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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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26/33

 勝市の実家である川島家は、汽車で三駅ほど行った海辺の町にある。賑わいから少し外れた小高い場所に建つ古屋敷だ。


 門に着くと、箒で掃いていた年配の女中が「んまあ、勝市坊ちゃま!」と目を丸くした。長年女中頭を務めていたカネという女だ。


「お帰りなさいませ。さ、どうぞどうぞ客間へ……」


 勝市は黙ってうなずくと、玄関を上がる。


 年季の入った廊下の柱、透かし彫りの欄間、磨き抜かれた床の黒光り……家中から懐かしい匂いがする。だが、そのすべてがよそよそしい。まるで余所者を値踏みするかのような居心地の悪さだ。


(当然だ。俺は親に何も言わず家を出た。元より、家族とも思われていなかっただろう)


 今日、ここへ来たのは昔を懐かしむためでも、家族とのわだかまりを解くためでもない。


 畳敷きの客間にはすでに父母がそろっていた。こうして見ると記憶の中の姿よりずいぶんと老けている。


「ただいま、帰りました」


 声を振り絞り、さっと低頭する。父は着物の袖に手を入れたまま、「ああ」と返した。母は「よく帰りましたね」と言ったが、表情が硬い。


 空気が重たかった。開け放たれた障子の向こうにのどかな庭が見え、部屋の中がいっそうどんよりして見える。


「父上」「相談事か」


 勝市と父が同時に口火を切り、互いに目をしばたたかせて黙り込んだ。


「はい。ええ……相談事です」

「おまえの会社のことか」

「いえ、違います」

「そうか」


「会社……ずいぶん立派にやっているようね」


 母が割り込んできた。


「あなたがいつの間にか社長になっていて、私びっくりしたのよ。それも製鉄業なんて……新聞で何度も広告を見たわ、百貨店でもあなたのところの品をたくさん……」

「それほどでもありません」

「きっと学校に通いながら、自力で活路を開いていたのね。並大抵のことではないわ」

「運がよかっただけです。自力で学ぶだけでは限界がありますから」


 母は気まずそうに押し黙ってしまった。いったいなんなんだ……川島家も製鉄業に手を広げようとしていて、敵対企業の三ツ木の内情を探ろうとでもしているのだろうか……と勝市は勘ぐる。


「今日こちらへ参った目的は二つあります。一つは、昔こちらで奉公していた冬乃の嫁ぎ先の場所を教えていただくことで――」

「冬乃?」


 今度は父が反応した。父母で顔を見合わせ、「冬乃か……」と父が視線を落とす。


「おまえ、よく懐いてたんだってな」

「それはもう、べったりだったとカネが」

「そ、そんなことは……! なんですその出鱈目は……」

「嫁ぎ先ならすぐにわかるわ。祝言のお祝いに箪笥を贈ったから、住所録にあるはず」

「なら、それを見せてください」

「どうして……?」


 勝市は、言おうか言うまいか迷った。


 できれば、今回の誘拐事件にあまり実家を巻き込みたくない。正直に事情を話して、父母が川島の伝手を使えばたちどころに解決するかもしれないが、それだけはどうしても嫌だった。


 なんでもいいでしょう……そう言いかけたところで、勝市はハッとした。


 ――違う。何をやっているんだ。もはやそんなことを言っている場合か。


 冬乃は不当に連れ去られたのだ。攫われた先でいい目に遭っているとは思えない。一刻も早く彼女の無事を確かめるべきではないのか。


「実は、私と冬乃は、先月再会しまして」


 勝市は、父母に冬乃との再会にまつわるすべてを話した。彼女の病状、記憶喪失、自分が彼女の病の治療に協力していたこと……そして、このたびの誘拐事件について。


 話を聞くうち、母は両手で口元を覆い、父は何やらバツの悪そうな顔になった。


「……そういうわけで、私と北村女史とで冬乃は元夫と一緒にいる可能性が高いという結論に達しました。お二人が元夫の住所をご存知でしたら……とこちらへ伺った次第です」


「冬乃が、そんなことに」


 母は青ざめ、父と顔を見合わせる。そして、「実はね……」と震える声で続けた。


「冬乃が大怪我を負ったとき、うちが病院の費用をお支払いしたのよ」

「えっ……」勝市は目を見張った。「では、お二人は冬乃の怪我の件も、離縁されたこともご存知だったのですか」


「そうよ。報せを聞いて驚いたわ。あの子、天涯孤独の身だったでしょう。病院に運び込まれて緊急手術をされたはいいものの、施術代を請求した途端、あの子の夫は離縁を言い渡して逃げたの。次に彼女の親戚へ連絡したけどみんな知らぬ存ぜぬで突き放したそうよ。それで……最後にうちへ連絡が来たの。だから費用はすべてお支払いしたわ」


「……」


「彼女が記憶喪失なのを幸いに、退院後の勤め先がないと困るだろうと、私の伝手を使って北村さんのところへ彼女を紹介したの。冬乃は病院の治療費を北村さんが払ったと思って、お給金の一部を彼女に支払って返しているつもりだけれど、そのお金は少しずつ私のところへ戻ってきているのよ。もちろん、私は返してもらわなくたって構わなかったけれど、いずれ記憶が戻ったとき、誰かに借りを作りっぱなしだったと気づいたらきっとあの子は嫌がるだろうと思って」


 確かに冬乃なら、治療費を肩代わりされたままだと知ったら嫌がるだろうことは勝市も想像がつく。母が意外にも冬乃のことを理解しているのに驚かされる。


「あの子は……冬乃のことはよく覚えているわ。本当によく気のつく良い子だったから。誰もあなたに構ってあげられなくて可哀想なことをしたけれど、冬乃があなたを気に掛けてくれたから安心していたの。本当に……」


 はらり、と母の着物の胸元に涙が光って落ちた。次から次へはらはらと落ちて、母はハンケチを取り出して目元を拭う。


「ごめんなさい、勝市……私たち、あなたに何もできなかったわ」

「申し訳ないことをしたと思っている。だがあの頃は他にどうしようもなかったんだ」


 うなだれ、肩を落とし、勝市へ心から詫びるふたりの姿に、勝市はひたすら狼狽えていた。


「何を……言ってるんです。俺――私はただ、冬乃の行方の手がかりを探りにきただけで」

「まだ子どものおまえに話して不安にさせてはいけないと、誰も何も言わなかったが。我が家は一時期かなり混乱していたんだ」


 聞いてもいないのに、父がつらつらと語りはじめた。


「うちは川島の本家だが。分家があるのを知っているな」

「ええ、まあ」

「その当主の手がけた事業が急成長して、ウチの会社を買収すると言い出してな……要するに、分家が本家を食おうとしたんだ。それだけは阻止しようと、私は当時奔走していた……」

「……兄を連れて、ですか」

「そうだ。後継ぎだからな」


 家の、家業の一大事に、自分は巻き込んでもらえなかったのか。後継ぎというだけで、兄は問答無用で父に首を突っ込まされていたのに。


「私も、親戚や社長夫人仲間をとにかく味方につけようと、毎日のように茶会やサロンにたくさん出向いていたの……もう、家を傾かせないようにと必死で……」


 さめざめと泣く母と、背中を丸める父を見下ろしながら、勝市は自分の胸に長年くすぶり続けていた小さな怒りの灯火に風を吹かせ燃え上がらせようとした。


 何が「必死で」だ、「奔走していた」だ、そんなのは言い訳にすぎない。自分はこの家で透明な空気のようだった。自分の姿を認識していたのは冬乃だけだった。


 今さら謝られたところで赦せるようなものではない。今こそ積年の思いをぶちまけるときだ。そう思い、口を開き……だが、勝市はぎゅっと唇を閉じた。


(ちがう)


 そんなことをして……果たして何になろう?


 二人の言葉が嘘かどうか、自分にはわからない。どちらにせよ、自分は彼らの手を借りずに独立した。あの死にものぐるいで勉学に励んだ時間は、この家で空気になっていたからこそ得られたものでもある。


 そして今、それらすべてを、冬乃に捧げることができる。


 ならばこの怒りは、もう不要なものだ。


「大変だったのですね。家を守ってくださりありがとうございます」


 部屋にうずまいていたどんよりとした空気を打ち払うように、朗々と勝市は告げた。


「私はひたすら学びに打ち込める環境を与えてくださったお二人に感謝しています。おかげさまで独り立ちできました」

「勝市……」


 母が感涙にむせぶ。だがこれ以上、この話題に時間を割きたくはない。


「至急、冬乃の居場所を教えてください。不当に連れ去られたのであれば助け出さねばなりません」

「そうまでして冬乃を助けて、どうするんだ。確かにおまえは冬乃に懐いていたが、それももうずいぶんと前の話で」

「冬乃を妻に迎えるためです」


 父母は同時に目を見開き、互いに顔を見合わせる。厳しく頭の高い両親のこんな戸惑い顔を見るのは初めてのことだった。


「……そうか」

「元女中だから駄目だという意見は必要ありません」

「いや、何も言うまいよ。私たちはおまえに何もしてやれなかった。結婚相手に口を出す資格はない」

「それに、冬乃は良い子だわ。あの子……嫁いでいく日、私に言ったの。『勝市様とどうかお話してください』と」

「……え」

「だからね、私、家のことが落ち着いてから何度かあなたと話そうと部屋を訊ねたわ。けれど、『勉強中につき立ち入り厳禁』という札が常に扉に貼られていたし、食事も部屋で取っているから顔を合わせられなくて」


 そういえば……と勝市は今更ながらに思い出す。何度か、部屋の前をうろうろする足音を聞いたり、階段で母と一日に何度もすれ違うことがあった気がするが、あれはそういうことだったのか。


「冬乃はきっと、うちの家の事情を察していて、あなたのことを一番に考えていたんだわ。だから私……あなたがあの子を望むのに反対なんてしない。他の誰かが何か言ってくるようなら、黙らせてあげるから言いなさい」

「ありがとうございます」


 親の手を借りるつもりなどない。自分で黙らせられる自信がある。だが、実家の後ろ盾というものは、なんと心強いことだろう。


 母は住所録を取ってきて、その中に書かれていた住所を紙に書き、小さく切り取って手渡してくれた。


「ここよ。引っ越したりしていなければ。……お相手は谷浦浩児という方で、職工をしていたはず」

「谷浦、浩児……」

「お気をつけなさいね。この辺り……まだ未開発で、その……治安があまり良くないところだから」


 母が顔を曇らせる。さしずめ、祝いの箪笥を贈った際に使用人から愚痴でも言われたのだろう。


「……なるほど。承知しました」


 勝市は立ち上がり、深々と頭を下げた。


「本日はお忙しい中、ご協力くださりありがとうございました」

「勝市」


 最後に、父がこちらを見上げた。


「三ツ木製鉄の社長就任、おめでとう。もしおまえが許してくれるなら、これからでも祝わせてくれ」


 勝市は帽子を目深にかぶり、目を伏せた。


「いえ。それには及びません」


 自分が今、社長の椅子に座っていられるのは、前社長と、残ってくれた社員たちの意志に支えられているからだ。


 決して誰かに祝われるようなことではない。自分はおそらく、この椅子を降りるまで、邦義や社員たちに生涯見張られていることだろう。


 それでいい。

 それこそが俺の人生だから。


 勝市は川島の門を出た。地図を開き、母から手渡された住所と照らし合わせる。


 谷浦浩児という男の住まいは、ここからさらに汽車で北へのぼった先にある地域だった。真っ白で何も書かれていない。開発の進んでいない貧しい地域であることは確かなのだろう。


 勝市は急ぎ、近くの郵便局へ向かった。


 警察を頼れない以上、相応の準備をしていかなければ。先に邦義へ連絡を取り、今後の指示をしておこう。……

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