②
一週間後。またも北村邸に川島勝市が訪れた。
表門の方からエンジン音がしなかったので、呼び鈴が鳴るまで気づかなかった。今日はなんと電車と人力車で来たらしい。
「わざわざ電車でなんて。身なりがご立派なのだから、そんなところで庶民らしくなさらなくてもいいのに」
海子が茶室の戸棚にハタキをかけながらブツブツと愚痴をこぼす。
「お姉さま、あの方には絶対に近づかないでくださいまし」
「それじゃ慣れる練習にならないわ」
苦笑したものの、実際、近づくのは容易なことではなかった。向こうからやってくるならいざしらず、自ら近寄ろうと思っても足がすくんで言うことを聞かなくなるのが目に見えている。
冬乃はしぼった雑巾を手に、邸じゅうの廊下を端から端まで拭き上げていった。水を節約するため、あらかじめ使う分だけ雑巾を濡らして置いておき、それを取り替えながら床を拭いていく。
この邸の縁側には、庭に面してガラス戸が取り付けられている。障子とのあいだの内縁を、きゅっきゅっと音を立てて小気味よく拭き上げながら、ふと冬乃は顔を上げ、庭を見た。
ガコ、ガコ、と鋤簾の音が断続的に聞こえてくる。誰かが邸の周囲の溝を掃除しているのだ。
今日は園丁が来る日ではなかったはず。ではいったいだれが――そこまで考えて、はたと気がついた。
もしかして……
直後、塀の向こうからぬっと人影が顔を出した。
手ぬぐいを頭に巻き、作務衣の袖で汗を拭う、一人の男の横顔。
――勝市だ。
どくん、どくん、と心臓が恐ろしさに震える。無意識のうちに着物の胸元を握りしめ、ぐっと身を固くした。
お願い、どうかこちらに気づかないで――そう、強く念じていたせいだろうか。
袖で汗をぬぐっていた勝市の視線がふっと横へ逸れ、硬直している冬乃をはっきりととらえた。
たちまち激しい焦燥にかられ、冬乃の背や首筋にぬるい汗が噴き出した。
ここから溝までは庭と塀で隔てられているのに、それでも本能的に逃げたくなる。
そんな冬乃の様子を察したのだろうか。それともただ、目の前の仕事に忙しいせいだろうか。勝市は無言のまま会釈し、また塀の向こうに頭を引っ込めてしまった。
ガコ、ガコ、ガコ……鋤簾で泥を掻く音が断続的に響く。
肩からどっと力が抜け、思わずその場にへたり込んでしまった。
こんなに距離が離れているのに。常識的に考えて、彼にこの場で何か危害を加えられるわけはないのに。
周りにナミ江も海子もいないというだけで、息もできなくなるなんて。
どうして自分はこんなにも駄目なんだろう……
結局その日、冬乃は勝市と遭遇するのが怖くて、常にびくびくと周囲を警戒してしまっていた。ちょっと納戸へ物を取りにいくだけでも、こわごわと廊下の端から端まで見渡し、聞き耳を立ててしまう。
意識すればするほど恐れは強くなり、気もそぞろになってしまう。
「お姉さま、お姉さま」
皿に料理を盛り付けようとして、海子に慌てて止められた。
「お茶碗に佃煮をお入れになってますわ!」
「え? ――あ」
もう、本当に情けない。
ただでさえ外での用事ができない癖に、内の仕事もできなくなるなんて、病気だからでは済まされない……
「お姉さまがお皿をお間違いになるなんて、とっても希少な瞬間ですわ……」
「間違いなんてあってはいけないのよ」
自分でも驚くほど鋭い声が飛び出し、海子の目が真ん丸に見開かれる。冬乃は慌てて口をつぐんだ。
「ごめんなさい。……いやね、大きな声を出して……さあ、急がなくっちゃ」
どうしてしまったのだろう。こんなことで気が立ってしまうなんて。海子がまちがえたのなら笑って済ませられるのに……
勝市が来てからだ。 ――いや、それもきっかけにすぎない。
見ないように蓋をしていた自分の弱い部分を、勝市が来たことで見つめ直さざるを得なくなったから……だからこんなに惨めな気持ちになってしまうのではないか。
「ひどいわ、わたし……」
盆に料理を載せて廊下を運びながら、冬乃は思わずそうこぼした。
「ひどい人間だわ……」
食事の席では勝市は作業着を脱ぎ、背広に戻る。下男ではなく客人になる。だから笑顔でもてなさなければならない。直接の給仕ができなくとも、空気を和ませるのが女中の仕事だ。
「――ねえ冬乃さん?」
ナミ江にそう振られたら、なるべく微笑んで「はい」と答える。でも、うまくできているか不安になる。
今までの人生の大半を女中としてやってきて、自分は今さら何に困っているのだろう。
――そうだった、自分はその「大半」を失っているのだった。
わからない。こういうとき、どうすれば誰にも知られずに乗り越えることができるのか。「経験」がないから、わからない……
結局、食事のあいだは一度もまともに顔を上げられなかった。
勝市が帰っていく。ナミ江は風呂に入ってから早々に寝室へ引っ込んでしまった。
冬乃はこの日、風呂の残り湯をいただいてから掃除や後始末をする係だった。すべて済んでから風呂を出て、女中部屋に戻る。だが部屋の戸を開けようとしたとき、ふと足もとに目が吸い寄せられた。
雑記帳が立てかけられている。勝市が置いたのだろう。その横に、何やら綺麗な装丁の、長細い小箱も置いてあった。
なんだろう……
いぶかしみつつ、両方とも手に取りそっと部屋へ入っていった。
部屋の左手に敷かれた布団には、すでに海子が眠っていた。すやすやと気持ちのよさそうな寝息を立てている。
冬乃は石油洋燈を灯して文机の前に座った。雑記帳を開く前に、あの謎の小箱を手に取り、しげしげと眺める。
百貨店に陳列されていそうな、乳白色の小綺麗な装丁で、冬乃には読めないアルファベットの羅列が刻印されていた。
なぜこんなものが、雑記帳と一緒に置かれていたのだろう。
――そうだ、きっと勝市の忘れ物にちがいない。
そう解釈した冬乃は、小箱を一旦脇へ置いた。
そうしてゆっくりと雑記帳を開いた。
〈田代冬乃様
まず始めに、私が以前あなたに言ったことはどうか忘れてほしい。人違いだった。あなたと私は初対面だ。混乱させてしまい、申し訳なく思っている〉
冬乃は「えっ」と声が出そうになった。まず時候の挨拶も抜きにいきなり本題に入られたのにも驚きだが、何より書いてある内容に頭が追いつかない。
人違い? では海子が以前言ったように、顔のそっくりな同名であったということだろうか。そんなことが……ありえるのだろうか。
なんだか納得したような、しかねるような、微妙な気持ちになりつつも、続きを読む。
〈書くことにお困りのようだが、かしこまらず何でも書いてほしい。その日の天気でも、好きな献立の話でも、仕事がうまくいった又は不満であったなどでも。それでも困るようなら、たとえば主人や同僚に言えぬような悩み事でも書いたら如何だろう。手紙というより日記のような感覚で綴ってもらいたい。
だから提案だが、この冊子に「交換日記」と名付けるのは如何だろうか。いつまでも雑記帳と呼ぶのは不便であるし、毎回時候の挨拶を認めるのも煩わしいだろう。もっと相応しい名前があれば提案してほしい〉
交換日記……
これは彼の造語だろうが、なんともしっくりする呼び方だと思った。天気でも献立でもいいのなら確かに日記と相違ないし、あまり気負いせずに書けそうだと思えた。
彼の文にはまだ続きがあった。
〈それから、横に添えた箱はあなたへの贈り物だ。この冊子は毛筆で書くには向いていない。予備の筆記具を差し上げるのでどうか使ってほしい〉
箱……
冬乃は脇へ置いた小綺麗な箱に視線を移した。
まさか、いかにも高価そうなこれが、自分に宛てたものだというのだろうか。
おそるおそる、箱を手に取る。美しい装丁の蓋には、〈ciel étoilé〉と金色で印字されている。読めないが、舶来製であろう。
冬乃はごくりと唾をのみ、意を決して蓋を押し上げてみた。その下に現れた輝くような光景に息を呑む。
絹織物の白くつややかな緩衝材の上に、白いリボンで万年筆が留められている。
その軸は吸い込まれそうなほど深みのある濃紺色で、輝く星屑が満点の夜空のごとくちりばめられていた。
キャップには金色のピンがついている。全体的にしたたるような光沢が美しく、冬乃は思わず長いため息を吐き出してしまった。
これが、自分宛ての贈り物?
こんなものをもらっていいのだろうか……?
冬乃は何度も勝市の文面を読み返した。しかし「貸与」とは書いていない。「差し上げる」とある。
本当に……贈り物なのだ。
ああそうか。「毛筆で書くには向いていない」……確かに頁の罫線は狭く、字も窮屈になってしまっていた。読みづらかったのにちがいない。
悪筆のせいで勝市に要らぬ気苦労をさせてしまった……。
冬乃は箱にそっと蓋をし、雑記帳も閉じてしまった。なんだか恐れ多くてとても触れる気になれなかったのだ。
翌日、冬乃は朝食を終えて新聞を読むナミ江に近寄っていった。
「あの……奥様」
と、後ろ手に持っていた万年筆の箱を見せる。すると一瞬でナミ江の目の色が変わった。
「まあ、これ……〈シエル・エトワアル〉じゃない。外国の有名な文房具のブランドよ」
「とても高価なもの……ですよね」
「もちろん。百貨店にだって置いてないわよ。すっごく高いんだから」
冬乃は血の気が引く思いがした。
「こちら、川島様からいただいたものなのですが……」
「ええ?」
ナミ江は目をしばたたき、まじまじと箱を見つめる。やがて、驚き顔の中にじわじわと妙な笑みが広がっていった。
「なるほどなるほど……それで、川島様はなんて? 雑記帳に何か書いてあったでしょう?」
「その、この冊子は毛筆に向いていないから、これで書くようにと……細筆でなるべく綺麗に書いたつもりだったのですが、悪筆になってしまったようで……」
「冬乃さんが悪筆? 冗談でしょ」
ナミ江はくすくすと笑った。
「あなたとっても綺麗な字よ。海子さんのいいお手本になっているわ。自信を持って」
「は、はあ……ですが、わたし、このようなものをいただいてどうお礼をすべきか……」
「そうねえ。お礼ねえ」
ナミ江は人差し指の先で顎をつんつんと押しながらしばし考え、にっこり笑みを浮かべた。
「お返しがしたいなら、それを使ってお礼を書きなさい。先方はそれを望んでいるのだから、それが一番」
「それで……よろしいのでしょうか」
「だって本当にこのペンに釣り合うものを贈るなんて、あなたにできる? 私だって難しいのに」
冬乃は絶望した。ナミ江の財力で困難なことをどうして女中の自分ができようか。
おとなしく「かしこまりました」と答える以外になかった。
一方、海子はこの万年筆を見るやいなや、「なんてハイカラな……!」と絶賛した。
海子は流行のものや舶来品を見るのが好きである。「私もこんな素敵なペンでお姉さまと文通がしたいですわ~」と頬をうっとりさせてしばし感じ入っていたが、ふと真顔になり、
「でもこれ、あの人からの贈り物なんでしたっけ……」
とすぐ不機嫌になってしまった。
「嫌ですわね、お金に物を言わせてお姉さまの気を惹く作戦に出ましたのよ。いやらしいですわ」
「さすがにそこまでの意図はないと思うけど」
「あ・り・ま・す! お姉さま、騙されてはいけません。大切なのはお心ですわよ。どんなお金持ちでも、お姉さまのお顔立ちだけで結婚を申し込まれるようでは信頼に値しませんわ」
「わたしの顔だけで?」
「だってそうでしょう、あの人、それ以外にお姉さまの何をご存知なんです?」
ふと、勝市の書いた文面が思い出される。
――人違いだった。あなたと私は初対面だ。混乱させてしまい、申し訳なく思っている。……
彼と自分は結局、過去に一度も会ったことはないらしい。だから肩をつかまれ、声をかけられたあの日が初対面なのだ。
いきなり「冬乃」と言われて驚いたが、彼の思う「冬乃」は自分とそっくりな同名の女性だった……もしかして、その「冬乃」は彼の想い人なのではないだろうか。
その人と何かがあって離ればなれになってしまい、それでもあきらめきれなくて、顔のよく似た女を見つけて彼女の代わりにしようとしているのではないか……
(だって、そうでなくちゃ、こんな幽霊みたいに空っぽな女……誰が欲しがるというの)
そのためだけにわざわざ、心の病の治療にまで協力してくれるなんて、「冬乃」への想いは並々ならぬ感情に違いない。
すとんと腑に落ちたはずなのに、なぜだろう。なんだか胸のあたりが靄つく感じがするのは。
「お姉さま、気になさることはありませんわ、今からでも奥様に申し上げてお断りすることだって……」
冬乃は首を横に振り、文机に向き直った。
「何も気にしてないわ。はやく病を治したいもの、今はあの方に頼らなくっちゃ」
そう口にしながら、浮かびかけた言葉を心の底へ押し込み蓋をする。
考えちゃいけない。初めて自分が誰かに求められて、それが別の女性の代わりだったからといって、落胆なんてしちゃいけない。
女中としても中途半端、恐怖症持ちで記憶喪失という問題だらけの自分を求めていただいているのだから、そこにどんな理由があったとしても、まず感謝すべきなのだ。
(〈結婚〉って、そういうものよね……)
その途端、頭の片隅にずきんと鋭い痛みが突き抜けていった。思わず頭を押さえ、息をつめる。
「お姉さま⁉」
海子が慌てて駆け寄ってくる。
「頭痛がするのですか? ご気分でも悪くなさったのですか⁉」
「だ、大丈夫……平気よ、ありがとう」
まただ。最近よくこの痛みに襲われる。まるで「それ以上考えるな」とでも言いたげなほど強く、意識をかき乱されるような痛み……
恐怖症と記憶喪失に加え、自分の病状に「頭痛持ち」が新たに追加されてしまった。
(使えない女中……)
このままではいずれ、本当にここを去らなくてはならなくなるかもしれない。それどころか、どこにも居場所がなくなってしまう……
つん、と目の奥に熱いものを感じて、冬乃は反射的に上を向いた。
だめだ。泣いてはだめだ。余計に状況が悪くなる。
「海子さん、わたし、交換日記のお返事を書くわ。恥ずかしいから……ね?」
「あ、やだ、ごめんなさい、私よそを向いてますわっ」
海子が慌てて離れていく。たたんでいた布団を敷き、ごそごそと掛布を整える物音を聞きながら、冬乃は立てかけていた冊子を開いた。
『かしこまらず何でも書いてほしい』
『たとえば主人や同僚に言えぬような悩み事でも書いたら如何だろう』
誰にも言えない悩み事……
冬乃は浮かびかけた事柄を慌てて封じ込めた。
こんなもの、書くべきじゃない。これは殿方に慣れる練習なのだから、会話が続きそうな明るい話題を探さなくては。
冬乃は抽斗を開け、おそるおそる白い小箱を取り出した。蓋を開けると美しい万年筆が横たわっている。石油洋燈の灯りにきらめくそれをそっと手に取った。
蓋を外すと、真新しく輝く金色のペン先が現れた。抽斗から雑紙を取り出し、そっと先端をつけてみる。内蔵されたインクがじわりと染みていくさまに驚き、慌ててペン先を離した。
これが、万年筆。ナミ江曰く、とても高級な舶来品……
本来なら一生のうちで一度も手に取ることのないはずのものが、勝市の好意で手元にある。その心遣いは嬉しいけれど、気後れしてしまう。
返すべきではないか。いや、贈り物を返すなんて失礼にもほどがある。これで返事を書くことが一番のお礼だとナミ江も言っていたではないか……冬乃は震える手で万年筆を握りなおした。
何か、明るい話題を……なんでもいいから……
夜が更けていく。海子の小さな寝息を背に、冬乃はひとり囁くような嗚咽をこぼした。




