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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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5/33

 気絶した冬乃を女中部屋で寝かせ、海子がぶちまけたお茶をひんひん泣きながら掃除しているあいだ、ナミ江は勝市を茶室へ案内し、新たにお茶を淹れなおしていた。


 小皿に新しい羊羹をのせて「どうぞ」とすすめると、勝市は丁重に頭を下げた。


「先ほどは申し訳ありませんでした」


 ぽつん、と彼の声がちゃぶ台に落ちる。先ほどの事件から彼の顔つきはより一層厳めしくなっていたのだが、声音は驚くほど繊細でひどく落ち込んでいるようだった。


「気を失うほど怖がらせるつもりはありませんでした。懐かしさのあまり――つい……」

「あなたと冬乃がお知り合いというのはどうやら本当のことですのね?」


 ナミ江は淡々とたずねる。


「以前も町中でお声がけくださったとお聞きしております」

「ああ……その節も、私は彼女を気絶させてしまいました。彼女は昔、私の実家に奉公していたのですが、どうやら私のことは覚えていない様子で」

「川島様のことだけではありませんわ」


 勝市が目を上げる。ナミ江は一瞬ためらうように息を吸い、小さく吐いた。


「冬乃は川島様のご自宅に奉公していたこと自体、覚えておりません。……記憶喪失ですから」

「記憶……喪失……ですか」

「ええ」


 勝市は切れ長の目を精いっぱいに見開き、何事か逡巡している様子だったが、やがてほうっと息をつく。


「なるほど。道理で……私の名を聞いても無反応なわけです。しかし、なぜ記憶を失ったのですか。事故にでも遭いましたか」

「私も詳しいことは存じません。すべて、冬乃の親戚からお聞きしたことですから」


 お茶をすすり、一呼吸おいてからナミ江は続けた。


「嫁ぎ先で事故に遭ったそうです。高いところから足をすべらせ、頭を何針も縫う大怪我をしました。そして病院で目が覚めたとき、自分の名前と、生まれ育った故郷のこと……幼いうちに両親を亡くしていることなど以外、何一つ覚えていませんでした」

「それは……つまり、幼少期で記憶が止まっている状態ですか。では今の冬乃の精神的な年齢は……」


「ご安心ください。冬乃は自分が二十九である自覚がありますから」ナミ江はきびきびと返した。


「医者の見立てでは、失ったのは『思い出』だけで、体に染みついた感覚の蓄積は健在だそうです。女中としての仕事ぶりも優秀ですわ」

「……なるほど」


 再び考え込むようなしぐさを見せた勝市に、ナミ江はしばしのあいだ、じっと視線を向けていた。


 ――この男に、どこまで話すべきだろう。


 記憶喪失という個人的な情報を、冬乃に無断で彼に与えてしまった。それはこの情報だけで縁談をあきらめる相手であればそのほうがいいと思ったからだ。だが勝市という男は冬乃の現状を真剣に聞き、考えている。今のところ断る気配を見せない。


 それは、彼が先ほど口にした「結婚の約束」という言葉につながるのだろうか……


「冬乃は十七の時に嫁いでいきましたが、そのことも覚えていないのですか」

「ええ。彼女は自分がずっと独身だと思い込んでいるようです。私もそれを正そうとは思いません」


「もしや」彼は少しためらうように続けた。「先ほど冬乃が高所から転落したとおっしゃいましたが……その怪我の原因が嫁ぎ先にあると、そうお考えだからでしょうか」


「……」


 図星だった。


 ナミ江は膝の上で拳を握りしめた。


「私の口からは不確かなことは申し上げられません。ただ……」


 初めて言葉に詰まる。これ以上はとても個人的な領域だ。それに何もかも憶測にすぎない。


 ナミ江はこちらを一心に見つめる勝市の真剣なまなざしに、どこか罪悪感を覚えながらも言葉を続けた。


「これは精神病院の医者から伺ったことですが……もしかしたら、本人にそれだけ消したい記憶があるのかもしれないと。ですから私は、冬乃の記憶をいたずらに掘り起こしたくないのです」


 重い沈黙が落ちる。押し黙った勝市の頭の中にどんな考えが浮かんだのか、意図せずとも察してしまう。


 そう、そのまま、引き返していい。「なるほど、私が彼女の前に現れればそれだけで記憶を刺激してしまうかもしれませんね。もう二度と冬乃の前に現れません」と言って去ってくれたら、それで事は済むのだ。


 だが彼は動かなかった。指一本動かす気配はない。


 ――やっぱり、あきらめる気はないのね。


 ナミ江は小さく嘆息した。


「川島様。冬乃にはもう一つ、大きな問題があります。私が縁談をお断りしましたのは、記憶喪失のことだけではありません」

「まだ何かあるのですか」

男性恐怖症(アンドロフォビア)です」


 あまり聞きなれない単語だったのか、勝市はいぶかしげに眉を寄せる。


「冬乃は……男を怖がっているのですか」

「はい。恐怖症ですから、本能的に拒絶してしまいます。今のところ治る見込みはありません。ですから例え結婚したとしても、夫婦生活を送ることは困難です」


 さあ、どうだろう、さすがに結婚を躊躇するだろうか。ナミ江はちらと目を上げ、思わず目をしばたたかせた。


 勝市は元の無表情に戻っている。いや、ちがう。どこか安堵したように見えるのは気のせいだろうか。


「なるほど。合点がいきました。私の知る冬乃は本来、いかなるときも決して弱さを見せようとしませんでしたが……街を歩く彼女の様子はびくびくと怯えていて妙だったのです。まさか……恐怖症だったとは」

「今度こそ結婚をためらわれたのでは?」

「いいえ」


 彼はいっそう泰然と構えて首を振る。それがどうにも信じがたかった。


「その、男性恐怖症に改善の見込みはありますか。精神科医はなんと言っていましたか」

「それは……もちろん、見込みがないわけではありませんが……」

「聞かせてください」

「何よりもまず時間の解決、それから本人が恐怖対象に慣れること、そして……病に対して前向きにとらえること。その三つをもって初めて回復に向かうと、このように言われましたわ」


「時間と慣れ、本人の気持ち……」勝市は数秒、顎に手を当て考え込む。


「時間の解決……これは今でもじゅうぶん機能していると思われます。では私は、二つ目について協力しましょう」

「えっ?」

「市井で働く者、郵便配達人、普段ここを訪れる客人……彼らは冬乃の事情を知らないのだから、うかつに近づいても気を失うだけで訓練にはなりません。ですが私はもう、事情を呑みました。練習相手としてはこの上ないサンプルになると思いますが」

「サンプル……ですか」

「はい。慣れとは回数を重ねることです。私は冬乃が望むなら喜んで、何度でも練習相手になります。いわば男のサンプルです。好きに扱っていただいてよろしい」


 ナミ江はそのとき、勝市の姿勢がわずかだが、前のめりになっているのに気づいた。額にもじりじりと急くような汗がうっすら見える。


「――ふっ」


 気づけば肩が小刻みに震えていた。一度声に出すともう止まらなかった。


「うふっ……ふふふ、ふふふふ」

「な……」


 何がおかしいと言いたげな彼に、「ごめんなさい、うふふ」と謝りつつもつい口角が上がってしまう。


「そこまでおっしゃってくださるなんて、思ってもみませんでしたから」

「はあ……」


 気を落ち着かせようとしてか、勝市は湯飲みに口をつける。ナミ江は「あ、どうぞどうぞ、羊羹も召し上がって」と小皿を寄せた。


「井川屋の羊羹ですのよ。最近評判でしょう。私もいただきますから」

「……では、ありがたく……」


 勝市はどこか遠慮がちに菓子楊枝を手に取る。ナミ江も自分の皿を手前に寄せて楊枝をつまみ、何気なく口を開いた。


「あなた、それほどまでに冬乃に恋をなさっているのね」


 その瞬間、勝市の皿から羊羹の切れ端がすこんと飛び出した。


「……」

「……」


 二つの視線が、卓上に転がった切れ端に注がれる。


 ややあって、勝市は「失礼いたしました」と切れ端をすくい、さも何事もなかったかのように皿へ戻した。あくまでも仏頂面のままなのがなんだかおかしくて、ナミ江は思わず吹き出してしまう。


 もう、彼から威圧的な空気を感じない。肩書きを取ってしまえば年相応の感情を持つひとりの青年なのだ……そう思ったらナミ江の肩からどっと力が抜けた。


「いつからですか?」

「……何がでしょうか」

「冬乃と過去に何があって、そんなに想いを募らせてらっしゃるの?」

「いや、その」

「あっ、そういえば先ほど冬乃に、結婚の約束がどうのって――」

「あ、あれはっ、……ただの、口約束で……」

「まあ、口頭で結婚の約束を? いつのころですか?」

「それは……私が十三のころで……冬乃は当時十七歳でしたから……」


 ぽつぽつと答える勝市の耳に、うっすら朱が差してくる。ナミ江は組んだ指の上に顎をもたせかけて「まあ……」とため息をついた。


「そのお話は、川島様のほうから?」

「……ええ、まあ」

「冬乃もお応えしたというわけですのね」

「いえ、今となってはそれも……」


 勝市は縁側の向こうへ遠いまなざしを向けた。

「その同じ年に、冬乃は嫁いでいきましたから」

「そう、でしたか……」


 そうだった、冬乃はもう結婚していた。ということは、彼の一世一代の告白は空振りに終わったのだろう。


 だが勝市は大きな商家の次男坊であり、冬乃は使用人。たとえ想い合えていたのだとしても、身分の差から良い返事ができなかったのではないか。


 そして置いて行かれた彼は、十年以上経ってなお冬乃を想っている。立派な肩書きや資産を手に入れてもなお欲してしまうものは、なんであれ本気の証だ。


 ナミ江は楊枝を置き、居住まいを正した。


 勝市の告白に対し、当時の冬乃がなんと答えたのか。言葉は濁されてしまったが、彼は「約束」と言った。一方通行であったとはどうしても思えない。


「川島様。本当に冬乃の治療をお手伝いいただけるのでしたら、一つだけ……約束していただきたいことがございます」


 この男の想いに、賭けてみてもいいかもしれない。 

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