②
町中で謎の男と接触し、気絶を味わってから数日が経った。
冬乃は邸内の掃除を終えてから、裏庭で洗濯している海子の作業に加わった。
「お洗濯日和ですわねえ、お姉さま」
海子はご機嫌で、ふんふんと鼻歌まで歌っている。冬乃もつられて微笑みながら、たらいでざぶざぶと襦袢を洗った。
十月後半ともなると、昼日中でも指先がしんみりするほど水が冷たい。だが庭に降る陽射しはまだあたたかく、背中がぽかぽかとする。
そのとき、表門のほうからりんりんと呼び鈴の音が鳴った。
「ごめんください」
男の声だ。冬乃は反射的に手をこわばらせた。
「はあい!」
海子が前掛けで手を拭きながら立ち上がる。
「ごめんなさい、海子さん」
「いいんですのよ!」
そう短く返事して、海子はとことこと表の庭へ行ってしまった。
まもなく海子は邸の茶室を通り、縁側を降りて戻ってきた。だがその顔はむむむと訝しげな様子である。
「どうしたの? 郵便屋さん……にしてはお早い訪問だったけど」
「郵便屋さんじゃありませんでしたわ。知らない殿方でした」
「え?」
「黒い、見るからに上等なお着物の方で、奥様はご在宅かと聞かれました。今日は出版社に出ているとお伝えしましたら、お手紙を渡されて。そのままお帰りになられましたわ」
この家をたずねてくるのは何も郵便配達人だけではない。出入りの業者はもちろん、ナミ江の仕事関係の人間がちょくちょくやってくる。
今回もその類いの者であれば不思議はないのだが……
「お仕事のご依頼の方かしら? でもだいたいは事前にお手紙か電報を寄越してくださるのだけれど……」
「見たところ奥様のご友人というわけでもなさそうでした。それに、私や邸のほうをじろじろと、まるで品定めでもするみたいに見られて、すごく嫌な感じでしたわ」
言いながら、海子ははっと目を見開いた。
「もしかして、目的はお姉さまでは……!」
「どうしてそうなるの?」
「だってお姉さま、このあいだ街へ出られたでしょう。そのとき、あの方がたまたまお姉さまのお姿を見かけて懸想したのだとしたら……」
「心配せずとも、上等なお着物の殿方が女中のわたしに懸想なんてなさらないわ。それにわたし、次で三十になるのだし……」
「ああもう、お姉さま! もっと危機感を持ってくださいまし」海子は焦れったそうに声を張り上げた。「年齢なんて関係ありませんわ。お姉さまはとってもお綺麗なのです、まるで美人画から抜け出たようなお姿なのです。下手をすればさらわれてしまいますわよ」
冬乃は思わず「ふふ」と肩をふるわせた。海子はたちまち頬を赤くする。
「なんですか? 何をお笑いになってらっしゃるの?」
「美人画なんて……ふふふ、絵に失礼だわ。よくて幽霊画じゃないかしら? ほら、頬も首も青白いでしょう」
「もう、知りませんわ、お姉さまの分からず屋っ」
海子はすすいでいたエプロンや肌襦袢の水気を乱暴に切り、山のような洗濯物の桶を抱えて物干しのほうへ行ってしまった。その背中を見つめながら、冬乃はふと、初めてこの邸にやってきた日のことを思い出した。
頭の傷がふさがっても記憶は喪失したままで、こんな状態で本当に雇ってもらえるのかと不安だった。そんな冬乃を真っ先に出迎えてくれたのが海子だったのだ。
『あああの、新しい女ちゅっ……女中の方ですか?』
緊張のためか盛大に舌を噛み、涙目になっていた海子の顔が思い浮かぶ。
彼女は当時まだ十三歳だった。ナミ江は家事にまったく関心がなく、家のことはすべて海子ひとりがやっていた。台所も納戸もめちゃくちゃで足の踏み場もない有様だったので、冬乃はまず家の中を整理し、不要なものを捨て、働きやすいように整えるのが一番最初の仕事になった。
初めは緊張一色だった海子の顔も、台所が見違えるほど綺麗になっていく様を見て感激に目をうるませ、
『お師匠……いえ、お姉さまと呼ばせてくださいまし!』
と冬乃の手を取り迫ってきたのだ。
そんな海子もこの四年間でずいぶんと家事がうまくなった。もう冬乃がいなくても一人でこの家を切り盛りできるのではないかと思うほどに。
彼女に厄介な心の病はない。心身壮健で年中無休、街に出て買い出しにもおつかいにも行ける。そんな彼女から未だに「お姉さま」と呼ばれているのは少し心苦しかった。
ナミ江が出版社から戻ってきたのは日の暮れかけたころだった。家に着くなり洋間のソファへどさりと腰を下ろし、「ああ、疲れた」とうんざりした調子でつぶやく。冬乃はその横で「お疲れさまでございました」と熱いお茶を淹れた。
「今度あちらの都合で締め切りを勝手に変えるようなら、契約先を他社に変えてやると強く言ってやったわ。だから安心してちょうだいね」
「奥様……」
女性の立場がまだまだ弱いこのご時世に、それほどはっきりと物申すのは大変なことだ。冬乃は深く感謝すると同時に、ひどく申し訳なくなった。
そのとき、「あの……」と海子がおずおずと封書を差し出した。
「本日、お客様がいらして、こちらのお手紙をお預かりしたのですが」
「お客様? いったいどなた?」
「それが、名乗る前に去られてしまって」
「ええ? まったくもう、いったい何かしら……」
ナミ江はお茶を一口すすり、封を開けた。見るからに上質な白い便箋が一枚だけ入っていた。
手紙を広げて目を通すうち、ナミ江の顔つきがだんだんと険しくなっていった。いったい何が書かれていたのか……冬乃も海子も自然と顔を見合わせてしまう。
「海子さん。今度その方がいらしたら、直接その場に私を呼んでくれるかしら」
「え、よろしいのですか?」
「いいのよ。そのほうが話が早いから」
ナミ江は背もたれに体を預け、お茶の残りを飲みきってから「ああおいしい」とつぶやいた。それきり手紙についてはひとことも触れることはなかった。
***
日も暮れ、辺りの邸宅に電灯が灯り出すころ。川島勝市は屋敷の書斎で文机にもたれかかり、本を開いていた。しかしその目は文を追ってはいない。そわそわと意味もなくページをめくっているだけである。
「旦那様」
ようやく部屋の戸が叩かれ、勝市ははじかれたように顔を上げた。
「入れ」
ドアが開き、黒い着物に身を包んだ男が現れる。
「邦義、北村女史はいたか。手紙は渡せたか」
「いえ、本日は出版社に出かけられていたようです。代わりに、お手紙は女中に託させていただきました」
「女中に?」勝市は無意識に声のトーンを上げた。「痩せた色白の女じゃなかったか? 線の細い、幸の薄そうな……」
「いえ、出てきたのはお下げ髪に気の強そうな若い女子でした。女中のくせに女学生のような言葉遣いでなんとも生意気な態度でしたが」
「なら違うな。冬乃じゃない」勝市の声色は元のぶっきらぼうな調子に戻った。「冬乃はもっと……匂い立つような品がある。会えばおまえにもわかるはずだ」
「……左様でございますか」
「返事が来たならばすぐに報告しろ。仕事中でも構わない」
「かしこまりました」
邦義は低頭して書斎を去っていった。勝市はふうと息を吐き、そばのソファにどさりと座り込む。
今ごろ北村ナミ江は手紙を見て、その内容に驚いていることだろう。さる企業の社長から一介の女中へ縁談が申し込まれることなど普通なら絶対にあり得ないことだ。新手の詐欺か何かかと勘違いされる可能性もある。だが、これは願ってもいない機会なのだ。逃すわけにはいかない。もう、二度と。
(冬乃……)
目を閉じる。数日前、たまたま訪れた大通りで見かけた彼女の姿を一目見たとき、かつてのねえやであるとすぐにわかった。
彼女は何も変わっていない。――いや、十二年前、最後に彼女の姿を見たときに比べて年齢は進んでいるし、肌は青白く不健康そうな、今にも消えてしまいそうな頼りない雰囲気ではあったが、その顔立ちは記憶の中の冬乃そのものだった。
だが、彼女があの冬乃であるとして、なぜこの顔を見て悲鳴を上げ、気絶したのだろうか。かつて仕えていた川島家の次男であり、よく世話をしていた相手の顔を見間違えるはずもあるまい。
(まあいい。忘れたというのなら思い出させてやる。それだけだ……)
勝市は執念深い眼差しで、暗い窓の外をじっと見つめていた。
*
数日後。勝市は書斎の椅子に座り、開いた書籍を見ては落ち着かなげに目をそらし、また見るのを意味もなく繰り返していた。
静かな書斎に、コンコンと扉を叩く音が響く。
「旦那さ」「入れ」
邦義が入ってくる。まだ扉を閉め切らぬうちに勝市はたずねた。
「返事は。北村女史から返事はきたか」
「はい」
邦義から一通の封書を手渡される。勝市は早々に封を開け、中の便箋を広げた。
一瞬で目を通した勝市は、しばし言葉を失った。
「いかがされましたか」
「何の冗談だ、これは……」
勝市が便箋を机上に放ったので、邦義も手に取り目を通した。
「……断られていますね」
「なぜだ。俺からの縁談だぞ」
「はい」
「冬乃は一度結婚したが、とっくに離縁したことは調査済みだ。歳も歳だし主人としても渡りに船と思わないのか」
「それはなんとも……」
「冬乃自身が断ったのか? 北村女史の独断じゃないのか」
「そこまでは……」
「もう一度いってこい。手紙ならすぐに書く」
「私が説得してどうなるものとは思えませんが」
「いいから行ってこい」
「……」
邦義は思い切り不審そうな目を向けつつ、不承不承、「はい」とうなずいた。
勝市はすぐに便箋と万年筆を取り出し、文机の上で縁談の申し入れを書き出した。気づかぬあいだに指先が力み、インクが黒々とにじむ。苛立ちまぎれに引き出しを開け、別の便箋を取り出す。
「旦那様」
「なんだ」
「恐れながら申しますが、女中との結婚などおやめになったほうがよろしいかと」
勝市の手がぴたりと止まった。
「なぜそんなことを」
「企業経営者が女中と結婚など前代未聞だからです」邦義は淡々と語った。「世間に醜聞として捉えられ、社長の品位が落ちます。会社経営にも支障が出る恐れがありますし、何よりこのような身の丈に合わぬ縁談、相手も萎縮しているでしょう。だから断られたのではありませんか」
「醜聞だと? 会社経営に支障が? そんなことで騒ぎ立てるような奴等など客じゃない。会社の品位は俺が決める」
「旦那様……」
邦義はほとほと呆れたような顔で天を仰ぐ。しかしその態度さえ、勝市にはまったくの逆効果であった。
「もういい。明日の夕方、車を出してくれ。俺が直接、北村邸へ向かう」
邦義は口を開きかけ、慌てて「正気ですか」の言葉を呑み込んだ。
こうなった勝市は誰も止められない。それはここ数年、秘書兼付き人として仕え続けた邦義も、共に働いてきた社員たちも嫌というほどわかりきっていることだった。




