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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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31/33

 勝市は宣言どおり、翌日からも仕事で忙しく、夜遅くに帰宅するか、会社近くに泊まり込んで家には帰ってこない日が続いた。


 冬乃の足首は、毎日湯に浸かり包帯を取り替えているうちに腫れは引き、ほとんど回復していた。通いの医者も「無理のない範囲でなら出歩いてもよろしい」と言ってくれたので、そろそろ居候をやめて台所仕事を手伝いたいのだが、アサを手伝いに行っても


「滅相もない、お部屋でお休みくださいまし」


 と追い返されるばかりで、取り合ってもらえない。


 それでもめげず、朝から勝手口の裏で洗濯しているアサに「やらせてください」と頭を下げ、問答無用で隣にしゃがんでシャツや靴下をすすいでいった。


 ――シャツ?


 冬乃はすぐに、手にしているものが勝市の服であると察して顔を赤らめた。アサは「あらあら」と微笑み、無理に追い返そうとはしなかった。


 籠の中の洗濯物がすべて綺麗に洗い上がり、二人で協力して物干しに吊していく。しばし黙って無心に作業していたが、やがてアサがぽつりと言った。


「冬乃様は、こちらへ嫁がれても、こうして家事をなさるおつもりですか?」

「え? ええ……それは、まあ、もしも嫁ぐことになれば是非とも……」

「もしも?」


 アサが訝しげに首を傾げる。


「ええと、冬乃様はもう、こちらに嫁がれることになったのでは?」

「えっ? い、いえ、まだその……そこまでは……」


 勝市の靴下を伸ばしながら口ごもる冬乃に、アサは天を仰いで「旦那様も難儀ですこと」とつぶやいた。


「何かお悩みでいらっしゃるなら、一番親しい方にご相談されてはいかがでしょうか」

「……え?」

「そろそろご到着なさるころですし……」


 アサが窓越しに屋内の壁時計を見やる。

 すると間もなく、表玄関のほうからリィンと呼び鈴の音が響き渡った。


「冬乃様、どうぞ客間のほうへお戻りください。お客様をお通しいたしますので」


 アサに言われるがまま、客間に突っ立って待っていると、部屋の扉がコンコンと叩かれ「お客様をお連れしました」とアサの声がした。


 どうぞ、と促すやいなや、ガチャリと扉が開き、


「まあ素敵なお部屋」


 と現れたのは、なんとナミ江であった。その後ろから


「お姉さまあああああーーーっ!」


 黄色い声と共に海子がすっ飛んできて、冬乃の胸にとびこんできた。


「お姉さま、もうお加減はよろしいのですかっ? 私、もう心配で心配で心配で」

「海子さんたらはしたない。ここは川島様のお宅なんですよ」


 ナミ江が静かにたしなめる、そのやり取りの何もかもがなんだか懐かしく、冬乃の瞼がじわりと熱くなった。


 やがてアサが紅茶と茶菓子を卓上へ並べてくれたので、ナミ江と冬乃が向かい合ってソファに座り、海子は冬乃の隣に座って物珍しそうに茶菓子を眺めた。


「こ、こちらは、まさかクッキーではありませんか⁉ でも、真ん中に入っているのはこれ……あ、あ、チョコレート! チョコレートが入ってますわよ!」

「あら、森長製のチョコレートじゃない。さすが川島邸ねえ、お茶請けも贅沢だわ」


 ナミ江が上品に紅茶をすする。「ああ、おいしい」と頬に手を添える彼女に、冬乃は「あの……」と声を掛けた。


「あの、奥様や海子さんがいらっしゃるなんてお聞きしていなかったものですから……」

「だって驚かせたかったんですもの」


 ナミ江が澄ました顔で告げる。海子も「作戦大成功ですわね!」と悪戯っぽい笑みを見せた。


「あなたの具合をこの眼で確かめたくって。顔を合わせるのはあの日以来だし」


「あの日」――冬乃はまさか自分が攫われるなど露とも知らず、いつもどおりナミ江や海子を送り出した。谷浦の家で目が覚めたときは、これが今生の別れになったとさえ思ったのだ。


「そう、ですね……ご心配をおかけして本当に申し訳ありませんでした」

「やめて、謝ってほしいわけじゃないの。今回の被害者はあなたよ」

「そうですわ、攫ったふてえ輩がすべて悪いんですのよ。むしろ……そんな日に呑気にお買い出しへ行ってしまった私が悪いのですわ」


 海子がみるみる泣きそうな顔になるので、冬乃は慌てて「それは違うわ、むしろあなたに危害がなくてよかったと思ってるのよ……!」と背中をさすってやった。


「でも、本当によかったわ。川島様があなたを取り返してくれて」


 ナミ江がため息交じりにつぶやく。


「私たちの訴えじゃ、警察はまともに取り合ってくれなかったけれど、川島様が『婚約者がさらわれた』とはっきり訴えてくださったからこそ警察も動いてくれたのよ。その上探偵まで雇って、事前に居場所を探してくださったものだから」

「勝市様が……?」

「そうよ。まだお返事もしてないのに、はっきり断言してくださったのよ、あなたのために。あの方、本当にあなたのことが大好きねえ」

「私の方が好きですわ」

「はいはいそうねえ」


 ナミ江が優雅に紅茶をすすり、海子もぶつくさ言いながら茶菓子を囓る。冬乃はそんな二人の顔をまともに見られなかった。


 勝市本人はここにいないのに、彼の想いをひしひしと感じてしまう。助けてくれたあの瞬間も、先日の夜のことも、記憶を失っていたときも……彼の想いは、心は、海よりも深く、溺れてしまいそうになる。


 だからこそ、素直に応じることのできない自分が腹立たしい。


「でも、これで冬乃さんも晴れて本当の婚約者になれるわねえ。……もう、お返事はしたの?」


 ナミ江が問いかける。その顔すら直視できないまま、冬乃はゆっくりと首を横に振った。


「あら、どうして?」

「お姉さま、まだお返事なさってませんの?」

「……その資格が、ないように思えて」

「何を言っているの? 川島様のお気持ち、あなただってもう痛いほどわかるでしょう?」

「お姉さま、〈交換日記〉に書いておられたじゃありませんか! あの方のこと、お慕いなさってるって……」


「え、待って、あなた、わたしの日記……見たの……?」


 海子は「あ」と硬直した。冬乃の顔が一瞬で火のついたように赤くなる。


「ご、誤解なさらないで! 決して下心ではなく、いなくなったお姉さまの手がかりが何かあればと、奥様と一緒に拝見したまでですのよ!」

「奥様まで……!」

「ごめんなさいね、だって本当に手がかりがなかったんですもの」


 ナミ江はあまり悪びれる様子もなく続けた。


「あの方と冬乃さんは、いわば想いあっている状態なのよ。何を迷うことがあるのかしら?」


「わたしは……一度、結婚してしまいました」


「そうねえ。でも、離婚して故郷へ戻り、また再婚する例だって近頃は珍しくもなんともないのよ。川島様だってあなたの事情は承知の上で」


「ですが、わたしは一度あの方の求婚を無視して……裏切って……谷浦の家へ嫁いだのです。そんなわたしが、今さら……」


「それでもあの方は、あなたを町中で見つけてすぐ縁談を申し込まれたのよ」


「ですが、わたしの体はもう綺麗ではありません。その、谷浦から、体中に傷を……お医者様から、そう簡単に消えないであろうと言われている痕だってたくさんあります。そんなわたしに触れたら、勝市様が穢されてしまう気がして……」


「それが一番の理由ね」


 ナミ江が静かに言い放った。


「いえ、正しくは……自分の体を見られて、あの方に幻滅されるのが怖いんでしょう」


 冬乃は息を呑んだ。膝に置いた手がこわばり、震える。


「そう、ですね……そう……結局は、わたしが怖いだけなのです。勝市様の悲しむ顔を見るのが……嫌われるのが……決して顔には出されないでしょうけど、だからこそ余計に、不安で……」


 絞り出した声はか弱く、静かな部屋の空間に吸い込まれるようにして消える。冬乃の真っ青な顔を見つめながら、やがてナミ江が口を開いたとき。


「お姉さまはいつも正しいことをおっしゃいますけれど……今回ばかりは私、間違っていると思いますわ」


 ナミ江も冬乃も驚いたように海子を見た。彼女は何やら難しい顔で真剣に言葉を探している。


「お姉さま、全然あの方のことを信じていらっしゃらないのね。そのお気持ち、とてもよくわかりますわ。私も同じでしたもの。お姉さまが嫁いでしまわれたら私のことなんてきっと忘れられる、私なんてきっとその程度の存在なんだって……そう無意識に思い込んでいましたもの」


 冬乃の脳裏に、颱風の夜に見た海子の切なげな顔が浮かんだ。


 もしかしたら今、自分も同じ顔をしているのかもしれない。相手の中の自分の価値を勝手に推し量り、絶望して、相手の好意を信じ切れず不安に苛まれている、あの顔……


「でも、お姉さまはおっしゃいましたわ。たとえ嫁いでも仲良くしてほしいって、わざわざお姉さまのほうからお願いしてくださいましたのよ。私、その言葉がどんなに嬉しかったか……その言葉を便りに、お姉さまを信じようって思えましたのよ」


 海子は冬乃の手を取り、すっかり冷えた指先をぎゅっと握りしめた。


「あの方だって、お姉さまに信じてほしくて同じような言葉をかけられているはずですわ。何か……何かありませんの? 思い出してくださいまし」


 先日の夜の、勝市の切迫した顔が思い浮かぶ。


 あのときはただ自分の不安をぶつけるのに必死で、彼の言葉は耳に入らなかった。


 だが、彼はずっと……訴え続けていなかったか。


〈あなたは人を信ずることが苦手のようだが、彼女の思慕を疑うのは逆に彼女を悲しませるだけなので、今後は信じてやってほしい〉


 かつて彼が書いた日記の一文が、今になって胸に深々と突き刺さる。


 彼は、海子に自分の心情を重ねたのではないか。


 彼はずっと以前から、冬乃に信じてもらおうと、幾度も真摯な言葉を投げかけてくれていたのではなかったか――


「わたし、本当に駄目ね……理解したつもりになって、ぜんぜんわかってなかったんだわ」


「自己を肯定するって、そう簡単なことではないものねえ」


 ナミ江は紅茶をすすりながら、独り言のように言った。


「誰かを信頼して、信頼されて、愛して、愛されながらようやく成していくものだもの。急にできることじゃないわ。だからこれから……これから信じていけばいいのよ」


 冬乃の中の勝市は、きっと何があってもゆるがない。


 だから勝市の中の冬乃を信じる。彼がかけてくれた言葉の一つ一つをゆっくりと胸に刻みながら。


「奥様、海子さん、本当にご迷惑を――いえ、ありがとうございました」 

「あら――」

 

 ナミ江が嬉しそうに目元を和らげた。


「そう、それでいいのよ。まっすぐお礼を言われるのって気持ちがいいわ」

「私はいつでもお姉さまのお役に立ちましてよ」


 海子もいつにもまして胸をそらす。とてもかわいらしく優しい、冬乃の妹分として。

 


 ナミ江と海子が帰り、冬乃は相変わらず台所の立ち入りを許されないまま夕餉を済ませ、入浴を終えたころ、アサに呼び止められた。


「冬乃様。旦那様からこちらをお渡しするようにと」


 上等な薄布に包まれたそれを、冬乃はおっかなびっくり両手で丁重に受け取った。


「こちらは、いったい……」

「なんでございましょうね。私もわかりかねます」


 アサは「失礼いたします」と低頭し、そそくさと立ち去ってしまう。冬乃は部屋へ戻り、ベッドに腰掛けて、膝の上で包みを解いた。


 真っ先に目に飛び込んできたのは、白く真新しい桐箱。その下に、見慣れた雑記帳が置かれていた。


 冬乃は箱を脇に置き、〈交換日記〉を手に取った。ぱらぱらとめくり、一番最新の(ページ)を開く。


 冬乃が最後に書いた文面の隣に、勝市の文字が新しく綴られていた。




 〈冬乃へ。先日は、取り乱してしまってすまなかった。


 あんなふうに云うつもりではなかった。あなたを怖がらせたのではないか。もしそうなら謝らせてほしい。本意ではなかった。


 やはり、私とあなたの本音のやり取りは、この〈交換日記〉が適しているように思う。私がここに書くことはすべて嘘偽り無いと誓おう。


 あなたもきっとここに嘘を書くような性分ではないだろう。だから私も、あなたがこの直前に書いた言葉を信じる。


 あなたが私との結婚を思いとどまる理由が前の夫の残した痕だというのなら、逆に私はそんなもののために結婚を諦めたくはない。痕がなんだ。ちょっと黒子が多いくらいなものではないか。逆にあなたは私の体に何か折檻の痕があったら穢れているとでも云うのか。確実に言い切れるが、あなたはきっと私に「そんなことで諦めるな」と云うはずだ。


 すべての痕ごとあなたを受け入れさせてくれないか。何年、何十年か後にその痕がすべて消えるまで、私に見届けさせてくれないか。


 もし同意してくれるなら、箱の中のものを受け取ってほしい。高価な物は要らぬと云っていたが、これくらいならあなたも使いやすいはずだ。


 もしそれでも私の妻にはなれぬというのなら、売るなり焼くなりすればいい。ただし怪我が完全に治るまでは我が家で療養してほしい。もちろん完治したあともずっといてくれて構わない。


 私は三日後の週末に帰る〉




 桐箱の蓋を開けると、つやつやとした紫色の絹布に抱かれるようにして、美しい半衿が折りたたまれていた。品のある臙脂(えんじ)色の生地に清楚な白い花の刺繍が施されていて、何にでも合いそうだけれど確かな存在感を放つ意匠であった。


 そっと手を伸ばし、その布地に触れる。柔らかで、いかにも上等な生地である。恐れ多さと同時に、冬乃は、それを身につけた自分が勝市の隣に立つところを想像した。


 目を上げると、暗い窓の向こうに、砂粒のような星々が白く瞬いているのが見えた。


 ――冬乃。俺ははやくこの家を出たい。

 ――出て、一人前になったら……


 冬乃は静かに立ち上がり、部屋を出た。女中部屋をたずねると、アサが少し驚いたように「まあ、まあ」と出迎えた。


「お呼びくださればこちらから出向きますのに」

「いてもたってもいられなくて……」


 冬乃はほんのりと頬を赤らめながら、おずおずと桐箱の中身を見せた。


「お願いがあるのですが……ご協力くださいますか」

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