また君に恋い初むる
翌月。三ツ木製鉄の社長である川島勝市が妻を娶ったという報せは業界内にたちどころに広まった。
婚礼の儀は夫の家で執り行われるのが昔ながらの慣例ではあるが、彼は近年流行している神前結婚式を選び、実に三十五圓もの費用をかけ、厳かに、大々的に、神前で結婚を誓ったのである。
なお、その後は帝都ホテルで披露宴を催し、贅をこらした西洋のドレスと特注のティアラで花嫁をこれでもかと着飾らせ、社員たちに見せびらかしたことも同様に広められた。秘書は呆れるあまり、終始マネキンのごとき無表情で立っていたという。
なお花嫁側に参列していたのは、花嫁が以前仕えていたという女主人と、同僚の女中であるが、女中のほうが感極まって滂沱の涙を流し、女主人のハンケチを化粧で極彩色に染め上げてしまったことも付け加えておきたい。
***
夕陽の光芒が波間を差し、風に揺れる海の水面をまぶしく染め上げる。その様を旅館の窓辺から見つめ、冬乃は潮の香りを思い切り吸い込んだ。
「素敵な眺めですね……」
ため息をつくようにつぶやくと、その左隣から「ああ」と小さな相づちが聞こえた。
勝市は海など見ていない。惚けたように妻の横顔を見ていた。その輪郭が橙色の光に溶け、神々しいまでに照り輝いているのを、まぶしげに目を細めながら。
「新婚旅行、なんて。夢のようです……海辺の旅館で、しかもこんなに広いお部屋まで取っていただいて……ありがとうございます、勝市様」
「ああ」
冬乃はふいに顔を勝市へ向ける。あまりに急なことだったので、勝市は狼狽えたように視線を背けた。
「海、ご覧になられましたか……?」
「あ、ああ、見ていた」
「なんだか、先ほどから生返事ばかりな気がしますが……」
「気のせいだ。俺は社長だからな、考えごとが山ほどあるんだ」
「新婚旅行でもお仕事のことをお考えなのですか? もしかしていろいろな案件が山積みのままいらしたのでは……」
「失礼な。そんなことはしていない、断じて!」
冬乃は「ふふ」と笑う。たちまち勝市の頬がかっと熱を帯びた。
「今何を笑った」
「ふふ……いいえ」
「今も笑っただろう」
「いいえ、笑っておりません」
すまし顔で答えれば、勝市はますます躍起になって顔を近づける。息のかかりそうなほどの距離にまで迫られ、冬乃ははっとかすかな吐息をこぼした。
その、わずかに開いた唇に、勝市の目が吸い寄せられる。血色の悪かった彼女のそれは、今やすっかり血の気が戻り、薄紅色の花びらのように色づいていた。
ど、ど、ど、と心臓が鼓動を激しくする。勝市は衝動的に冬乃の後頭部を引き寄せ、唇を重ねた。
まるで全身が鼓動に支配されているようだった。頭の中の理性までもがさざ波に覆われる砂のように消えていく。冬乃の体が畳に倒れ、雪崩れ込むように覆い被さった瞬間、
「失礼いたします!」
と元気な声が襖の向こうから響き渡って、二人は慌てて体を離した。
「お食事をお持ちいたしました!」
「は、はい、お願いします!」
冬乃は顔を真っ赤にしながら飛び起きて、そそくさと戸口へ駆けていった……
*
「お姉さま? お姉さま!」
海子の呼びかける声に、冬乃の意識は回想から引き戻される。
ここは市街地のパーラーで、最近新しくできたばかりの店である。その一角にあるテーブルを挟み、海子と共に座していた。
「ごめんなさい、新婚旅行の話だったわね」
「そうですわ。もう……そんなお顔をされちゃ、なんだか私、置いてけぼりみたいですっ」
海子はしょぼくれた顔でアイスミルクを口にする。それがあんまりにも悲しげな顔なので、冬乃は「そんな妙な顔をしてたかしら?」と慌てて自分の頬を触った。
「そうですわ、恋する乙女のお顔でしてよ」
「……そ、そんなに……?」
「今は私と一緒にいるのですからね。私のことも考えてくださらなくっちゃ困ります」
「もちろんよ。だって今日はわたし、海子さんに会いに来たんだもの」
ふたりはいつぞやの銘仙の着物でおめかししていた。帯には揃いの小鳥の帯留めが光っている。冬乃の着物は、嫁入りの際にナミ江が譲ってくれたのだ。
「病が治ったら一緒にお出かけする……さっそく夢が叶って嬉しいわ」
「まだまだですわよお姉さま、まだまだです。パーラーの次は食堂へ、ビヤホールへ、貸本屋に呉服屋、活動写真、帝都オペラ……」
「本当ね。まだまだ行っていないところがたくさんあるわ」
「まあ、どうせそれらすべて、あの方がお姉さまを連れ出してしまわれるんでしょうけど……」
「もちろん勝市様とも行きたいけれど。海子さんとも行きたいわ。ずっとそう願っていたんだもの」
海子の目元がたちまちじわりと赤く染まり、ぽろっと涙が一粒流れ落ちる。冬乃は「もう、どうしてあなたが泣くの」と笑いながら、ハンケチで彼女の頬を拭ってやった。それでもまだグスグスと鼻を鳴らしているので、冬乃は自分の皿を海子のほうへ滑らせる。
「ねえ、このパンケッキ、とってもおいしいわ。バタにメープルがかかってるの、食べてみて」
「えっ、よ、よろしいのですか? では私のアイスミルクも……」
「うまそうだな」
突然横から声がかかり、二人は飛び上がった。見上げればそこにスーツ姿の勝市が立っているではないか。
「勝市様……!」
「私も混ぜてくれ。――君、ホットコーヒーを」
彼は慣れた様子で女給に注文し、空いていた椅子に腰を下ろす。
「なんですの、今は私とお姉さまのランデブーですのよ、邪魔しないでくださいましっ」
「なら私はただ黙っていよう。存分に話せばいい」
「黙っていればいいというわけではありませんのよ! それにあなたはどうせ家でもお姉さまにお会いできるじゃありませんか!」
「家での冬乃と外での冬乃は全然違うぞ。君は家での冬乃ばかり見ていたからわからないだろうが……」
「うわーんお姉さま、助けてくださいまし、この方いじわるですわー!」
冬乃は思わず声をあげて笑った。周囲にまで幸福が移りそうな、軽やかで澄んだ笑い声だった。
「お姉さま、どうして笑ってらっしゃるのっ」
「ふふ、だって……なんだかとっても幸せなんだもの」
さりげなく目を上げると、勝市と視線が合う。彼はたちまち目をそらすが、耳がほんのりと赤く染まっていた。
そらされる直前、その瞳がひどく優しくて、愛おしげな眼差しであったのを冬乃は感じとっていた。だから負けじと、冬乃も見つめ返すのだ。
幼いころにこっそり交わした微笑みよりも、さらに愛おしい気持ちを込めて。




