③
週末、勝市は取引先の社長と会食を終え、邦義と共に急いで汽車へ飛び乗った。午後六時発車の便にぎりぎり間に合い、席へ着いて息を整える。
「何をそんなに急いでらっしゃるんです」邦義が息をきらしながら文句を垂れた。
「うるさい……ただ早く帰りたいだけだ」
ようやく呼吸も落ち着くころには外は暗く、窓を見ても中の明かりが鏡のように映りこむばかりで景色は見えなかった。
「そういえば、例の女中の具合はいかがです。あちこち負傷していたんでしょう」
邦義が何気なく訊ねると、勝市は切れ長の眼を憂鬱げにくもらせた。
「……具合は良さそうだ。順調に回復している」
「そうですか。不幸中の幸いでしたね」
「ああ……」
「そういえば、今日は一日ずっと落ちつきなくそわそわしてらっしゃいましたね」
邦義が小さく言い放った瞬間、勝市はばっと顔を上げた。
「な、何を言ってる……俺は別に普通だが」
「何か、早く家に帰りたい理由がおありなのですね。例えば……あの女中と何かあるとか……」
「い、いや、全然、まったく、そういうわけじゃない」
「本っ当に彼女が絡むとあなたはわかりやすくなりますよねえ。仕事に支障が出ないか心配です」
「別にそんなもの出るはずないだろ」
「そうですね、そうでなければ私がストライキを誘発しますよ」
「おまえが言うと洒落にならんな……」
一時間ほどかけて汽車が到着し、勝市も邦義も駅に降り立った。邦義はいつものように人力車を呼び止めようとしたが、ふと勝市を振り返る。
「……どうなさいました?」
「え? ――いや」
「顔色が悪いようですが」
「そんなことは……ない」
「そうですか? では俥を呼びますよ」
「いや……」
だが実際、勝市は青い顔をしていた。
それもそのはずで、今日は朝から一日中、先日自分で書いてしまった日記のことで頭がいっぱいだったのだ。
果たして、家に帰ったら冬乃はいるのだろうか。空っぽの客間にあの桐箱がぽつんと置き去りにされ、無言で北村邸に帰ってしまったら。いや、好きにせよと言ったのは自分だが、いったい自分は何の自信があってあんなふうに書いてしまったのか。
これを逃せば、もう二度と機会は訪れないのに。
叶わぬならいっそ自分が彼女を女中として雇ってしまいたいくらいだが、彼女はきっとそんなことは望まないだろう。
どんなに言葉を尽くしたところで、冬乃が勝市を信頼し、その想いを受け止めてくれる保証はない。彼女の心の傷は根深く、谷浦の支配下から解き放たれただけで解決できるものではないのだ。
何かと理由をつけて彼女を邸にとどめ、もっとゆっくり時間をかけて彼女を癒やし慰めてから、改めて想いを聞くべきではなかったか。それなのになぜ自分は、ああも急いてしまったのだろう……
考えれば考えるほど己の心算のずさんさが見え、勝市は頭を抱えたくなった。もちろんほとんど顔には出さないが、邦義には見抜かれてしまったらしい。
邦義は「はあ……」と露骨に大きなため息をつき、手を挙げて人力車を二台、呼んだ。
「おい、待て」
「待つ必要がありますか?」
「いや……」
よく利用する勝市らの顔を覚えている車夫たちは、喜んで駆けつけてきた。
「おい待て邦義」
「ほら来ましたよ社長」
「いや……俺はいい、おまえが先に乗れ」
「何をおっしゃってるんですかまったく」
邦義は「社長を先に」と車夫を促し、勝市はあれよあれよという間に座席へ乗せられていた。
「邦義!」
「何が待っているのか知りませんが、一度腹を決めれたのならとっとと完遂なさってはいかがです。見ているこちらがやきもきしてしんどいんですよ」
「は――」
「では私もこれで帰らせていただきます。とっとと事態が進展したほうが、会社も安定しますからね」
「鬼かおまえは!」
憤慨した勝市を乗せて、人力車は動き出す。
そして心の準備も何もできないまま、あっという間に坂をのぼり、勝市の邸まで着いてしまった。
大きな邸宅ばかりが集うこの住宅地は、帝都に近いだけあって電気が潤沢に敷かれており、夜でも家々の窓には煌々と明かりがついている。勝市の屋敷もまた、台所や一部の部屋に明かりがついているが、中の様子はわからない。
勝市は人力車を帰らせたあと、暗い玄関先でしばし立ち尽くしていた。のろのろと手を伸ばして扉に触れ、しかし思い直して手を離す。そんなことを繰り返していた。
「……だめだ。腹を決めなくては」
そうひとりごち、今度はしっかりと取っ手を掴む。ままよと扉を引き開けた。
勝市の帰った音を聞き、いつもどおりアサ出迎えにやってくる。
「おかえりなさいませ旦那様」
「ああ」
勝市はごくりと唾を呑んだ。
「その……冬乃は」
「ああ、冬乃さんでしたら……」
アサが目をそらしたのを見て、勝市の心臓が不吉な音を立てた。
「ど、どうし――まさか……」
その瞬間、微かな衣擦れの音と共に、廊下の影から着物姿の冬乃が現れた。
淡い水色の色無地に臙脂色の帯を締め、結い留めた髪に銀細工の簪が揺れる。彼女は真正面を向き、気恥ずかしげに赤く染まった顔ではにかんだ。
「おかえりなさいませ……勝市様」
彼女の襟元に、臙脂と白い花柄の半衿が見える。勝市は瞠目したまま、時でも止まったように硬直していた。
「勝市……様?」
冬乃が訝しげに小首をかしげ、その後ろでアサがそっとその場を離れる。
勝市は未だ信じがたいような顔で、食い入るように冬乃を見つめながら、夢遊病者のようなおぼつかない足取りで玄関を上がった。
「これは夢……じゃないよな」
「はい」
「俺の勘違いじゃないよな」
「はい」
勝市は冬乃の襟元に光るうつくしい半衿におそるおそる触れた。
「おまえに、あげようとしたんだ。十二年前……」
「そう、なのですね」
「でもおまえはいなくて」
「申し訳ありませんでした。けれど……」
冬乃は涙に潤む瞳でまっすぐに勝市を見上げた。
「もう一度、見つけてくださったから……わたしは今、ここにいます」
その瞬間、勝市はこらえきれずに冬乃を掻き抱いていた。まるで彼女が消えるのを恐れるかのように強く、力を込めて。
「勝市様……」
冬乃のかすかな吐息が耳元に響き、勝市ははっと冬乃を離した。
「すまない、苦しかったか、怖がらせてしまったか」
「いいえ」
冬乃は嬉しそうに目を細める。その目尻に涙の珠が光っていた。
「わたしもようやく、長年の想いが叶った気がして……」
その微笑みに、かつて幼い彼女が時折目を合わせ、勝市だけにこっそり見せてくれた笑みと重なった。それだけで胸が苦しくなり、勝市はもう一度冬乃を抱きしめる。
天にも昇る心地だった。未だこれは夢ではないかと半信半疑になりながら、冬乃の存在を確かめるように何度も腕に力を込め、そのたび我に返るのを繰り返す彼に、冬乃は思わず囁くように笑った。
「もうわたし、何も怖くありません。あなたを信じます。だからどうか好きなだけ、このままで……」
勝市の心臓は壊れそうなほど激しく高鳴って、どうにかなってしまいそうだった。
昔から彼女は心臓に悪い女だった。今だってそうだ。記憶を取り戻した彼女は勝市の心をいとも簡単に掻き乱し、幼いころの心を呼び覚ましてしまう。
「もう二度と、俺を疑うな」
「はい」
「決して離縁などしてやらんからな」
「はい」
「あ、あとでおまえが嫌と言ったって絶対に……」
「嫌だなんて。わたしこそ、勝市様にお願いしたいくらいですのに」
「絶対だぞ。絶対だからな……!」
玄関先で抱き合うふたりを、アサは廊下の暗がりからこっそりと見守り、やがて音もなく静かに立ち去った。
昨晩、冬乃に頼まれたのは、着付けと髪結いである。着物や簪の類いは、彼女の主人であるナミ江から借り受けた物だった。結局、ナミ江はそれら一色を快く贈与したようであるが……
「このお屋敷も賑やかになりますわねえ」
台所で独りごち、アサは楽しげにお茶の準備をした。




