③
「思い、だした……」
畳の上で、冬乃の唇から声が漏れる。それはすぐに嗚咽となって、涙が畳に生温かい染みを広げていった。
あのころから、勝市様は変わっていなかった。
彼の想っている「冬乃」はわたし自身だった。黙って出て行った女のことを彼は今も昔も変わらず想い続けていて、再会してすぐ縁談を申し込んでくれたのだ。
それなのに、すべて忘れて、男が怖いと言って……いったいどれほど彼を傷つけてしまっただろう。
謝りたい。
帰って、もう一度、彼に会って。今までのすべてを詫びたい。今までひた隠しにしてきたこの想いを伝えたい……そうでなければ自分は、死んでも死にきれない。
冷えきった手のひらをぎゅっと固く握りしめる。爪の先が手のひらに食い込み、じんじんと鈍い痛みが灯る。
自分はまだ、生きている。どんなに暴力を振るおうと、谷浦は自分を殺せやしない。そんな度胸のある人間じゃないことは、結婚していた約八年のあいだでよく知っている。
冬乃は音を立てぬよう身を起こし、土間に降り立った。冬乃の足の動きに引っ張られ、縄もずるずると動き出す。それが畳の上にひっくり返る谷浦に当たらぬよう気をつけつつ、慎重に、台所の小窓を開いた。
月明かりを頼りに台所へ立てかけている包丁を手に取る。足首から伸びている縄にその刃を当て、勢いよく前後に動かす。
包丁はろくに手入れされておらず刃こぼれしているが、縄は土埃にまみれていていかにも古くさいし、数分もあれば切り離せるだろうと思っていた。ところが、縄は粗い表面だけがぱらぱらと削り落とされるのみで、刃はまったく進まない。まるで岩のように硬く、頑丈だった。
あきらめ悪く、きしきしと包丁を動かしていた冬乃はふと思い至る。谷浦は今、土木工事の日雇いだ。この縄は現場で不要になった物をくすねてきたのに違いない。つまり、これは普通の縄じゃない……
(だめ、まだ、あきらめては)
何かほかに、この縄を外す方法がないか。あきらめずに探さなければ。
それから幾日が経っただろう。
谷浦に殴られるたび、勝市や海子、ナミ江の顔を思い出してはどうにか気を失わないよう必死に耐えていた。
谷浦の機嫌を取り、酒を飲ませ、畳にひっくり返って眠るのを待ってから、土間に降りて包丁で縄を切りにかかる。あるいは、結び目に爪を立ててどうにかほぐそうとする。
(お願い、お願い、どうか、ほどけて……)
祈るような気持ちで指に力をこめる。
(勝市様に会いたいの。わたし、伝えたいことがたくさんあるの。昔のことも、今のことも、全部……全部……!)
「冬乃ォ……」
その瞬間、冬乃ははじかれたように振り返った。月明かりに照らされ、谷浦の巨体が暗闇の中にゆらりと浮かび上がっていた。
「おまえ、何やってる」
「……っ」
反射的にあとずさり、手のひらが包丁に触れてカランと乾いた音を立てる。
谷浦は濁った目を、包丁と、土間に横座りになっている冬乃の足首へ向けた。
「このあいだからよォ、夜中に妙な音がするなァとは思ってたんだがよ。それで今日は寝たふりしたんだよ、おまえが妙に酒を勧めてくるのもおかしいと思ったんだ……」
一気に血の気が引いていく。谷浦はゆっくりと畳を踏みしめ、土間に降り立った。
「おまえ、俺が酒を飲むの、昔から嫌がってたくせによォ。妙だと思ってたら……脱走しようとしてたのか」
谷浦は落ちくぼんだ目をカッと見開いた。
「ふざけんな! おまえは俺の奴隷だろうがッ! 俺に養われておきながら勝手に怪我して、高え治療費を払わされそうになってよォ! 離縁してやったらその後なにも言わず消えやがって! てめえだけデカい屋敷で豪華にぬくぬく暮らしやがって! 俺は母親を失って一人で苦しんでたってのによォ! その責任を取るべきだろうが! おまえは! 俺に養われた金を返さなきゃいけねえし、逃げた償いをしなきゃなんねえだろうが! それなのにまた逃げようとしてんじゃねえぞ!」
頬が思いきり張り飛ばされ、冬乃は後ろの竈へ倒れ込んだ。
「……ちがう」
気づけば、口から言葉が衝いてでていた。
「わたしは、あなたの奴隷じゃない」
「はァ? おまえまだ自分の立場がわかってねえのか」
「わたしはあなたに養われた覚えはない! あなたが失職したときは川島家からもらった箪笥を質に入れたし、呉服屋や小間物屋で仕事を見つけて毎日掛け持ちして働いた……あなたは自分で稼いだお金をほとんどお酒に費やすから、わたしのお給金がなければ一家は飢え死にしていた! そんなことも忘れたの?」
「お、おま、な、何言ってんだ……っ」
「事実じゃない! わたしはあなたに返すべきものなんか何もない。もう妻でもない、赤の他人よ……この縄をほどいて、わたしを解放して!」
谷浦は、信じられないものを見る眼で冬乃を見下ろしていた。口をぱくぱくとさせてはいるが何も言葉を発さず、棒のように突っ立っている。
冬乃は素早く包丁を手に取り、足首から伸びる縄に向かって思い切り刃を振り下ろした。ガン、ガン、ガン、と鈍い音が響き渡る。
幾度も幾度も同じ箇所に刃を擦られ続けた縄は、しだいに変色し、削られた部分の奥が見え始めていた。冬乃はそこへ容赦なく包丁を叩きつける。
だが、ハッと我に返った谷浦が冬乃の手を蹴りつけた。包丁がふっとび、土間の隅の壁に当たって落ちる。
「ふざけんな……ふざけんなよォ!」
冬乃に覆い被さる勢いで両肩を掴み、強くゆさぶった。
「俺を馬鹿にしやがって……! く、クビになったのは俺のせいじゃない……! 俺ぁ何も悪くねえのにみんなして俺を無能だのなんだのバカにして、上もそれを鵜呑みにして、不景気だって言い訳して一方的に俺を追い出しやがった! なのにみんな俺を笑い者にしやがって、ふざけんなよおおお!」
クソ、クソ、クソ、とわめきながら、谷浦は冬乃につかみかかった。冬乃は悲鳴を上げて身を捩ったが、谷浦のごつい両手を真っ向からふりほどけるほどの力はない。
「おまえまで俺を馬鹿にするのか! お、女のくせに! おまえは黙って俺のいいなりになってりゃいいんだ、俺の奴隷なんだ、俺の慰み者になってりゃいいんだよォォ!」
「やめて! さわらないで! わたしは奴隷じゃない……! さわらないで!」
滲む視界に、ぼんやりと勝市の顔が浮かぶ。
ああ、もう、駄目かもしれない。もう彼に顔向けできない……
泣いてはいけない、泣いてはいけない……呪いのように繰り返す意識の中で、冬乃は絶望に顔をゆがめた。
その瞬間、ガラリと扉の開く音がした。直後、ドスッという鈍い音と共に谷浦の体が土間の床に倒れこむ。
冬乃は、ゆっくりと顔を上げた。
眼前に、黒い外套を羽織った長身の人影が立っている。窓の外はいつしか白み始めていて、彼が振り下ろした拳を不愉快そうに手でさすっているのがぼんやりと見えた。
滲んで揺れる視界の中でも、その特徴的な立ち姿で正体がわかってしまう。けれど。そんなわけはない。ここに、彼がいるはずない。
これは、現実逃避の見せる幻なのだろうか。
やがて彼が、扉の脇から提灯を拾い上げ、その光の輪を床へ投げかける。
谷浦は赤く腫れた頬をさすりながら身を起こした。
「だ、だれだ、てめェ……!」
だが谷浦には目もくれず、彼は明かりの中に冬乃の姿を認めると、その眼前にしゃがみこんだ。
「冬乃……!」
彼が両腕を広げ、だが、思い直したようにその手をおろし、着ていた外套を脱いで冬乃に着せた。
「遅くなってすまなかった。本当に。つらい思いをさせてしまった……」
「か、勝市様……?」
振り絞った声はひどくかすれていた。だが、勝市はひどく優しい声で「ああ」と答えた。
「迎えにきたんだ、冬乃」
「ふ、ふざけんな、どこの誰がなんの権限でそいつを迎えにきたってんだ!」
谷浦の怒声に、勝市は冬乃をかばうように立ちふさがると、
「私は冬乃の婚約者だ」
と凜とした声で告げた。
「こ、婚約者……?」
谷浦は困惑した顔で冬乃のほうを見る。
「おい、そんな話聞いてねえぞ」
「おまえには知るよしもないだろう。おまえはもう離縁しているのだから」
「当然だ! そいつは俺の嫁のくせに勝手に怪我して入院して、金がかかるから離縁してやったんだ。だが勝手に退院して逃げやがった。俺に養われていた恩も忘れて!」
「だからわざわざ追いかけて、攫ったと? 立派な誘拐罪だな」
「や、養ってやった分、タダ働きさせるためだ! 俺の奴隷でいることでそいつはようやく償えるんだよ! 賠償金代わりだ、それが終わるまでここから出す気はねェ!」
「賠償金……」勝市は家の中のあちこちを照らしだし、土間の隅や畳に転がっている酒瓶に眉をひそめた。
「結局、金か。金が欲しいだけの豚野郎か」
「な、なんだとこの……ッ!」
谷浦は顔を真っ赤にして飛び起き、勝市に向かって拳を振り上げた。
「黙って聞いてりゃ何様のつもりだ!」
だがその瞬間、勝市は懐に手を入れ、中のものを素早く頭上へ放り投げた。
いくつもの一円札が紙吹雪のようにばらばらと宙を舞い落ちていく。谷浦の目はその一枚一枚に釘付けになった。
「か、金……!」
谷浦は地べたに這いつくばり、札を一枚も逃すまいとかき集める。勝市はそれを冷めた目で一瞥し、隅に落ちていた包丁を拾い上げると、冬乃の傍へしゃがみこみ、足首の縄のもろくなった箇所へ刃を突き立てた。
二、三度、縄はかろうじて抵抗を見せたが、ようやくぶつんと切り離された。
勝市はもう一度ちらりと谷浦を見やる。彼は飢えた犬のように部屋中を這い回り、拾い損ねた札はないか嗅ぎ回っていた。ふん、と鼻で笑い、勝市は立ち上がる。
「帰ろう。冬乃」
冬乃は立ち上がろうとしたが、足がわななくばかりで力が入らない。勝市の外套を胸元でかき合わせ、懸命にふんばろうとするが、顔も足も真っ青で血の気がなかった。
「ご、ごめ……なさ……わた、し……どうして」
勝市は手を伸ばし、冬乃に触れようとして、はっと手を止める。冬乃の男性恐怖症を思い出し、伸ばしかけた手を迷うように彷徨わせた。
だが、冬乃の白く細い手が、ゆっくりと勝市の手にむかって伸びてくる。冷たい指先で彼の手をつかんだ。
「勝市様……」
血の気の失せた唇を震わせながら。
「わたしを……連れて帰って……」
勝市は大きく目を見開いた。
川島様、ではない。彼女は下の名を呼んでいる。
そして自ら、この手をつかみ……もう一方の手を懸命に差し伸ばしてくる。
勝市はその手をしっかりと握りしめた。
そのとき、家屋の外でどやどやと複数の足音がして、開けっ放しになっていた入り口からどっと警官が雪崩れ込んできた。
「谷浦浩児! 婦女子誘拐の現行犯で逮捕する!」
「やめろッ! おい、金が、金を踏むな! 俺の金だ、俺の金なんだぞおおお!」
谷浦の醜悪な悲鳴が轟く中、勝市は冬乃を横抱きにして家を出て行った。
外で待機していた警官のひとりに、
「手はず通り、彼女は一旦私の屋敷で保護します。事情聴取は彼女の精神状態が安定してからでよろしいですね」
と確認し、警官がうなずいたので、勝市は待たせていた馬車に、冬乃共々乗り込んだ。
御者が手綱を引き、馬車が走り出す。
冬乃はまだ、雨に濡れた猫のように震えて勝市の体にすがっていた。勝市は冬乃の肩を撫でようと手を伸ばし、だが思い直して膝に手を置くのを繰り返していた。
「冬乃……」
勝市の胸に顔をうずめる彼女の耳元で、勝市はそっとささやいた。
「もしかして……記憶が戻ったのか?」
冬乃が小さくうなずく。勝市は息を呑み、「そ、そうか」とそっぽを向いた。
だがすぐにまた、冬乃のつむじを見下ろす。
「じゃあ、俺のことも……」
冬乃はまた、こくりとうなずく。
「俺のことは、もう……怖くないのか」
「……はい」
勝市の心臓は爆発しそうなほど高鳴っていた。
急いてはだめだとわかっているのに、彼女はさきほどまで谷浦への恐怖に脅かされていたというのに、手が勝手に冬乃の肩に触れてしまう。冬乃はぴくりと小さく身を震わせた。
「顔を……見せてくれないか」
冬乃は無言で首を横に振った。
「駄目なのか」
「……とても、見せられません」
「俺はどんな顔でも見たい」
「いけません……わたし……わたし……」
そのとき、勝市はスーツの胸元が濡れているのに気づいた。
「泣いているから?」
「……」
「おまえはいつもそうだった。人前で決して泣こうとしなかった……でも、俺は言ったはずだ。『俺の前でなら泣いていい』と。泣けるようにしてやると……そう伝えたはずだ」
冬乃の頬に優しく手を添える。冬乃は勝市の手にうながされるように、おずおずと顔を上げた。その潤んで揺れる瞳と、涙にぬれる頬を見た瞬間、勝市の胸の奥に、ずきりと甘い痛みが走った。
その衝動に突き動かされるように、冬乃の細い肩を抱きしめる。
冬乃はやがて小さく嗚咽を漏らした。勝市の腕に包み込まれながら、これまで押し隠していたすべての感情を流し出すように。




