね」槲は言った。

「なぜわかるんですか」

「成長が早いはずです。普通の犬のようにはいかない」

「そうです。でも、どのくらい大きくなるんですか」

「それは私にも」槲は言って、少し間を置いた。「ただ、首のことは確認されましたか」

「さっき見ようとしましたが、毛が邪魔でよく読めませんでした」

「トリミングをするのが早道かもしれませんが、まだ少し先の話ですね」槲は言った。「あの犬が成犬に近くなるころには、自然と見えるようになるかもしれません」

「それはどのくらい先ですか」

「早くて三ヶ月、もしかしたらもう少し先かもしれません」

三ヶ月。

武はその言葉を覚えておくことにした。


十二 小高首相の前を横切る男

週が変わった月曜日、武は柏に新規営業に出かけた。

柏は担当エリアではなかったが、知人からの紹介で中小企業の社長を訪ねることになっていた。社長は保険の見直しを考えているという話で、話が合えば担当エリアを超えて上司に掛け合う予定だった。

柏駅で降りると、駅前は思ったより賑わっていた。昼時のせいもある。武は待ち合わせの時間まで少し余裕があったので、駅前の広場で待つことにした。

そのとき、前方に人だかりができているのに気づいた。

黒い車が二台、駅前のロータリーに止まっていた。スーツ姿の男たちが数人、周囲に立っている。そして車から降りてきた男が、人々の視線を集めていた。

五十代後半、中肉中背。顔は公の場に出るたびにメディアで見る顔だった。

小高一馬、内閣総理大臣。

武は少し驚いた。首相がなぜ柏駅に。

考えてみれば、首相の地元選挙区がこの方面だと聞いたことがある。それに、柏駅をよく利用するという話も、どこかで聞いたような気がした。

小高首相は時計を見ながら歩いていた。時間に厳しい人と言われているから、おそらく予定通りに動いているのだろう。

武は人だかりの端で、首相の方を見ていた。

そのとき、人混みの向こうに見慣れた制服が目に入った。

槲穂高、柏駅長だった。

槲は駅長として当然そこにいる立場だが、武と目が合った瞬間、軽くうなずいた。まるで武が来ることを知っていたかのように。

首相の一行が通り過ぎた後、槲がゆっくりとこちらに歩いてきた。

「藤村さん」槲は言った。「お電話以来ですね」

「はい。今日はこちらに営業に」

「そうですか」槲はうなずいた。「首相をご覧になりましたか」

「はい。よくここに来るんですか」

「地元なので。あの方は鉄道がお好きで、よく駅まで自分で来られます」槲は言った。「時間に厳しいんですが、電車には決して遅れない方です」

「槲さんとはお知り合いなんですか」

「何度かお話ししたことがある程度ですが、柏をよく使ってくださるので」槲は答えた。

「先日の電話の続きを少しお話ししてもいいですか」武は言った。「時間はありますか」

「少しなら」

槲は武を駅の端の静かな場所に案内した。

「犬のことですが」武は言った。「今朝も少し首を確認したんですが、やはり読めなかった」

「焦らなくていいです」槲は言った。「その犬が持っているものは、時間をかけて現れてくる性質のものです」

「どういう意味ですか」

「封印のようなものです」槲は言った。「生まれた時から施されている封印が、時間と環境と、その犬を取り巻く人間関係が整うにつれて、少しずつ解けていく」

「封印」

「あの犬は元々、非常に力の強い存在です。その力が一度に解放されると、周囲への影響が大きすぎる。だから、段階的に目覚めるようになっている」

武はその言葉を聞きながら、魂の赤い目を思い出した。深い、底知れない紅色。

「私はその過程に、どう関わればいいんですか」

「ただ一緒にいてください」槲は言った。「それが今、あなたに求められていることです」

「節刀を渡されました」武は声を低めて言った。「鳳来という方から」

槲の表情がわずかに動いた。「鳳来様が直接」

「はい。路地で」

「そうですか」槲は少し間を置いた。「それは想定より早い動きですね」

「どういうことですか」

「鳳来様が節刀を渡すということは、あなたに何らかの使命を与えるということです。それが今の段階で行われたということは、状況が思ったより急いでいるということかもしれない」

「急いでいる、というのは」

「何かが動き始めている、ということです」槲はゆっくり答えた。「具体的に何かは、私にもわかりませんが」


十三 魔界の番犬

それは武が知らないところで、別の次元で起きていることだった。

魔界という場所がある。

人の住む世界と隣り合いながら、しかし通常は交わらない場所。そこには独自の秩序があり、独自の存在がいる。

ケルベロスは、その魔界の番犬として756年を生きてきた。

正確には756年ではない。蘇生を繰り返しているため、実際の年齢は誰にも、おそらくケルベロス自身にもわからない。転生のたびに記憶が薄れ、本能だけが残り、そしてまた少しずつ記憶が戻ってくる。

ある事情というのがあった。

三年前、ケルベロスは魔界を出た。

その理由は、ベルゼブブに関係していた。ベルゼブブは魔界の上位存在の一人で、ケルベロスに特定の契約書を渡した。その契約書には、ある任務が記されていた。

ケルベロスはその任務のために魔界を出た。しかし人間の世界は、魔界とは全く異なる論理で動いている。ケルベロスは混乱し、体を弱らせ、やがて子犬の姿に転じた。

記憶の多くが失われた。

契約書がどこにあるかも、わからなくなった。

ただ本能だけが残っている。境界を守ること。道を守ること。そして、信頼できる者のそばにいること。

武の腕の中に収まったとき、ケルベロスは何かを感じた。

この人間は、信頼できる。

その確信は、理屈ではなかった。匂いでもなかった。何か別の、もっと深いところにある感覚だった。

ケルベロスは魂という名前で、五〇四号室のマンションで暮らしながら、少しずつ体を回復させていた。記憶も、ほんの少しずつ戻り始めていた。

首に刻まれた文字は、まだ毛に隠れている。その文字が読まれるとき、契約書のことも、任務のことも、少しずつ明らかになるだろう。

魂は今夜も、武の足元で丸まって眠っていた。

眠りながら、魂の耳が時々動く。遠い何かを捉えているように。


十四 神々の沈黙

これもまた、武が知らない場所での話だ。

天照大御神は、岩戸の前で止まっていた。

神話の時間は、人間の時間とは異なる。しかしそれでも、この沈黙は長すぎた。岩戸の場面で止まったまま、次の段階に進んでいない。

伊邪那岐命は、桃の実を拾い上げる場面で止まっていた。この後、禊になるはずだった。禊の後、天照大御神が生まれ、新しい秩序が始まるはずだった。

しかし天照大御神は、別の次元で既に活動していた。

これは矛盾だった。

神話の時間の中で、ある神が止まりながら、同時に別の場所で動いている。神々の世界における時間の複数性は、人間の論理では説明できない。

この停滞が何を意味するか。

一つの解釈は、何かが欠けているということだ。神話が完全に展開するために必要な何かが、まだ揃っていない。

その何かが、人間の世界で今、動き始めているとしたら。

節刀が渡された。

犬が育っている。

紙に文字が現れ始めた。

駅という境界の場所に立つ者たちが、静かに集まり始めている。

これは偶然ではない。


十五 A4の紙に現れるもの

その夜のことを、武はよく覚えている。

帰宅して、食事を済ませ、魂と一緒にソファで過ごしていた。魂は武の隣に座り、武が読んでいる本を横から覗き込んでいた。あるいは覗き込んでいるように見えた。

武は本を読みながら、ふと本棚の上の紙のことを思った。

あの紙は、まだそのままだ。

武は立ち上がり、本棚の上から紙を取った。四つ折りを開く。

最初は何も変わっていないと思った。

しかし、窓の外からの光が斜めに紙に当たったとき、武は気づいた。

紙の中央に、何かが浮かんでいた。

鉛筆で薄く書いたような、あるいは消えかけたインクのような、極めて薄い文字だった。

武はスマートフォンのライトを紙に当てた。

文字が少し鮮明になった。

二つの文字だった。

「犬神」

犬神、と書かれていた。

武はその二文字をしばらく見ていた。

魂がソファから降りて、武の傍に来た。武の手の中の紙を見る。赤い目が紙の上を動いた。

「お前のことか」

魂は答えない。

しかし武が言い終えた瞬間、魂のしっぽが一度、大きく動いた。

武は紙を大切に折りたたんだ。

犬神。犬の神。あるいは犬のような神。

老人の言葉を思い出す。「いずれ書かれる」。それは始まりにすぎないのかもしれない。

魂が成長するにつれて、この紙にはさらに何かが書かれるのかもしれない。

武は本棚の引き出しに紙をしまった。

それから魂の頭を撫でた。

「お前は何者なんだ、本当に」

魂は目を細めた。

答えはなかった。しかしその赤い目が、奇妙なほど深く武を見返した。

まるで言葉の代わりに、何かを語りかけているように。


十六 鑑の発見

同じ夜の少し後、鑑のアパートでも何かが起きていた。

引き出しにしまったA4の紙を、鑑は取り出した。

鳳という文字はまだそこにあった。しかし今夜はその隣に、新たな文字が追加されていた。

「招来」

鳳招来。

鑑はメガネをかけて、AIアシスタントに問いかけた。

「鳳招来という言葉の意味は」

「鳳凰を招くこと。あるいは、聖なる存在の到来を告げること。古典的な文脈では、新たな時代の幕開けを示す言葉として使われることがあります」

鑑はその回答を聞きながら、引き出しを閉めた。

それから椅子に深く座った。

自分は論理的な人間だと思っていた。説明のつかないことは保留して、説明がつくまで結論を出さない。それが自分のスタイルだと思っていた。

しかしこの紙は、そのスタイルを少しずつ揺さぶっていた。

説明がつかない。しかし確かに存在する。

鑑はメガネを外し、天井を見た。

鳳招来。新たな時代の幕開け。

それと、兄の持っている子犬と、兄が受け取った節刀と、老人と、どういう関係があるのか。

鑑はパソコンを開いた。

論文データベースではなく、今度は別の場所を検索した。神話のデータベース。ケルベロスと、犬神と、境界の守護者と。

そして、魔界と人間の世界の間に立つものについての記述を、鑑は夜が明けるまで読み続けた。


十七 朝の電話

翌朝、武に電話がかかってきた。

番号は見知らぬものだったが、出てみると聞き覚えのある声だった。

「おはようございます。立川です。御茶ノ水の」

「はい、立川さん。おはようございます」

「昨夜、何かありましたか。その犬の様子はどうですか」

武は少し驚いた。「どうして」

「朝方、少し感じるものがあって。昨夜、何か動いたかなと思って」

武は昨夜の紙のことを話した。犬神という文字が現れたこと。魂のしっぽが動いたこと。

立川は静かに聞いていた。

「犬神、か」立川は言った。「それは重要な言葉です」

「日本史的に何か意味があるんですか」

「あります」立川は答えた。「犬神は日本の民間信仰の中で、守護と呪いの両方の性質を持つとされています。ある地域では保護者として、ある地域では恐れられる存在として」

「どちらの意味でここに現れたんでしょうか」

「それは、その犬がどう育つかによって決まる部分が大きいと思います」立川は言った。「そして、育て方は藤村さんにかかっています」

「大きな責任ですね」

「そうです」立川は率直に言った。「だから、あの老人は慎重に選んだんだと思います」

「私が、なぜ選ばれたのかはまだわかりません」

「わかるときが来ます。少し待ってください」

電話を切ってから、武は魂を見た。魂は朝ごはんを食べ終えて、ソファの端で丸まっていた。

大きさはもう、中型犬を超え始めていた。

マンションで飼うには、もう少し時間の余裕しかない。

いずれ、どこかに引っ越さなければならないかもしれない。あるいは、別の方法を考えなければ。

武はコーヒーを飲みながら、そんな現実的な問題と、昨夜紙に現れた文字と、老人の言葉と、鳳来の節刀と、それら全てをどう繋げればいいか考えた。

繋がりは、まだ見えていない。

しかしぼんやりとした輪郭が、霧の向こうに現れ始めているような感じはあった。


十八 弟への再会

週末、鑑から連絡があった。

「会いたい。今日行っていいか」

武は了承した。魂は今日も、部屋で待機だ。

鑑は昼過ぎにやってきた。メガネをかけ、スマートフォンを手に持ち、いつもより少し真剣な顔をしていた。

「紙のこと、話したいんだけど」

鑑は部屋に入るなり言った。

「どういう意味だ」

「捨てたはずの紙が、次の日、俺の机の上にあった。鳳って書いてあった」

武は驚いた。「本当か」

「本当だ。それからさらに翌日、招来って字が追加されていた」

「鳳招来」

「そう。俺の部屋には他に誰もいないし、鍵は俺だけが持っている。論理的に説明がつかない」

「俺の紙には犬神という字が現れた」武は言った。「昨夜」

鑑は目を細めた。「犬神と、鳳招来」

「別々の紙に、別々のことが」

「でも」鑑は言った。「これは関係している」

「そう思う」

鑑はソファに座った。魂が鑑の横に来て、じっと鑑を見た。鑑は魂をまた素眼で見た。

「この犬、また大きくなってるな」

「わかるか」

「先週会ったときより、明らかに大きい。普通の成長速度じゃない」

「そうなんだ」

「何の犬種なんだろう」鑑は言った。「外見はいくつかの犬種の特徴が混じってる感じがするけど、どれにも当てはまらない」

「普通の犬ではないんだと思う」

「うん」鑑はうなずいた。「俺も、調べた」

「何を」

「ケルベロスについて」

武は黙って続きを促した。

「ケルベロスは冥府の番犬だけど、その役割は死者の出入りを管理すること。境界を守ることが本質的な使命だ」鑑は言った。「日本の犬神とも、役割的に似ている部分がある」

「立川さんも同じことを言っていた」

「立川さんというのは」

「御茶ノ水の駅長だ。それから水道橋の山水さん、柏の槲さん、津田沼の尾畑さん。何人か、俺と接触してきている」

鑑は眉をひそめた。「駅長たちが? なぜ」

「彼らは駅を守る人たちで、駅は境界の場所だと言っていた。それで、こういう事態に敏感なんだと」

「境界を守る者たちが、境界を守る存在の番人に接触している」鑑は言った。「構造的には、整合性がある」

「俺には少し出来すぎた話に聞こえるけどな」

「そうだとしても、起きていることは起きている」鑑は言った。「俺は科学を信じるし、論理的な説明を求める。でも、説明がつかないことが実際に起きているなら、それに向き合うしかない」

武は少し安堵した。弟が理解を示してくれていることが、自分でも思った以上に大きな支えになっていた。

「お前は、この先どうすると思う」

「俺は協力する」鑑は言った。「こっちにも紙があるわけだし、もう無関係じゃない。捨てようとしたのは俺の失敗だった」

「いや、あれはお前の言う通りだった」

「結果として間違っていた」鑑は首を振った。「まあ、紙の方は俺を選んだのかもしれないけどな。捨てたのに戻ってきたんだから」

武は笑った。鑑が少し照れくさそうに目を逸らした。

魂がそのとき、ソファの上で一度、大きく体を伸ばした。

そして立ち上がり、二人の間に座った。

赤い目が、武を見て、鑑を見た。

「俺たちを見比べてるな」鑑は言った。

「ああ」

「俺のことが好きじゃないかもな、この犬」

「なんでだ」

「だって俺、紙を捨てたから」

武は笑った。しかし魂は鑑の膝の上に前足を乗せ、じっと鑑の顔を見た。

鑑はその目を見返した。

「……なんか、謝られてる感じがする」

「俺もそう思う」

「犬に謝られたのは初めてだ」

鑑はそっと魂の頭に手を置いた。魂は静かに目を閉じた。


十九 水道橋への帰還

その週の水曜日、武は再び水道橋に来た。

歯科医院への訪問ではなかった。今日は別の理由があった。

山水に会いたかった。

武は駅長室のドアをノックした。山水が開けた。

「来ると思っていました」

山水はそう言って、武を中に通した。

狭い駅長室に、二脚の椅子とデスクがある。山水は湯飲みを二つ出した。

「お茶でいいですか」

「はい」

武は座りながら、紙のことを話した。犬神という文字が現れたこと。弟の紙に鳳招来の文字が現れたこと。

山水は静かに聞きながら、お茶を飲んだ。

「それは予想していたことです」山水は言った。「ただ、少し早かった」

「早い方がよくないんですか」

「良し悪しではないですが、それだけ事態が動いているということです」

「何が動いているんですか」

山水はしばらく考えてから言った。「まず一つ、お伝えできることがあります」

「はい」

「あの老人は、神主です。ただし、普通の神社に属する神主ではない。もっと古い、より根本的な役割を持つ神主です」

「根本的な、というのは」

「神話の時代から続く系譜の中にいる方です」山水は言った。「その方が、ある犬を選んだ飼い主に渡した。あなたに」

「その犬がケルベロスだということですか」

山水は少し目を見開いた。「誰から」

「弟が調べました。それから、状況から推察して」

「賢い弟さんですね」山水は言った。「正確には、ケルベロスの化身です。転生を繰り返している存在が、子犬の姿で現れた」

「なぜ今、ここに」

「それは私にも完全にはわかりません」山水は言った。「ただ、神々の時間が止まっている、というのはご存知ですか」

「止まっている、というのは」

「アマテラスオオミカミが、岩戸の前で止まっています。イザナギノミコトも、桃の実を拾い上げる場面で止まっている。神話の時間が、ある点から先に進んでいない」

武はその言葉を聞いて、少し背筋が冷えた。

「それはどういう意味ですか」

「何かが欠けているということです。神話が次のステップに進むための何かが、まだ揃っていない」

「それが」

「その何かを揃えることに、あなたが関わっている可能性があります」

武は黙った。

保険外交員の自分が、神話の欠けたピースを埋めることに関わっている。そんなことが、あり得るのか。

「山水さんは、なぜそこまで知っているんですか」

「長く駅長をやっていると」山水は微笑んだ。「いろいろと見えてきます。それから、あの老人とは以前から面識がありました」

「老人は今どこに」

「私にも把握していません。ただ、必要なときには現れる方です」

武はお茶を飲んだ。

「私はどうすればいいですか」

「今は、ただ魂と一緒にいてください。紙の文字が増えたら、記録しておいてください。そして節刀は、肌身離さず持っておいてください」

「肌身離さず、というのは」

「ふとした瞬間に必要になることがあります。その刀は守護の意味があります」

武は鞄の中に、節刀を入れていた。今日もそうだった。

「弟も紙を持っています。弟はこの件に関わって大丈夫なんですか」

「むしろ、弟さんが関わることに意味があるかもしれません」山水は言った。「紙が弟さんを選んだのであれば」

「紙が、選んだ」

「そういうことも、あります」

武は窓の外を見た。神田川が見えた。橋の上を電車が渡っていた。

「最初に老人に会ったのが、ここだったんですね」

「ええ」山水はうなずいた。「水道橋は面白い場所です。水道の橋。水が道になり、橋がかかる。水は境界を示すことが多い」

「川が境界」

「古来、川や橋は、この世とあの世の境として扱われることがありました」山水は言った。「あの老人がここを選んだのも、偶然ではないでしょう」

武はそれを聞いて、老人と初めて会ったあの雨の日を思い出した。

橋のたもとで傘もなく立っていた老人。草履の足元。深い目。

あの老人は、ここで誰かが来るのを待っていたのだ。そしてその誰かが、武だった。

縁というものがある。老人はそう言っていた。

武にはまだ、その縁の全貌が見えていない。しかしその縁が確かに存在することは、今はもう疑えなかった。


十九 水道橋への帰還

その週の水曜日、武は再び水道橋に来た。

歯科医院への訪問ではなかった。今日は別の理由があった。

山水に会いたかった。

武は駅長室のドアをノックした。山水が開けた。

「来ると思っていました」

山水はそう言って、武を中に通した。

狭い駅長室に、二脚の椅子とデスクがある。山水は湯飲みを二つ出した。

「お茶でいいですか」

「はい」

武は座りながら、紙のことを話した。犬神という文字が現れたこと。弟の紙に鳳招来の文字が現れたこと。

山水は静かに聞きながら、お茶を飲んだ。

「それは予想していたことです」山水は言った。「ただ、少し早かった」

「早い方がよくないんですか」

「良し悪しではないですが、それだけ事態が動いているということです」

「何が動いているんですか」

山水はしばらく考えてから言った。「まず一つ、お伝えできることがあります」

「はい」

「あの老人は、神主です。ただし、普通の神社に属する神主ではない。もっと古い、より根本的な役割を持つ神主です」

「根本的な、というのは」

「神話の時代から続く系譜の中にいる方です」山水は言った。「その方が、ある犬を選んだ飼い主に渡した。あなたに」

「その犬がケルベロスだということですか」

山水は少し目を見開いた。「誰から」

「弟が調べました。それから、状況から推察して」

「賢い弟さんですね」山水は言った。「正確には、ケルベロスの化身です。転生を繰り返している存在が、子犬の姿で現れた」

「なぜ今、ここに」

「それは私にも完全にはわかりません」山水は言った。「ただ、神々の時間が止まっている、というのはご存知ですか」

「止まっている、というのは」

「アマテラスオオミカミが、岩戸の前で止まっています。イザナギノミコトも、桃の実を拾い上げる場面で止まっている。神話の時間が、ある点から先に進んでいない」

武はその言葉を聞いて、少し背筋が冷えた。

「それはどういう意味ですか」

「何かが欠けているということです。神話が次のステップに進むための何かが、まだ揃っていない」

「それが」

「その何かを揃えることに、あなたが関わっている可能性があります」

武は黙った。

保険外交員の自分が、神話の欠けたピースを埋めることに関わっている。そんなことが、あり得るのか。

「山水さんは、なぜそこまで知っているんですか」

「長く駅長をやっていると」山水は微笑んだ。「いろいろと見えてきます。それから、あの老人とは以前から面識がありました」

「老人は今どこに」

「私にも把握していません。ただ、必要なときには現れる方です」

武はお茶を飲んだ。

「私はどうすればいいですか」

「今は、ただ魂と一緒にいてください。紙の文字が増えたら、記録しておいてください。そして節刀は、肌身離さず持っておいてください」

「肌身離さず、というのは」

「ふとした瞬間に必要になることがあります。その刀は守護の意味があります」

武は鞄の中に、節刀を入れていた。今日もそうだった。

「弟も紙を持っています。弟はこの件に関わって大丈夫なんですか」

「むしろ、弟さんが関わることに意味があるかもしれません」山水は言った。「紙が弟さんを選んだのであれば」

「紙が、選んだ」

「そういうことも、あります」

武は窓の外を見た。神田川が見えた。橋の上を電車が渡っていた。

「最初に老人に会ったのが、ここだったんですね」

「ええ」山水はうなずいた。「水道橋は面白い場所です。水道の橋。水が道になり、橋がかかる。水は境界を示すことが多い」

「川が境界」

「古来、川や橋は、この世とあの世の境として扱われることがありました」山水は言った。「あの老人がここを選んだのも、偶然ではないでしょう」

武はそれを聞いて、老人と初めて会ったあの雨の日を思い出した。

橋のたもとで傘もなく立っていた老人。草履の足元。深い目。

あの老人は、ここで誰かが来るのを待っていたのだ。そしてその誰かが、武だった。

縁というものがある。老人はそう言っていた。

武にはまだ、その縁の全貌が見えていない。しかしその縁が確かに存在することは、今はもう疑えなかった。


二十一 節刀の意味

武が節刀を初めて抜いたのは、翌日の朝のことだった。

意図したわけではなかった。

布から出して、改めて見てみようと思ったのだ。刃の状態、彫刻の細部。鞘を持ち、柄に手をかけた。

刃が出た瞬間、部屋の空気が変わった。

気温ではない。湿度でもない。何か別の質的なものが、ほんの瞬間だけ変化した。

魂が飛び起きた。

ソファで眠っていた魂が、一気に起き上がり、武の方を向いた。赤い目が光った。

武は驚いて刃を収めた。

魂はしばらく武を見ていた。それから近づいてきて、武の手を鼻先で押した。

「びっくりした?」

魂は答えない。

武は改めて節刀を見た。鞘の外側に細かな紋様が彫られている。何かの文字のようでいて、文字ではないような線。しかしどこかで見たことがある気がする。

スマートフォンで写真を撮り、鑑に送った。

「これ、解析できるか」

しばらくして返信が来た。

「すごい。これ、古代文字に近い。具体的には古神道に関係するとされる文字体系。神代文字とも言われる。断定はできないけど、読めるとしたら、たぶん守護の封印を示す言葉が書かれてる」

「守護の封印」

「その刀が誰かを守るための道具で、かつその力を封印している、ということだと思う。抜いたときに封印が一時的に解けて、力が発動する仕組みかもしれない」

武は節刀を鞄に戻した。

守護の道具。それを自分が持っている。

誰を守るための道具なのか、まだわからない。魂を守るのか。自分を守るのか。それとも、もっと大きな何かを守るのか。

武はその日の仕事に出かける前に、魂の頭を撫でた。

「今日も留守番、よろしく」

魂はおとなしく座っていた。

武がドアを閉める瞬間、魂の赤い目がドアの隙間から見えた。

その目が、深く、静かに武を見送っていた。


二十二 帝王と首相

鳳来が月宮鳳蝶と会うのは、月に一度か二度のことだった。

今日は神田の料亭の奥座敷。兄弟が向き合って座っている。

「犬のことは確認できたか」鳳来は言った。

「おおよそは」月宮は答えた。「水道橋の若い保険外交員が世話をしている。名前は藤村武、二十四歳」

「それから」

「弟も関わり始めている。藤村鑑、二十三歳、大学院生。AIの研究者の卵です。紙が弟の元にも現れている」

「速いな」

「ええ。思っていたより、ケルベロスが早く動いている。体の回復が予想より速い」

「それは良いことではないか」

「良いことですが、懸念もある」月宮は言った。「ベルゼブブが契約書の行方を探している可能性がある。魔界がこちらの動きを察知しているなら、それなりの対応が必要かもしれない」

鳳来はしばらく沈黙した。

「節刀は渡した」

「それで十分ですか」

「今は十分だ。問題があったとき、あの刀が反応する」

「藤村武に、もう少し詳しく話しますか」

「まだ早い」鳳来は言った。「全てを知ることが、必ずしも力になるとは限らない。知らないままで対処することが、ある種の純粋さを生む」

「純粋さ」

「疑わない心が、あの犬を育てる上で大切だ。過剰な知識は、時に邪魔になる」

月宮はうなずいた。

「それから」鳳来は言った。「小高首相の件は」

「柏で会われたようですね。槲が報告してきました」

「小高は鉄道に詳しい。それが何かの役に立つかもしれない」

「鉄道と、この件の関係は」

「線路は境界を繋ぐ。駅は境界に立つ。駅長たちが動いているのも、無関係ではない」鳳来は言った。「首相がこの件に気づく前に、我々の方で整理しておいた方がいいかもしれない」

「気づいたとして、首相はどう動きますか」

「あの男は判断が早い。減税でも雇用でも、決断が速い」鳳来は言った。「ただし、この種の話は彼の政治的な論理とは別の次元にある。どう受け取るかは読めない」

「様子を見ます」

「そうしなさい」

二人は料亭のお茶を飲んだ。

窓の外に、夜の神田が広がっていた。


二十三 ある夕暮れの廊下

三週間が経った。

魂はもう大型犬に近い大きさになっていた。

これは限界に近かった。武は毎朝、廊下の気配を確認してから魂を部屋の中で動かした。廊下に音が漏れないよう、ドアの隙間に緩衝材を貼った。ドッグフードは宅配で届けてもらい、エントランスで受け取るときは専用の袋に入れ替えた。

しかしそれにも限界があった。

ある夕暮れ、武が帰宅すると、廊下で管理人の佐々木と鉢合わせた。

佐々木は六十代の温厚な男で、普段は一階の管理人室にいる。夕方にゴミ置き場の確認で各フロアを回ることがある。

「あ、藤村さん」佐々木は言った。「ちょうど良かった」

武は表情を整えた。「何かありましたか」

「いや、別に問題があるわけじゃないんですが」佐々木は言った。「五〇三号室の方から、少しお問い合わせがあって」

「はい」

「最近、廊下に動物の匂いがする、というお話で」

武の胃が沈んだ。

「どこから来てるかは特定できていないんですが、一応ご確認しておいたほうがと思って」

「うちは何も飼っていませんので」武は言った。

「そうですよね」佐々木は言った。「ただ、一応全員にお聞きしていまして。まあ、気のせいかもしれないですね」

「そうかもしれませんね」

「失礼しました」

佐々木は去った。

武はドアを閉め、背中をドアに当てた。

魂が武の顔を見上げていた。

「まずい」武は言った。「本格的にまずくなってきた」

魂はしっぽを一度振った。

「お前、それどういう意味だ」

武はその夜、引っ越しを検討し始めた。ペット可のマンション、できれば庭付き、できれば駅から遠くない。しかし予算がある。

スマートフォンで物件を検索しながら、武はふと思った。

魂はいずれ、今のマンションには収まらなくなるかもしれない。それは部屋の広さの問題ではなく、もっと根本的な意味で。

ケルベロスの化身が、大きくなったとき、一体どのくらいの大きさになるのか。

犬のまま、ということはないかもしれない。

武はその考えを、少し恐ろしく、しかし少し楽しみに感じた。


二十四 鑑からの電話

その夜遅く、鑑から電話がかかってきた。

「兄貴、今起きてるか」

「ああ」

「紙に、また文字が増えた」

「なんと書いてある」

「鳳招来、の下に、新しい行が出てきた」

鑑は一拍置いた。「『境界を守れ、三首の犬が目覚める』」

武は電話を持ったまま、魂を見た。

魂は部屋の隅に座り、窓の外を見ていた。その横顔が、月の光の中で静かに光っていた。

「三首、というのは」

「ケルベロスは三つの首を持つ」鑑は言った。「それが目覚める、ということは、転生の状態から本来の姿に向かって戻り始めている、ということかもしれない」

「いつ、どのくらいの速さで」

「わからない。でも、時間の問題だと思う」

武はしばらく黙った。

「引っ越しを考えている」

「え」

「このマンションは限界に近い。匂いで管理人に気づかれ始めた」

「どこに引っ越す」

「まだ決めていないが、ペット可で、できれば広いところ。庭があればなおいい」

「そんなに簡単に見つかるか」

「難しいのはわかってる。でも、そうするしかない」

鑑は少し考えた。「俺も一緒に来ようか」

「なんで」

「俺も紙を持ってるし、もう関係者だ。それに、あの犬が大きくなったとき、一人で対処できるか不安だろ」

「……そうかもしれないな」

「兄貴ひとりに任せておくのは不安だ」

「俺が不安なのか、犬が不安なのか」

「両方だ」

武は笑った。「考えておく」

「考えておくじゃなくて、俺は引っ越す前提で動く。物件は一緒に探そう」

「わかった」

電話を切ってから、武は魂に言った。

「弟も来るそうだ」

魂は振り返った。それから、また窓の外に向いた。

月の光の中、その横顔がまた少し変わったように見えた。

子犬ではない。確かに成長している。そして何かが、その内側から、少しずつ滲み出てくるような気がした。


二十五 老人の不在

結局、老人はそれから一度も現れなかった。

武は何度か、水道橋の橋のたもとに行ってみた。老人がいたあの場所に立ち、雨の日も、晴れた日も、そこで少し待ってみた。しかし老人の姿は見えなかった。

山水に聞いた。「あの老人について、何か情報はありますか」

「把握していません」山水は答えた。「ただ、必要なときには現れると申し上げた通りです」

「縁があればまた会おう、と言っていました」

「そう言ったなら、きっとそうなります」

「信じていいですか」

「はい」

武は信じることにした。

老人が意味のないことを言う人物だとは、思えなかった。あの雨の日の、深い目を思い出すたびに、武はそう感じた。

紙には少しずつ文字が増え続けた。

武の紙:犬神。(その後、少し間が空いて)守れ。

鑑の紙:鳳招来。境界を守れ、三首の犬が目覚める。

二枚の紙が、少しずつ違うことを伝えていた。しかし方向性は同じだった。守ること。目覚めること。

武は毎晩、仕事から帰ると魂の様子を確認した。食事を与え、体を撫で、たまに散歩に連れ出した。

そういう日常の中で、武は少しずつ気づいていった。

魂の赤い目が、日が経つにつれて変化していることを。最初は深い紅色だった。それが今は、光の当たり方によって金色になったり、深い紫になったりする。

目の色だけではない。動きが変わった。最初はよちよちとした子犬の動きだったのが、今は滑らかで力強い。足の裏の肉球が、普通の犬より分厚い気がした。

首に書かれている文字も、毛の外側から薄っすらと見えてきたような気がする。まだ読めないが、確かに何かがある。

槲が言っていた。三ヶ月くらいで見えるかもしれない、と。

今はまだ、始まったばかりだ。


二十六 第一章の終わりに

四月の雨の日から、約一ヶ月。

武の生活は、表面上はそれほど変わっていなかった。

毎朝スーツを着て、書類鞄を持って、電車に乗る。訪問先でお茶をごちそうになり、提案書を広げ、「もう少し考えます」という言葉を受け取り、次の訪問先に向かう。それは変わらない日常だった。

しかし内側は変わっていた。

鞄の中に節刀がある。本棚の引き出しに、文字の増えていく白い紙がある。部屋には、日々大きくなる謎の犬がいる。弟が同じ謎の渦の中にいる。駅長たちが見えない形で繋がっている。帝王と呼ばれる人物から使命を渡されている。

そして、あの老人がいなくなった場所で、いつか老人が現れることを待っている。

縁というものがある、と老人は言った。

武はその言葉を、少し違う意味で理解し始めていた。

縁というのは、偶然ではない。しかし計画でもない。計画と偶然の間にある、第三の何か。それが縁だ。自分では制御できないが、自分の選択が積み重なることで形作られていく何か。

武はあの雨の日、老人に声をかけることを選んだ。子犬を受け取ることを選んだ。紙を保管することを選んだ。

その選択の一つ一つが、今の状況を作っている。

魂が足元にきた。武の手の甲に鼻先を当てた。

武はそれを感じながら、窓の外の夜景を見た。

何かが始まっている。

まだ何がどう始まっているのか、全貌は見えない。しかし始まっていることは確かだった。

紙には文字が増え続けている。

神々の時間は止まっている。

魔界の番犬が目覚めようとしている。

そしてそのど真ん中に、普通の保険外交員が立っている。

武は魂の頭を撫でた。

「しばらく、よろしくな」

魂は目を細めた。しっぽが静かに揺れた。

マンションの廊下は今夜も静かだった。隣室の住人も、管理人も、今は眠っている。

五〇四号室の中だけが、少しだけ、世界の別の部分と繋がっていた。

節刀が鞄の中で眠っている。

紙が引き出しの中で待っている。

そして魂が、武の足元で目を覚ましたままでいる。

守れ、と紙は言った。

何を守るのか、まだわからない。

しかし守ると決めることは、今の武にはできた。

それで十分だ、と武は思った。

四月の雨が降った日から、物語は始まった。


第一章 了

どこにでもいるサラリーマン 藤村武。

老人との出会いから子犬を飼うことになる。

老人が持ち歩く2枚のÀ4用紙。

この子犬との出会いがきっかけとなり、別世界への道が見えてくる。

長編作ではあるが、まだ序章に過ぎない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ