第七話 最後の日記①
それからしばらく、冬乃は勝市の邸で療養することになった。一週間も谷浦に拘束され、そのあいだもろくに食事にありつけず、たびたび暴行を受けていたため体が弱っていたのである。体のあちこちに痣があり、縄に縛られていた足首はおかしな方向にひねってしまったのか体重をかけると痛みが走った。
そのうち警察がやってきて事情聴取を受けた。後ろに勝市が怖い顔で立っていて、若い警官が少しでも不躾に話を聞こうものなら
「私の婚約者が怯えている。もっと気を遣っていただきたいのだが」
と恐ろしく低い声で牽制するおかげか、話ははやく終わった。
谷浦は間もなく裁判にかけられ、監獄に入るだろうということだった。あちこちから食い逃げや盗みを働いた疑いが出てきて余罪を調査されているらしい。
勝市とは事情聴取の日以来、顔を合わせていない。今回の騒動のために後回しにした仕事のツケがあるらしく、もう五日も会社で缶詰になっている。
冬乃は客間のベッドの上で起き上がり、がらんとした広い部屋の静けさに、ほっとため息をついた。
品のあるクリーム色の天井や壁、床に敷き詰められたいかにも高価そうな絨毯、洗練された色合いの調度品……ふかふかしたベッドの寝心地にはだいぶ慣れてきたが、こんな立派な洋室にひとりで眠るのは落ち着かない。
ぼんやりしているとドアがノックされ、女中のアサがカートを押しながらにこやかに入ってきた。
「おはようございます、冬乃様。どうぞ洗顔なさいませ」
カートの洗面器には綺麗な水がなみなみと注がれている。冬乃は「いつもすみません」と恐縮しながら布団をはぎ、ベッドに座って水をいただいた。
「あの……足首の痛みもかなり引きましたし、もうお部屋までお持ちくださらなくても……」
「何をおっしゃいます。お医者様から正式に完治したと言われない限りは無理をなさってはいけませんよ」
「そう……かもしれませんが……」
冬乃が手拭いで顔を拭いているあいだに、アサはベッド脇の卓上へてきぱきと朝食の皿を並べていく。
「あの、『冬乃様』なんてやめてください、わたしはただの女中ですし……」
「何度も申し上げますが冬乃様は大事なお客様ですから。馴れ馴れしくお呼びすれば私が旦那様に叱られます」
このやり取りももう何度目になるだろう。
出される食事はどれもこれも、良い食材を使っているのが一口でわかる上品な味わいでおいしかった。北村邸も一般庶民より余裕のある暮らしをしているはずなのだが、やはり社長の家とは位が違う。
食事が終わるとアサがさっさとカートへ片付けてしまう。本来なら自分で片付けも洗い物もすべきなのに……。一度食器を重ねて台所まで持っていこうとしたら血相を変えて怒られてしまったので、手持ちぶさたでいるしかない。
アサが「退屈でしょうから」と婦人雑誌を持ってきてくれるので、冬乃は仕方なくベッドの上で雑誌に目を通した。だが、頭の中では違うことを考えていた。
(奥様や海子さんはどうしているかしら……足はもう治っているようなものなのだから、北村邸に帰るべきじゃないのかしら……)
二人とは一度、屋敷の電話を借りて話をしている。二人とも郵便局から電話をかけてきてくれて、冬乃の声を聞くとひどく安堵していた。海子など「お姉さまが生きてたあああああああ」と大号泣で、声が大きいとナミ江に叱られていた。
(勝市様も……あれからまったくお顔を見ていないわ。わたしのせいでお仕事が溜まっているのよね……申し訳ないことばかりだわ……)
だが、まだ顔を合わせなくていいという事実に、ほっとしている自分がいる。
決して会いたくないわけじゃない。むしろ逆だ。でも、会えばきっと、今度こそあの選択を迫られる。
気持ちはとっくの昔に傾いている。なのに、その返事をするのがこんなにも怖いなんて……
夕餉が終わり、アサの付き添いで風呂に入る。風呂場は見事な船底天井で浴槽も大きく、壁には色とりどりのタイルが散りばめられていてとても豪華だった。
風呂椅子に座り、アサに背中を拭われながら、冬乃は自分の腹部をじっと見つめていた。へそを中心に大きな痣が黒々と染みついている。
「あの……アサさん。鏡を見たいのですが」
「またですか?」
「お願いします。どうしても……確認しておきたくて」
アサは風呂の外に出て、間もなく大きな手鏡を二つ持ってきた。一つをアサに持ってもらい、もう一つの鏡を合わせ鏡にして、冬乃は自身の背中を見た。
白い素肌に、大きな青あざや黒々とした打撲痕が飛沫のようにいくつも広がっている。ほかにも小さな傷跡が無数にあり、冬乃は青ざめた顔で口をつぐむ。
「ここにいらしたばかりの頃よりずっと薄まっておいでですよ」
アサが励ますように言ったが、冬乃の耳には入らなかった。
何度見ても同じ。この体は谷浦によって傷物にされた。
医者は確かに、痣などは一年もたてば消えると言った。だが大半の傷は薄まるのみで、半永久的に肌に残るだろうとも言っていたのだ。
冬乃はその晩、なかなか寝つけなかった。戸棚の上の舶来時計がカチカチと音を立てるのを聞きながら、何度も何度も寝返りを打った……
ふと、目が覚める。
ぼんやりとかすむ視界の向こうに、ほのかに明るい光が見えた。まばたきすると、それがベッド脇の卓上に置かれた石油洋燈だとわかった。その隣の椅子に誰かが座っている。
「――ああ。起きてしまったか」
勝市は読んでいた本から目を上げる。突然目の前に現れた勝市の姿に、冬乃の心臓が小さく飛び跳ねた。
「勝市様……」
「すまない。起こすつもりはなかったが……今日は明かりを近づけすぎたか」
(今日は?)
「もしかして、今までもこうして、わたしの眠っているあいだに……」
「そ、そんなわけないだろう今日が初めてだ」
勝市はぎこちない動きで本を閉じ、卓上へ置いた。
「そんなことより体の具合はどうだ」
「おかげさまで、とてもよくなりました」
「そうか……それならいいんだ」
会話が途切れる。互いに口をわずかに開いたまま、しかし言葉が出てこず奇妙な沈黙が続く。
ややあって、勝市が小さく咳払いした。
「冬乃。……その、記憶が戻ってよかった」
「は、はい」
「完全に、思い出したんだな」
「え、ええ、そう思いますが……」
「何を覚えてる。私のことについて」
冬乃は困ったように目を泳がせた。
「何を……といわれましても、いろいろありますから」
「たとえば」
「それこそはじめて川島のお屋敷を訪れたとき、勝市様とお顔を合わせたこととか……西瓜を一緒にいただいたこと……勝市様が何やら難しいお手紙を書かれていたこと……」
「手紙の件は思い出さなくていい」
「そうなのですか?」
冬乃はついくすっと笑ってしまった。あれは彼のかわいらしい反応が見られて、とてもいい思い出の一つなのだが。
「それから、夏の深夜……私も勝市様も眠れなくて、お屋敷の裏手で、一緒に夜空を眺めましたね。そうだわ、わたしにくださったあの万年筆……あれも夜空みたいにキラキラしていましたけれど」
「ああ……」
「わたし、きっとあの万年筆を見るたびに、あの夜のことを思い出してしまうでしょうね。それくらい綺麗な星空でしたから」
冬乃は美しい記憶の情景を思い浮かべ、うっとりと微笑んだ。
勝市は足元に目をやったまま、「他には」と、焦れったそうに問う。
「他……そう、ですね……」
冬乃の頭に一瞬、ある記憶がよぎり、じわりと頬を熱くする。
「その、記憶喪失ではなくなったとはいえ、昔のことですから、忘れてしまったこともあるやも……」
「嘘だ」
勝市は床へ視線をなげたまま、つっけんどんに言った。
「忘れているはずはない。私は当時十七だったあなたにある話をした。大事な約束をした」
「……」
「忘れたとは言わせない」
「忘れ、ては……ただ……」冬乃は申し訳なさげに顔を背けた。
「わたしは、女中です。勝市様と釣り合うはずもありません。勝市様の将来を邪魔したくありませんでした」
「将来の、邪魔……?」
「あのころ、たくさん勉強に励んでおられましたでしょう。早く一人前になって家を出たいとおっしゃられていましたもの。でも、勝市様がどんなに栄えある未来を勝ち取られても、隣にいるのがわたしでは見劣りします」
言い切ってから、冬乃はしばらく顔を上げられなかった。だがいつまでも返事がないので、こわごわと勝市のほうを見やる。
勝市は茫然と冬乃を見つめていた。信じられない言葉を聞かされたという顔で、途方にくれている。
やがて、唇をかすかに戦慄かせながら、
「本気で……そんなことを思っていたのか」
とつぶやいた。
「本気で……そう思って……それで、あいつに嫁いだというのか」
勝市のただならぬ様子に冬乃も焦る。
「何も言わず出ていったのは本当に、申し訳ありませんでした。でも、あの人に嫁いだのは、親戚の縁談を断れなかったのもあって――それに、そうしたほうが坊ちゃまのためにもなると」
「坊ちゃまというのをやめろ!」
そう一喝して、勝市ははっと口をつぐんだ。
「……すまない」
「いえ……」
勝市は前髪をぐしゃりと掻き乱しながらため息をついた。
「まあいい。すべて過去の話だ。私はこれからの話がしたい」
「……」
「あなたと私の、縁談について」
勝市は居住まいを正し、まっすぐ冬乃に向き直った。
「あなたは記憶を取り戻した。男性恐怖症についても……少なくとも、ここで私と二人きりになるのは平気なようだ」
それどころか、あの日の救出劇では冬乃が自ら勝市の手を握り、馬車の中では抱きしめることさえできたのだ。もう懸念すべきところはないだろう。
「約束では、誰も居ない場所で二人きりになれたら、あなたの口から返事を聞くことになっている」
「……」
「今、ここで……聞かせてもらえるか」
勝市ははやる気持ちを抑えきれないというように、わずかに身を乗り出して冬乃の顔をじっと見つめる。
冬乃は震える唇を開き、重々しい声で告げた。
「わたしは……そのお話をお受けできません」
勝市は何度も目をしばたたいた。
「……は?」
一瞬、聞き違えたかと思った。だが彼女の引き結ばれた唇や、つらそうに伏せられた目が、聞き間違いでないことを証明している。
「冗談だろう」
「いいえ」
「いや、……いや。冗談に決まってる。おま――あなたは、日記の最後に……」
「日記に書いたことはすべて事実です。今も想いは変わりません。けれど……わたしの気持ちと、実際の結婚は別です」
「別なことがあるものか。すべてあなたの気持ち次第だと言ったはずだ」
「そんなわけにはいきません」
冬乃は膝の上へ視線を落とし、浴衣の胸元を強く握りしめた。
「わたしはかつて、あんなふうにあなたの前から消えて……思惑があったとはいえ、あなたの気持ちを裏切りました。なのに今さら、その過去をなかったことにして、あなたの想いに甘えて結婚なんて」
「何を莫迦なことを言ってるんだ。そんなのもう関係ない。おま――あなたが、あなたなりに俺のためを思ってしたというのも、親戚の言葉にさからえない事情があったのももうわかった。謝罪なんて必要ない」
「いいえ!」
冬乃は血の気の失せた顔を上げた。
「そのせいでわたしは一度、他人のものになってしまいました。取り返しのつかないことを……傷跡がたくさん……もう、綺麗な体ではなくなって、だから……」
冬乃は泣き叫ぶような声で告げた。
「あなたに、触れられたくない……あなたを汚したくないの……!」
肌に黒々と染みついた痣。赤黒く醜い打撲痕。半永久的に消えることはない無数の傷跡……
それらすべて、勝市ではない男につけられたものだ。
結婚したら、全部見られてしまう。触れられてしまう。彼が……汚れてしまう。
勝市は暗い目で椅子に座していたが、おもむろに立ち上がると、冬乃の肩をとんと押した。
冬乃は背中からどさりとベッドに倒れ込む。その上から勝市が覆い被さってきた。
「……ふざけるなよ」
くぐもった声が頭上にひびく。薄闇の中に、彼の鋭い目だけがギラリと光って見えた。
「俺が、この十二年間何のために……ここまで上り詰めたと思ってるんだ」
「……か、勝市さ……」
「おまえが余所に嫁いだことなど最初から承知で、それでも縁談を申し込んだのは何のためだと思ってるんだ! それを今さら、取り返しがつかないだの汚れただの……」
「事実ではありませんか! わたしはあなたに相応しくな――」
「取り返しはもうついた! 俺がおまえを見つけたあの日にもうついたんだ。汚れただと……だったら俺が上からおまえを汚してやる」
冬乃の背筋にぞくりと震えが走った。それは恐怖とは違う、何か得体の知れない熱を帯びた悪寒だった。
「勘違いするな。俺はおまえが汚れたとは思っていない。でも……本気でおまえがどうしても気になって結婚できないなどと言うのなら」
勝市の手が冬乃の手首を掴み、ベッドに押しつける。その細く白い手のひらを、指の腹でやわく撫でた。
「……っ」
はくはくと唇を動かし、声にならない声をあげる冬乃をしばらく見下ろしてから、勝市はふいと体を離した。
「そういう、わけだから……莫迦なことで悩むのはやめろということでだな……」
独り言のようにつぶやき、勝市は背を向ける。
「とにかく……もう一度冷静に考えてくれ。またしばらく仕事で帰りが遅くなる日が続くが……次に会うときまでには腹を決めてほしい」
そう言い置いて扉の向こうへ消えてしまった。
冬乃はその後もベッドに倒れ込んだまま、薄暗い天井を呆然と見つめていた。やがて至近距離にいた勝市の顔を思い出し、両手で顔を覆いながら、静かに身を震わせた。




