③
次の週末、勝市は市街電車に揺られていた。
自働車で通うなと邦義に苦言を呈されたので、それならばとおとなしく電車を使ってみているのだが、案外快適である。付き人の小言がない道中は平和で好い。
車窓の向こうにはのどかな家並みが流れている。だが勝市の目は車窓ではなく、その手前、椅子に並んで座る二人の幼い子どもに向けられていた。
一人は袴に下駄の少年。もう一人は赤い着物と桃割れの少女である。少女のほうが幾分か年上に見えるが、どちらも尋常小通いの歳であろう。
二人はこそこそと小さな声で何事か話しこんでいる。時折少女が笑い、少年はそのたびに得意げな顔をしていてずいぶんと楽しそうである。そんな二人の横に座り、静かに見守っている老婆がいた。祖母か婆やか……勝市の視界で、二人の幼子の姿に遠い昔の光景が重なっていった。
――もう、坊っちゃまったら。
ふいに耳元で懐かしい声がよみがえる。
――その、坊ちゃまというのをやめろと言ったろ。勝市と呼べ。
そう、ふんぞりかえった自分の声まで聞こえてくる。
ああ、あの頃は愚かな子どもだった。愚かで、高慢で、冬乃に好かれていると勘違いしていた。男女のそれではなくても、自分の言ったことに賛同してついてきてくれるだけの好意があると思っていた。
だが彼女は、最初にやってきた縁談を断わらなかった。
自分に何も言わず、ある日突然姿を消してしまったのだ。
結婚したと聞かされたのは、冬乃がいなくなって数日経ったあとだった。
彼女にとって自分は所詮、お守りの対象でしかなかったのだ……
北村邸に到着し、貸し出された和室で作業着に着替える。
「今日も来てくださって感謝いたしますわ、川島様」
玄関で出迎えられたとき、ナミ江は機嫌よくそう言った。後ろに控えた海子という女中は常に不満げな顔をしているので気にならないが、その少し後ろで、海子に隠れるように立つ冬乃の顔が気になった。
なんというか、暗い。
冬乃はいつも、男である勝市への恐怖心から常に怯えを顔にのぼらせているが、今日は恐怖や緊張とは違う、ずんと重たい影が額にあらわれている。
何か落ち込むようなことでもあったのだろうか。
声をかけてやりたいが、勝市から行けば怖がらせてしまうだけだろう。前回、塀の外からちらりと目をやっただけで、猫に睨まれた鼠のように硬直していたのだから。
今日はナミ江から障子の張替えを言いつけられた。
「川島様、障子のお張替えをなさったご経験は……?」
「ありません」
「ですわよねえ。ではあの二人を呼んで……」
「いえ、それには及びません。方法は承知しています」
勝市はきっぱりと言い切って、作業に取り掛かった。
まず初めに、傷んだ障子を桟ごと取り外し、縁側に寝かせる。それから、桶に汲んでおいた水へ刷毛を浸し、古い障子紙の上をすべらせ、ふやかす。
この作業を、勝市は遠い昔に何度か見ていた。川島の家で、同じように桟を取り外し、女中たちが四つん這いになって懸命に障子紙を剥がしている中に、幼い冬乃の姿もあったのだ。
その光景を、勝市は廊下側の襖の隙間からこっそり見ていた。彼女が白く小さな手で懸命に障子紙を剥がすさまを。桟を拭き、糊を塗りなおし、真新しい障子紙を端から端まで慎重に貼りつけていく、その真剣な横顔を。
古い障子紙を剥がし終え、乾かそうと一度身を起こしたとき、勝市は何げなく庭へ目を向けた。そして思わず目をしばたたいた。
庭の片隅に、冬乃がいる。
物干し竿に手を伸ばし、洗濯物を竿から下して足元の籠へ入れていく。取り込まれた洗濯物はうずたかく山をなしていた。
さあ、と風が吹き抜け、塀のそばの木が揺れる。せっせと動く彼女の肩に、髪に、揺れる葉陰の繊細な模様が落ちる。
伏し目がちな目とたおやかな佇まいは、昔から一つも変わっていない。少女の頃は髪を切りそろえていたのに、大人になって髪を結い上げているせいで、白くほっそりした長い首すじに視線が吸い寄せられてしまう。
そのうち、勝市は気がついた。冬乃が時折手を止め、唇をふっと小さく開く瞬間があるのを。
あれは、ため息だ。何をそんなに思い悩んでいるのだろう。
玄関先で見かけた時から、何やら暗いと思っていたが、まさか……
(あの万年筆の贈り物が気に入らなかったのか?)
(それとも、俺の書いた文章が何か気に障ったのか)
(それとももっと根本的な……例えば、邸に俺という男がいること自体、耐え難いほどの負担になっているのか……)
勝市は冬乃から視線を引きはがし、障子の桟を彼女から見えない角度まで移動させた。
今日は、冬乃から交換日記を受け取る日だ。
そこに何が書いてあるのか……この一週間、そわそわと心待ちにしていたはずなのに、少しだけ、見るのがためらわれる気がした。
夕餉の時、冬乃はナミ江の発言に目を細めて微笑み、てきぱきと米を次いでは海子に手渡す形で給仕もしていた。だがやはり、ふとした瞬間に顔つきが翳る。それに、よくよく見ればなんだか無理して笑っているようにも捉えられた。
――俺がいるせいか?
やはり荒療治が過ぎただろうか。それほどまでに男の存在が怖いのか。
冬乃が作った料理を口にしているのに、手放しで喜べない。
(すべて、余計な世話だったのだろうか。俺が現れなければ彼女はこんな顔をせずに済んだのだし……)
冬乃の病を治してやりたいという望みは、ただのエゴだ。彼女のためを思っていないわけじゃないが、ただ単に、彼女に逃げられたくないだけだった。
これが最後の機会なのだ。これを逃せばもう二度と、彼女と関われなくなる気がして。
北村邸を出て自宅へ戻った勝市は、 寝室で一人、石油洋燈の明かりに照らされた「雑記帳」の文字を見つめていた。
今すぐ中身を見たい気持ちと、見るのが怖い気持ちがある。もしも「あなたが家にいるだけで恐ろしく、ろくに眠れません」などと書かれていたらどうしよう。
やがてごくりと喉を鳴らし、表紙に手をかけ、えいやっとめくる。
冬乃の最初の手文、勝市の返事、そして次の頁へとめくった瞬間、勝市は目を見開いた。
頁いっぱいに、美しい濃紺色のインクが整然と並んでいる。
〈川島勝市様
先日は、高価な万年筆を賜り誠に恐縮の至りでございます。
早速使ってみましたが、なかなか書き慣れるものではなく、さらなる悪筆になっているやもしれません。どうぞご容赦くださいませ。
交換日記の内容につきまして、日記のようなつもりでとおっしゃっていただきましたので、今週あったことを綴って参ります。
ナミ江奥様の描かれたキネマの広告絵が外国のご要人の目に留まったそうで、近々お食事会にお呼ばれすることとなりました。
付き人として同行することになるやもしれないと海子さんは意気込んでいましたが、奥様に「それはない」と言われ、ひどく落ち込んでいました。
私も残念ながら外国語を話せませんのでお役には立てないでしょう。もっとも、例の病がありますから、そもそも人前には出られませんが……〉
文字の一つ一つを指先で拾う。これはペン字だ。贈った万年筆を使ってくれたのだ。それだけで無意識に口元が緩む。
不慣れなペン字のはずなのに、彼女は淑女のようにすらすらと文字を連ねていた。相変わらず綺麗な字だ。この字にあこがれて、彼女からもらったささやかな書き置きをいくつも実家の小箱にしまい込んでいた……
ふと我に返って首を振る。油断するとどうも余計な思い出をたどってしまっていけない。勝市は改めて彼女の文面に目を通した。
綴られているのは他愛もない日記だ。確かになんでも書いていいとは言ったが……これでは、あの妙な様子の説明がつかない。
もっと遠慮せず、何か悩み事があるのなら書いてくれてもいいのに。まだ知り合って間もないので気兼ねしているのだろうか。
勝市は頬杖をつき、空いた手で頁をめくろうとして、ふと違和感を覚えた。
何やら、紙が分厚い。不自然な感触がする。めくろうとした頁の角をしつこくこすり続けて、ようやく気づいた。
頁が、糊で貼りあわされている。
書き損じだろうか。気になるが、無理して剥がすのもためらわれる。
ふうと息をついて、勝市は目を上げた。正面の暗い窓に映る、煌々と揺れる灯の光をぼうっと見つめる。
最終的に清書されたのは、他愛もない日常の数々……本当にそれが、彼女の書きたかったことなのだろうか。
ふと、脳裏に古い記憶がよみがえった。深夜、川島の屋敷……厠の裏にある倉の陰で、しゃがみこみ静かに肩を震わせていた幼い少女の小さな背中を。
冬乃は、いつだって微笑んでいた。先輩女中にいびられても涙ひとつ見せなかった。どんなに冬乃と親しくなっても、ついぞ弱音を聞いた試しがない。
記憶を失っても、歳をとっても、冬乃は冬乃のままなのだ。
勝市はおもむろに抽斗を開け、ペーパーナイフを取り出した。貼り合わされた頁の端を指先で丹念にさぐり、やがて糊の薄い箇所を見つけると、そこにナイフの切っ先を当てる。
薄く塗られた糊は、ぺりぺりとあっけなく剥がれていった。やがてその下から紺色の文字が現れ、勝市はごくりと唾を呑み込む。
〈私は、ここに居て良いのでしょうか。
私は、女中として役に立ちません。外の仕事ができなくとも、内の仕事さえできればそれで良いと奥様はおっしゃいましたが、最近は内仕事さえ失敗が頻発している有様です。
奥様には、内仕事を完璧にやること、海子さんに家事を教えて差し上げることを条件に雇っていただきました。海子さんは仕事が上達しましたし、仕事も満足にできない私はこの家に不要ではないかと思うのです。病も治る気配がなく、それどころか悪化している気さえします。
奥様はお優しいので私を解雇なさらないし、海子さんも私が年上で、家事の教育係だからと敬慕せざるを得ません。私がここに居るだけで迷惑をかけてしまい、とても申し訳なくてたまりません。
それなのに私は、この居場所を失うことが怖くて、自ら女中を辞することができないでいます。お邸のためを思うなら私は絶対に居ない方がいいのに、わかっていながら言わないなんて、本当に私は卑怯で弱くて、どうしようもない人間です。
何もかも分不相応だとわかっていながら手放すことが恐ろしい、こんな卑怯な私を妻になどなさっては〉
ここまで書いて、筆が止まったのだろう。最後にぽたりと大きなインクの染みが落ちている。
よく見れば、ここに書かれた文字はどれも苦しそうに歪んでいた。すっきりと整った普段の筆跡とは大違いだ。ところどころにインクだまりが目立ち、濡れたように滲んでいる。
勝市は文字の滲む箇所の一つ一つに指を這わせた。ぼこぼこと凹みがある。
「泣いて……いたのか?」
つぶやきながら勝市は無意識に吐息をふるわせた。胸の奥がじわじわと熱くなってくる。やがてこらえきれないほどの熱が心から吹き上がるのを感じて、たまらず立ち上がった。
『女は泣いても許されるんだぞ』
『泣きません。わたしが至らぬばかりなのに、泣くことなどありはしません』
(俺に、一度も涙を見せなかった冬乃が)
(深夜にひとり、倉の陰でひっそりと肩をふるわせるばかりだった冬乃が……)
勝市は震える唇をぐっと噛みしめ、再び席についた。冬乃の書いた文面を、真正面から見据える。
せっかく彼女がこうして本音を吐露してくれたのだ。――いや、最終的に隠そうとしたのだから、むしろ無理やり暴いてしまった形になるのだが……果たしてこれに返事を書いたら怒るだろうか。
勝市はしばし腕を組み、それから思い切って筆を執った。
冬乃が苦しんでいる。それを知った以上、無視する道理はない。
それに……彼女は盛大な思い違いをしている。そのことだけは教えてやってもいいのではないか。
(あなたを邪魔に思う者など、この世に存在しない)
初めて北村邸を訪れたあの日、ナミ江はまるで実の娘親のような厳しい目で勝市を見ていた。疎む者のためにあんな態度を取れるものではない。
ナミ江の警戒心を解くのは、難しい取引先との交渉以上に困難だったのだ。彼女の心の砦を崩すために、勝市は〈三ツ木製鉄社長 川島勝市〉の威厳をガラガラと崩壊させられてしまった。
だがその甲斐あってか、ナミ江は最後にこう言ったのだ。
『私も、冬乃の病を治したいと日頃からずっと思っていましたの。だってあまりにも気の毒で。仕事に対してあんなに真面目で一生懸命なのに、病のせいで思うようにこなせないなんて、本人が一番心苦しく思っているに違いありませんもの。私も海子も彼女があまり思い詰めないようにと心がけてはいますけれど、こればかりはね……本人の心次第ですから』
『本音を言えばね、冬乃にはずっと我が家で働いてもらいたいと思っていますの。けれど、本人の人生を考えると、そういうわけにもいかないと承知してはいますのよ……』
この記憶の中のナミ江の姿を活動写真のフィルムにして、そのまま冬乃に見せられたらどんなにいいだろう。
せめて、自分の言葉で彼女の盛大な勘違いを正してやらねば。それができるのは、北村邸の外にいる自分だけだ。




