③
今日は昼間から北村邸に客人が来ていた。白沢文代といって、ナミ江と懇意にしている雑誌記者だ。今日はもっぱら取材ではなく友人としてやってきただけのようである。
「白沢さんって、いつもお茶をがぶがぶ飲まれる方ですわよね。私、苦手ですわ」
海子が土間にしゃがみこみ、鍋を磨きながら不満げに言った。
「まあ、それだけお姉さまのお淹れになるお茶がおいしいってことでしょうけど」
「きっと代謝のよろしい方なのよ」
お茶を沸かしながら冬乃は苦笑を返す。お茶なんて誰が淹れても同じである。方法を間違わなければ。
二人分のお茶ができあがり、冬乃は盆に茶器と茶請けを用意して台所を出た。廊下を左手に進んで角を曲がれば、応接間を兼ねた洋間がある。
だが部屋の近くまで来た瞬間、
「え、縁談ー⁉︎」
という素っ頓狂な声が聞こえ、思いがけず立ち止まってしまった。
今の声は、白沢文代のものだ。――縁談とは?
いったい、なんの話をしているのだろう……冬乃はそろりそろりと足音を忍ばせ、扉越しに全力で耳をそばだてた。
「もう、文代ったら声が大きいわ」
「え、え、待って、ほんとに? 三ツ木製鉄の社長さんから縁談が来たっていうの?」
「だから声が大きいわ。台所まで聞こえたらどうするのよ」
「嘘、ありえないわ、だって社長よ? 三ツ木製鉄と言ったら、最近になって急に事業拡大して評判を上げて、今では百貨店にまでお呼ばれしてるって話よ? そんなところの社長さんが、なんだって女中になんか……」
縁談。どこぞの社長から。女中へ。
……女中?
そのとき冬乃の脳裏に浮かんだのは海子の顔だった。それと同時に先日、謎の男が持ってきたという手紙の件が思い起こされる。あれは縁談の申し込みだったのではないか。若く健康で可愛らしい海子を一目見て気に入った金満家がいてもおかしくはない……
「信じられないけれど、これも自由恋愛というやつなのかしらねえ……」
「さあ。残念ながらお手紙には彼女への気持ちなんてこれっぽっちも書かれていなかったわ。お見合いがしたいってだけの、ずいぶん素っ気ない文面だったし」
「さてはあなた、今日ここに私を呼んだのは、件の社長について情報を聞きだそうとしてのことなのね?」
「ご明察」
「それならそうと言ってほしかったわぁ、ちゃんと資料を取りそろえてきてあげたのに」
文代は残念そうにつぶやいてから、「これは噂だけどね――」とぐっと声を落とした。冬乃もつられて前のめりになる。
「三ツ木の社長、すごく怖い人らしいわよ。なんでも前社長を蹴落として会社を乗っ取ったとかなんとか」
「それ本当?」
「裏取りできたわけじゃないけど、もっぱらの噂よ。それに社長自身はすっごく若いの。まだ二十五、六とかじゃなかったかしら。だから余計に不気味よね。いったい何をしたのかって……前社長の奥様をたらしこんだとか社員を買収したとかいろいろと黒い噂が絶えないの」
「へえ……」
「あなた、女中を大切に思ってるならこの縁談はお断りしたほうがいいかもしれないわよ。一見『灰だらけ姫』みたく夢のような話に聞こえるけれど、絶対にろくな目にあわないもの」
「大丈夫よ、もうお断りしたから」
「エッ、そうなの?」
なあんだ、さすがね、アハハ……と文代の笑い声が響く。冬乃の強ばっていた肩からどっと力が抜け、足先を載せていた床板がみしりと小さな音を立てた。
はっと息を呑む。部屋の向こうがしんと静まりかえった。冬乃は間髪入れずに扉を叩いた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「入ってちょうだい」
ナミ江の声は何事もなかったかのように穏やかだった。ほっとしつつ中へ踏み入る。
横の卓上で急須から茶をそそぐあいだも、冬乃の頭は先ほど聞いてしまった話でいっぱいだった。
いつの間にか来ていて、いつの間にかなくなっていた縁談。その対象は海子だろうが、ナミ江が何も言わずに断るくらいなのだからよほどひどい相手だったのだろう。
せっせと手を動かしている冬乃は気づかなかった。ナミ江と文代がじっと、こちらへ意味ありげな視線を向けていることに。
文代が帰ったので、冬乃は洋間の卓を拭き、茶器を下げて台所へ向かった。
「あら、海子さん、鍋磨きは終わっ……」
がしゃんがしゃんと大きな音をたて、海子は水場のポンプのハンドルをものすごい勢いで動かしながらひんひんと泣いていた。
「ど、どうしたの……?」
「お姉さま、どうしましょう、両手の煤が取れませんの!」
海子が勢いよく振り返り、両手をばっと広げてみせる。鍋の煤がそのまま張りついたのかというほど真っ黒で、冬乃は一瞬あっけに取られたものの、たまらず「ふふふふ」と声をもらした。
「お姉さま? ひどいですお笑いになるなんて!」
「ごめんなさい、ふふ……それだけ一所懸命に鍋を磨いてくれたのね」
冬乃は竈の横にしまっていた油壺を取り出し、中身を指先にとって海子の黒い両手にぬりつけた。
「はい。あとはよーく擦って。だめなら灰をもみこむといいわ」
「ああ、お姉さま……さすがでございますわ! どうしてそんなにつぎつぎと生活の知恵を思いつかれるのですか?」
「つぎつぎなんて、おおげさね。昔からある知恵よ」
言いながら、冬乃自身も不思議に思っていた。
今の冬乃に「昔」なんて存在しない。自分の名前と故郷の記憶以外はぼんやりとした霧に覆い隠されていて、まったく見えなくなっているのだから。
十歳のころに故郷を出て、どこか大きなお屋敷につとめていたという事実だけはうっすらと覚えがあるが、そこから記憶を掘り起こそうとするとたちまち頭の中にもやもやと霧がたちこめて気分が悪くなる。
時折、ふいに日常の中で靄の中から何かが浮かび上がろうとする瞬間があるけれど、それを掴もうとしても指の間からとりこぼしてしまう。そんな歯がゆい思いを今まで何度もしてきた……
「海子は一生お姉さまについてまいります! ですからお姉さまもずっとここにいてくださいまし」
冬乃の悶々とした様子に気づく様子もなく、海子はきらきらうるうるした眼差しを向けてくる。
「ええ……もちろん。奥様がお許しになる限りずっとここにいたいわ」
そのときだった。台所へすたすたと足音が近づいてきて、がらりと引き戸が開かれる。奥からナミ江が顔を覗かせた。
「急でごめんなさい。お客様よ」
硬い表情でそう告げると、海子へ目を向けた。
「悪いけど、お茶の用意をお願いね」
「え……えっ? 呼び鈴は聞こえませんでしたけれど……」
「たまたま庭に出たらお客様がお見えになったのよ。もうお通ししたから」
「は、はい」
海子があたふたと茶瓶を取り出す。冬乃は静かにたずねた。
「殿方でいらっしゃるのですか」
「そうよ」
ナミ江が重々しいため息をつく。
「だから、あなたは洋間へは絶対に近づかないでね」
「……はい」
男の客人が来たら海子がお茶を出す。これはもはや暗黙の決まりごとだ。なのになぜ「絶対に近づかないで」などと、ことさら念を押されたのだろう。
*
北村邸の洋間。白いクロスのかかった卓をはさみ、ナミ江は客人である川島勝市と向かいあっていた。
彼には先日、縁談の手紙に断りの返事を書いたばかりだ。それで終わりだと思っていたのに……まさか本人が直接やってくるとは思いもしなかった。
ナミ江は素早く相手の全身を観察する。仕立ての良いこげ茶色のスーツに上等なネクタイ、中折れ帽。背広の下から懐中時計の細い鎖がちらりと見えている。
続いて、彼から手渡され卓上に置いた名刺をちらりと見やった。
〈三ツ木製鉄代表取締役 川島勝市〉
白沢文代の言葉が頭をよぎる。まだ若く、「すごく怖い人」であり、数々の黒い噂が絶えない御仁……確かに、彼は若かった。顔立ちも精悍で、ハンサムというよりは男前という感想が似合う。だが眉間に刻まれた深い皺や不機嫌そうな目つきがすべてを台無しにしていた。この仏頂面は緊張のためか、それとも生来のものなのか……
(冬乃さんが気を失うのも無理はないわね)
これでは恐怖症などなくても恐ろしいと感じる婦女子は多いだろう。
そんなナミ江の勝手な評価など知るよしもなく、勝市は改めて居住まいを正し、口火を切った。
「突然の訪問おそれいります。先日いただきました縁談へのご返答につきまして、真意をお伺いしたいと思い馳せ参じた次第に存じます」
ナミ江は一瞬、返す言葉を見失った。彼の物言いが思いのほか丁寧で、物静かな声音だったからだ。
「真意……ですか?」
「はい。なぜ見合いの席すら設けぬままに拒絶されてしまったのか、その理由をおたずね申したく」
「そのようなことのために、わざわざ、こちらまで足をお運びくださったのですか?」
また一筆書いてくれれば、こちらも返事を書いたのに。彼はことさらに真面目な顔で「はい」と返すのみである。
「なぜ、そのようなことを気にかけられるのでしょう」
ナミ江は息を吸い、それから一気に言葉を吐きだした。
「金満家で社長の身分にあるお方から一介の女中への縁談など本来ならば破格の話で、断られることなどあり得ないから――ですか?」
すると勝市の目がわずかに細められた。むっとしているように見える。
なんだ、ちゃんと感情を表に出すじゃないの……とナミ江は少しだけ安堵した。
「我が家では女中をとても大切にしておりますの。それこそ自分の娘や姉妹のように扱っております。ですから、例えそれが夢のような玉の輿のお話であっても、事情の存ぜぬお相手とお見合いの席を設けるわけにはまいりません」
「では、こちらの事情をひととおりお話しすればよろしいですか?」
「え? ええ、まあ――」
そのとき、廊下の床板を踏みしめる音が響き、扉がコンコンと叩かれた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
溌剌とした声と共に海子が入ってくる。盆に茶器を載せてやってきた彼女は、何気なく目を上げ、はたと立ち止まった。
そこに座る勝市の姿をまじまじと見つめ、みるみる血相を変えていく。
「あ、あっ……」
「海子さん?」
がしゃああん、と音を立てて盆と茶器が床に散らばる。海子は男を指さし、耳をつんざくような声で叫んだ。
「イヤアァァ! 暴漢! 暴漢よ!」
「ちょっと海子さ――」
「この人、お姉さまを襲った暴漢よッ!」
廊下の向こうから甲高い悲鳴が聞こえ、冬乃は包丁を握る手を止めた。
今のは海子の声だ。ただならぬ悲鳴の余韻に背筋が寒くなり、包丁を置いて急いで台所の戸を開けた。
今、洋間には男の客人が来ている。何があったのだろう。まさか……と脳裏に恐ろしい想像が広がっていく。
居ても立ってもいられず、冬乃は竈の横に立てかけていた火かき棒を握りしめた。意を決して廊下へ踏み出す。
部屋にいるのは男だ。その姿を想像するだけで胃が縮こまりそうになる。だが海子やナミ江がひどい目に遭っているのなら助けなければ。
古い床板に足袋の擦れる音が響く。
「あ、お、お姉さま来ないで! 来ないで!」
海子の金切り声が響き渡った。洋間の扉は開け放されている。冬乃は奥歯を食いしばり、火かき棒を両手に構え、えいやっと部屋の入り口へ躍り出た。
「いったい何事です、か――」
言葉の続きは、どこかへ飛んでいってしまった。
洋間の椅子に、一人の男が腰掛けている。彼はゆっくりと顔を上げ、こちらをまっすぐに見た。
その、射るような鋭い眼光。後ろへ流した黒い髪。いかにも上等そうな焦げ茶のスーツ……先日の、町中での事件が頭をよぎり、冬乃の背中にどっと汗が噴き出した。
どうして、この人がここに?
いったい何をしに来たのだろう。
ぐるぐると混乱していると、やがて彼が口を開いた。
「それは何のまねだ?」
いやにつっけんどんな声だった。
「ずいぶん勇ましい出迎えだな、冬乃」
――冬乃。
そうだ。この人はあの時もたしかに、名を呼んだ。まるで旧知の仲であるかのように。
失った記憶のどこかで縁があったのだろうか。だが、それをたずねようとしても、唇が震えてうまく声が出せなかった。
やがて彼が焦れったそうに立ち上がり、つかつかとやってきて眼前に立ちふさがった。冬乃は反射的に大きく後ずさったが、廊下の壁に背中を打ちつけてしまう。
逃げられない。
「迎えに来たぞ。約束を果たせ」
この男は何を言っているのだろう。
「それとも本当に忘れたのか? 俺の顔を」
わかりません。存じません。そう言いたいのに体の震えが止まらず、立っているのもやっとだった。
「どうしてそんなに怯えているんだ」彼はさらに無遠慮に近づいた。
「川島勝市。覚えていないか? おまえと結婚の約束をしただろう」
――結婚。
その瞬間、頭の片隅を針で鋭く貫かれたような強い痛みが走った。
「……っ」
記憶を掘り起こそうとして失敗するときの、あの気持ちの悪い感じまで胸にせり上がってくる。目の前がちかちかして、足もとがふらついた。
視界がゆらぐ。体が不安定に傾く……
「おい!」
だが地面に倒れる寸前、頑丈な腕に抱きとめられる。糊のきいたスーツの感触を頬に受けた瞬間、冬乃は喉からあらん限りの声を絞り出していた。
それきり、もう何も見えなくなった。冬乃は勝市の腕のなかでくたりと伸びてしまっていた。




