第二話 星屑のペンと交換日記①
川島勝市という男は、三ツ木製鉄という会社の経営者であるらしい。会社名は新聞の広告欄で見たことがある。国産のブリキ製品が有名で、おもちゃや日用雑貨が百貨店でも取り扱われているらしい――ということを、あとでナミ江から聞かされた。
あの身なりの良さや、北村邸前に停められていた立派な自動車を思い出しても納得の身分だ。
だが、そのお偉いさまである彼は今、麻の手ぬぐいを頭に巻き、紺色の作業着姿で裏庭にいる。斧をふりあげて薪を割り、袖で汗をぬぐっている。
「信じられませんわ」
海子は台所の勝手口から裏庭を覗き、すぐにぴしゃりと戸を閉めて言った。
「確かに奥様は下働きをさせる、とおっしゃってましたけど、せいぜい庭の掃き掃除とか、お買い出しとか、その程度のことだと思ってましたわ。まさかあんな……」
「ずいぶんと生真面目でいらっしゃるのね」
冬乃がぬか味噌桶の蓋を開けてつぶやくと、たちまち海子は目を剥いた。
「お姉さま、騙されてはいけません。きっと『僕は社長だが、優しいので庶民心を心得ているのだァ』と見せつけたいだけに決まっています。お姉さまの前で格好をつけたいだけですわ」
本当にそうだろうか……
勝市は上流階級の生活をしているはずなのに、薪割りの方法を心得ていた。この邸では普段、薪は業者から買いつけているのだが、この分だと当面のあいだは節約できそうだった。
「そういえばお姉さま、お書きになりましたの? あの雑記帳……」
「え、ええ、なんとか……」
冬乃はぎこちなげにうなずいた。
冊子を彼に手渡しするなんて恐ろしくてできそうにないので、勝市が身支度のために使っている客室の前へ、そっと立てかけてある。
この一週間、冬乃は一日の終わりに文机へ向かい、真新しい冊子を広げていた。だが筆を執ったはいいものの、何も思い浮かばず、結局閉じてしまう日々が続いていた。
昨晩、ようやくそれらしいことを書き上げたばかりだ。だからあまり推敲できていない。筆の墨をかわかすので精いっぱいだった。
そのとき、コンコンと勝手口を叩く音がした。
「失礼。割った薪をどこにしまえばいいのか教えてもらいたいんだが」
勝市の声だ。
冬乃の背中にたちまち緊張が走る。海子がすばやく戸を開け、「そちらに積んでおいてくださいまし、どうもご苦労様でした」と素っ気なく言い放ち、再び戸を閉め切ってしまった。
「もう、ほんとにどうかしてますわ、奥様も何をお考えなのかしら……」
海子はブツブツ言いながら台所を出てしまう。冬乃は桶の中のぬか床をかきまぜにかかっていた。
冷たく、どろりと湿ったぬかに手を浸していると、つぎつぎといろいろな考えが頭の中を占領していく。
ナミ江が白沢文代に話していた「縁談」とは、きっと勝市の話だったのだろう。だが一度断ったと言っていた……それなのに、なぜ急に考えを変えたのか。彼を邸に招いて下働きをさせようなどと、酔狂な選択をしたのか。
(もしも……全部わたしの病のためだとしたら、なんて申し訳ないのかしら)
大きく深いため息が、唇からこぼれ出る。
ナミ江は慈悲深いので、冬乃をなるべく一人で外出させないよう配慮してくれるし、男の客人をもてなすときは海子を呼ぶ。海子もそれでいいと言ってくれている。自分はただ、その優しさに甘えることでなんとかやっていけているだけだ。
治さなくては。一刻も早く、男という存在に慣れてしまわなければ。
川島勝市という男と雑記帳のやりとりを続けたら、果たしてどのくらい早く治るのだろう。彼のことを平気だと思えるようになるのだろう。
その日の夕方、勝市は約束どおり、夕餉の席に着いていた。
北村邸では、基本的に主人も女中も同じ食卓を共にしている。ナミ江が「ひとりで食べるなんて味気ないし」と言ってくれるので、冬乃も海子も給仕をしつつ、同じちゃぶ台で食事にありついているのだ。
そこへ勝市が加わるというのはなんとも奇妙であり、違和感があった。
「冬乃さん。……同じちゃぶ台は、さすがに怖い?」
ナミ江に問われ、冬乃は居間の入り口手前に立ったままこわごわと口を開いた。
――怖くありません。
そう言って食卓へつくべきなのに、喉が震えて声が出ない。
「お姉さま、私たちは箱膳でいただきましょう」
海子が助け船を出す。箱膳で……勝市からなるべく離れた場所で食べられれば、まだ平気かもしれない。
「そうね。それがいいわ。川島様も、それでよろしいかしら?」
「構いません」
勝市は淡々と答える。だがその目は冬乃を見ていない。夕餉の皿を、食い入るようにじっと見つめている。
ナミ江は画家として大成しており稼ぎもそれなりにあるが、食卓は基本的に下町らしく庶民的なものだ。時折、ナミ江の気まぐれで洋食を所望されることもあるが、今日の献立は白飯にたくあん漬け、焼いたニシンに煮豆腐である。はたして勝市の口に合うだろうかと、台所に立ちながら冬乃は甚だ疑問だった。
冬乃も海子も台所から箱膳を取ってきて、部屋の入り口付近に二人並んで食事をいただくことになった。食卓を「囲む」とは言いがたいが、これでも冬乃は緊張で気もそぞろである。
「もしかして今日のご飯担当、冬乃さん?」
ナミ江が何気なくたずねてきたので、冬乃は「はい」と答えた。
「やっぱりね。お米が立っててふっくらしてるもの。おいしいわ」
「やはり、私のとはそれほど違いがあるのですね……」海子が悲しそうに口を挟む。
「あら、海子さんだって上手になったわよ。冬乃さんが来るまでは何回たいてもお米がべっちゃりしてて、お粥みたいになってたけど――」
「おおお奥様、いつの話をしてらっしゃるんですか⁉」
思わずくすっと笑った冬乃の視界に、ふと勝市の横顔が見えた。彼は何やら真剣な顔つきで茶碗を見つめつつじっくり咀嚼していたが、ごくりと呑み込むやいなや、茶碗を持ったますっと立ち上がった。
「おかわりを」
急なことだったので、冬乃は反射的に体をびくつかせた。その向かいでナミ江が「まあまあ川島様、お座りになって」と席に着かせる。
「下働きをしていただいてますけれど、食卓ではお客様ですから。ほら、どちらか、おかわりをお入れして」
すると海子が素早く立ち上がり、勝市から茶碗をむしり取った。まるで「お姉さまには近づけさせません」と言わんばかりに、ふんすと鼻をふくらませて。
その背中を、冬乃は歯噛みする思いで見守った。
(咄嗟に動けなかった。固まってしまった。このままじゃ、何もかも海子さんに任せきりになってしまう……)
突然立ち上がった勝市が怖い、というのもあるが、ここで自分が給仕をしようとしても、茶碗を盛大に取り落としたり、最悪いろんなものをひっくり返してしまう未来がありありと思い浮かんで躊躇してしまったのだ。
勝市は海子から米の盛られた茶碗を受け取り、再び食事を再開した。
「いかがかしら。我が家の夕餉はお口に合いまして?」
「はい。……おいしいです」
「あら……ほほ、今日はお米がよく減りますこと」
そんな二人のやりとりも、思い悩む冬乃の耳を素通りしていく……
*
勝市は夕餉の皿を綺麗にたいらげ、「御馳走様でした」と品良く言って北村家を去った。
表門まで邦義が自動車で迎えにきていた。彼は硬い表情で「お疲れさまでございました」といやに慇懃に告げてドアを開ける。
勝市が乗り込むと邦義も運転席へ戻る。エンジンがかかり、車が走り出す。
その間、互いに一言も話さなかった。
しかし、道路の交差点に差し掛かったとき、ぽつりと邦義が口を開いた。
「旦那様。一言よろしいでしょうか」
「なんだ」
「北村邸へ下男通いをなさるのは結構ですが、今後はお車での行き来は控えるべきかと」
「なぜだ」
「目立ちすぎます。さきほども停車中、近所の者たちに何度も不審な目で見られましたし、そばを通り過ぎる子どもたちが手を伸ばして車体に触れようとしました」
「触らせておけ」
「あのですね……」
邦義はほとほと呆れて口をつぐんだ。日が暮れても人通りの絶えない賑やかな町並みを、遠い目で見つめながら。
「旦那様は三ツ木製鉄の社長である自覚をお持ちなのですか」
「当然もっている」
「ではもっとお持ちください。社長ともあろうお方が、一介の女中に懸想するあまり下町の一般宅に下男として通いつめているなどと噂になったらどうします」
「放っておけばいい。噂など暇人がするものだ。そして七五日で消える」
「七五日もあれば界隈に広がるには十分だと思いますが」
「いずれ嫁に迎えるのだから、遅かれ早かれ知れ渡るだろう」
「その婚儀についても私は手放しで賛同いたしかねます」
邦義の声に力がにじむ。
「あなたは前社長から私を含め、すべてを託されたのですよ。あなたは守り通す義務があるはずです。ゆめゆめお忘れなきよう」
「忘れたことなどない。安心しろ」
邦義の苦言などどこ吹く風、勝市ははっきりと言い放つ。
しばらく、どちらとも黙りこみ、車内にはうるさいエンジン音だけが響いていた。勝市は後部座席にゆられながらごそごそと鞄の中を漁る。
しばらくして、邦義がちらりと後ろを振り返ると、勝市は薄暗い車内で何やら冊子を広げ、窓から入る月明かりに照らそうとしていた。
「目が悪くなりますよ」
そう声をかけたが、勝市は「ああ」と取り合わない。
「ご自宅に戻ってからご覧になっては」
「ああ」
だめだこれは。邦義はやれやれと肩をすくめて再びアクセルを踏んだ。
勝市は邸に戻ってすぐ風呂に入り、寝室へ向かった。だが寝台には入らず、窓に面した文机の椅子を引き、石油洋燈を灯す。そして机上に、例の雑記帳を置く。
広げてすぐ一頁目に、細い毛筆で文章がしたためられていた。その一文字一文字に、勝市はそっと指先を沿わせる。懐かしさに目を細めて。
「記憶を失っても……字は変わらないんだな」
〈拝啓
秋の深まります今日この頃、川島様におかれましてはますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
この度はご多忙の中にも拘わらず、私の病の治療のためお力添えを賜りますこと、誠に恐縮に存じます。
全ては私の不徳の致すところでございます。川島様におかれましては、何卒片手間に、ご無理のなさらぬ程度になさつていただきとうございます〉
勝市は読みながら思わずため息をこぼした。
文面が硬い。硬すぎる……
いよいよ冬乃と文通ができると思い開いてみたはいいものの、これではまるで取引相手とのやりとりと変わらないではないか。
〈ところで、川島様は以前、私と何処でご縁がございましたでしょうか。お恥ずかしながら記憶を喪失しており、大変失礼なこととは存じながらも、思い出すことができません。ご教示いただけますと幸いに存じます。
また、恥を偲びつつ申し上げますが、なにぶん文通と云うものをこれまで一度も経験したことがございません。何を認めるべきか、頭を悩ませております次第です。どうぞお知恵をお貸しいただければ幸いに存じます。
それでは、日ごとに秋冷の極まります頃、何卒ご自愛のほどをお祈り申し上げます。
かしこ 田代冬乃〉
ふたたび、長い長いため息が苦笑とともに漏れ出てしまう。
「あなたはいったい、誰と文を交わしているつもりなんだ、冬乃……」
――坊ちゃまったら。いったいどんなお偉い様に渡すお手紙なのですか?
いとけなさの残る声とは裏腹に、綺麗に大人びた品のいい笑みが脳裏によみがえる。
目を閉じれば、もっと鮮やかに。肩の上で黒い髪を切りそろえた、美しい少女の姿が見えてくる。
あれはまだ勝市が七つのころだった。冬乃は十一だった。尋常小学校で手紙の書き方を習ったので、帰宅してからさっそく自室にこもり、手紙をしたためてみようと思ったのだ。
学校では、日頃お世話になっている父母や祖父母、きょうだいに宛てて書きましょうと言われたが、祖父母とはほとんど関わりがなく、父は後継ぎである兄を日夜仕事に連れ回していて不在であり、母親も社長夫人として様々な会合に忙しく、勝市が尋常小に通い出してから顔を合わせることがめっきり少なくなった。
そんな勝市に唯一、何かと声をかけ、世話を焼いてくれるのは、今年になって雇われてきた女中の冬乃だけだった。
彼女が声をかけてくれるのは、単純に歳が近いからだろうと勝市も心得ている。だがそれでも、嬉しかった。「日頃お世話になっている家族」の代わりに手紙をしたためられるのは冬乃以外に他ならなかったのだ。
だがいざ便箋を広げても、何を書いていいのかさっぱりわからない。
せっかく出すならば、冬乃にふさわしく、大人のような文章で書くべきだ。
そう思い、父の書斎にこっそり忍び込んで、小難しい社会論や経済論の本を覗き、その厳めしい文章を真似ようとした。
またいつでも鉛筆と紙を持ち歩き、思いついた端から文章を書き留めていた。そうして、ようやく手紙らしい体裁が整いつつあったのに。
あるとき、勝市はいつもどおり懐をさぐり、紙と鉛筆を取り出そうとした。が、指に触れるのは鉛筆だけ。紙がない。
慌てて周囲を見渡すと、ちょうど歩いてきた廊下の曲がり角に冬乃が立っていた。たすきに前掛け姿で小さな紙片をつまみあげ、じっと目を通しているではないか。
「ふ、……冬乃っ」
大慌てでどたどたと廊下を急ぐ。
「それは、俺のだ!」
と、到着するやいなや彼女の手から紙片を奪い取った。
「坊ちゃま、お手紙をお書きになったのですか?」
「え? ……あ、ああ、そうだが」
まさか、中身を読んでしまったのか……どきどきと心臓を鳴らしながら、ごくりと唾をのむ。
冬乃はくすっと大人びた笑みを漏らした。
「坊ちゃまったら。いったいどんなお偉い様へのお手紙なのですか?」
「――え」
「とてもかしこまられた文章をお書きになるのですね」
かああ、と顔全体が燃えそうなほど熱くなる。かしこまったんじゃない。冬乃にふさわしい文体にしようとしただけだ。そのすべてがただの背伸びであったと一瞬のうちに思い知らされ、勝市はひどく打ちのめされた。
紙片に「田代冬乃様」と書いていなかったことが不幸中の幸いであった。穴を掘って頭から埋まらずにすんだのだから。
回想から引き戻される。両手で顔を覆い、「ああ」と声が漏れた。
「忘れていたほうがいいこともある……」
万一彼女の記憶が戻ったら、また笑われてしまうだろうか。
それでもいい、と思える自分がいる。
だが、それではダメなのだ。冬乃に記憶を取り戻させてはいけない。
あの日、冬乃が腕の中で気絶したあと――北村ナミ江と話して約束したのだ。
『もしも本当に冬乃さんの治療をお手伝いいただけるのでしたら、一つだけ……約束していただきたいことがございます』
『あなたが冬乃さんと顔見知りであることを、どうかなかったことにしてくださいませんか? 彼女が何か訊ねようとしてもどうにか誤魔化していただきたいのです。理由は……おわかりですわよね』
嫁ぎ先で高所から転落し、頭を何針も縫う大怪我をした冬乃。
大怪我を負った妻を見舞いもせず離縁した夫……
『もしかしたら、本人にそれだけ消したい記憶があるのかもしれないと……』
勝市が目の前に現れること自体、冬乃の記憶をこじ開けてしまいかねない危険な行為だ。封じた記憶がひどい悪夢であった場合、彼女の精神をいたずらに痛めつけることになる。そんなことは勝市も望んでいなかった。
だから、冬乃の過去には触れないとナミ江の前で誓った。それが彼女の心の治療を手伝うたった一つの条件だった。
もう一度、彼女と共にすごせるなら。彼女を取り戻すことができるなら。過去の思い出や感傷など、この胸に永遠にしまいこんでやる。
だから、冬乃。申し訳ないが、あなたの質問には答えられない……
勝市は抽斗を開け、万年筆を取り出した。磨き抜かれた光沢の美しいペン軸をじっと見つめ、ふと、冬乃の窮屈そうに詰め込まれた毛筆の文字を見やる。
それから思い立ったように別の抽斗を開けた。細長い、まっさらな乳白色の小箱をそっと手に取る。
それを脇に置いてから、彼は再びペンを取った。
――田代冬乃様……




