②
七歳の夏。冬乃という女中が新しく川島家にやってきた。
きけばまだ十一歳で、尋常小学校を卒業してもいない。義務教育なのに途中で辞める仲間たちを勝市は何人か見ていた。いずれも家が貧しく、或いは親に不幸があり、働きに出なければならない気の毒な事情があるようだった。
冬乃もきっとそんな類いだろうと思っていたら、ある日女中たちの噂話を耳にしてしまった。
「あの子、孤児だってね」
「聞いた聞いた、親戚のとこでたらい回しになってたんだろ」
「どうりでなんだか気持ち悪いわけだわ、あたしらの顔色伺ってばっかりで、ずっと媚びてくるんだもの」
「ね、やけに大人びてて変よねえ、子どもらしくないったら」
女中たちはやかましい。父母や兄がいるときは静かにおとなしくしているのだが、父が兄を連れて会社へ行き、母も社長夫人たちのサロンへ出かけてしまうと、勝市のことなどまるで見えないかのように不愉快な話題を響かせる。おかげで勝市は尋常小から帰ると逃げるように二階の自室へ引きこもっていた。
小さい頃はもっと広い部屋に兄と二人で寝ていたのに、途中から勝市だけ部屋を追い出され、かつて物置きだった部屋を宛がわれた。まるで女中部屋だ。文机と布団と小さな戸棚を置くので精いっぱいだった。
兄の勝成は跡取りだから、誰よりもたくさん勉強しなければならない。弟が同室だと邪魔になる……その理屈はわかる。
だからこうして、この狭い部屋におとなしく籠もっているのだ。学校の課題をやって……そのあとは何もせず、ただぼうっと窓から庭を見下ろしている。
ふと、庭を箒で掃いている少女の姿を見つけた。あれは冬乃ではないか。襷に前掛けをして、家の回りを掃き、縁の下にも這いつくばって箒をつっこみ、小柄な体を精いっぱいに動かしている。遠目にもわかるほど丁寧な働きぶりだった。
「冬乃! あんたいつまでそんなとこ掃いてんの? 洗濯物してきな、待たせるんじゃないよ!」
品のない怒鳴り声が響き、冬乃が慌てて立ち上がる。自分を叱りとばした女中に頭を下げ、ちり取りでゴミを集めはじめた。
ふわりと、春の陽気を含んだ風が吹き流れ、勝市の前髪を揺らした。その風はやがて冬乃にも届き、彼女の、肩の上で切りそろえたまっすぐな黒髪を揺らした。
ふと、冬乃が顔を上げる。
その、涼しげなまなざしと、視線が合った。
勝市は、まるでその場に縫い止められたように、ぴくりとも動くことができなかった。
冬乃が小さく小首をかしげる。その口もとが少し、笑った気がした。と思ったら、彼女はぺこりと頭を下げた。
気づけば勝市は頭を窓の下に引っ込めていた。全速力で走ったときのように胸がばくばくと脈打っている。得体の知れない感情と体の反応に、勝市は大いに戸惑っていた。
冬乃の顔が、そのときからたびたび頭をちらつくようになった。
六月に入ったある日の午後。冬乃が突然、部屋の戸を叩いた。
「坊ちゃま……冬乃でございます」
そのささやくような声音に、思わず心臓が跳ねる。
「な、なんだ」
「お差し入れでございます」
「差し入れ? 誰からだ」
「……奥様からです」
瞬間、嘘だとわかった。
母が勝市にわざわざ何かを差し入れてくれることなど、兄と同室だったころ以来ないことだ。
だがなぜ、彼女はわざわざそんな嘘をつくのだろう。
「坊ちゃま? よろしいでしょうか?」
「……ああ」
失礼します、と冬乃が戸を開ける。膝をつき、丁寧に礼をしたあと、脇に置いていた盆をすっと部屋の中へ差し入れた。
「どうぞ。冷えた西瓜でございます」
「……え」
見れば、盆の上には皿に盛られた立派な西瓜の一片が載せられていた。窓から差し込む夏の陽射しを受けて、真っ赤な果肉が甘い輝きを帯びている。
「どうぞ、お召し上がりください」
「……待て」
戸を閉めようとした冬乃を引き留める。その声は無意識に低くくぐもっていた。
「これは、なんだ」
「ですから、こちらは――」
「母さんが俺にこんなものを寄越すわけがない。嘘をつくな!」
風の音も、家なりも、窓の外から聞こえる小鳥の声も、すべてがぴたりと止んだ。
冬乃が驚いたように目を見開く。その顔からはいつもたたえている微笑みが消えていた。
「申し訳ありません」
血の気の無い顔で冬乃が三つ指をつく。
「なんでこんなことをした。これはいったいなんなんだ」
「こちらは、女中頭のカネさんが、実家から送られてきた西瓜を分けてくださったものです」
「じゃあこれは、その余りというわけか」
言ってから、勝市は気づいた。
「ちがうな。余るわけがない。父さんと母さん、兄へ真っ先に行き渡ったはずだ。そして残りはおまえたち女中で分けた……つまり、これはおまえの分だ」
腹の底から黒いものがむかむかと込み上げてくる。それを吐き出すように勝市は怒鳴った。
「俺がかわいそうだと思って持ってきたのか!」
「違います」
「じゃあなんなんだ!」
「だって、坊ちゃまに無いのはおかしいことでございますから」
そのとき、冬乃の瞳が一瞬、真っ黒く翳ったように見えた。だがその目はすぐに伏せられ、長い睫毛に隠されてしまう。その表情から、勝市はさらなる真相に思い至った。
冬乃もまた、女中たちにいびられている。女中頭から西瓜など分け与えられるはずもない。
だがきっと、皿に切り分けるなどの準備だけはやらされただろう。あの女中たちならそういういびり方をしてもおかしくはない。
そして冬乃はそれを利用し、こっそりと西瓜を余分に切り分けた……
わざわざ、勝市のために。
だが、母親からの差し入れなどという口上はやりすぎだ。憐れまれたという事実が気に入らない。
「……それなら、初めからそう言え。くだらない嘘をついてまで俺に気を遣うな」
「はい。心得ました」
冬乃が再び床に伏し、そのまま戸を閉めようとする。
「待て」
冬乃が顔を上げる。勝市は空いた畳の上を指し示した。
「おまえも食え」
「え……ですが……」
「いいから食え。俺は女から一方的に食い物を恵まれる趣味はない」
冬乃の唇が、ぽかんと小さく隙間を空ける。その間の抜けた顔を見るとなんだか胸がすく心地がして、先ほどのムカムカした感情も消え去っていた。
そう。今思えば冬乃は、屋敷に来て早々、勝市の微妙な立場を見抜いていたのだろう。そしてお節介にも心配していたに違いない。本当にお節介だ。
自分こそ親を失い、周りの女中からいびられて、人に気を遣う余裕なんてなかったはずなのに。彼女はいつも自分を見てくれていた。
それからは日を追うごとに屋敷内で目が合う回数が増えた。目が合うたび、彼女が微笑みかけてくれるようになった。すると心臓が妙な痛みを感じたり、夏でもないのに暑くなったりしておかしくなるので、勝市はつい目をそらしてしまっていた。
だがなぜだか、気づけば彼女を目で追ってしまう。窓から庭を見下ろし、彼女が洗濯していたり、掃除をしているところを飽きもせず眺めてしまう。
冬乃はいつも女中たちに叱責されていた。別に叱責されるようなことは何もしていないはずなのに。だが彼女は決して泣かなかった。普通の子どもならわんわん泣くほど理不尽な目に遭っていても、口元にはいつも微笑が浮かんでいた。
冬乃は、女なのに強い。四つも年上だからだろうか。女でも歳を重ねると泣かなくなるのだろうか。勝市は冬乃を少し尊敬した。
ところが、ある晩――
勝市は夜中にもよおしてしまい、目が覚めた。蚊帳をめくって部屋を出て、階段を降りる。古い造りの家だから、厠は暗い廊下を渡った突き当たりにあり、少し遠い。
やっとの思いで用を足し、廊下へ出ながら何気なく窓の外を見た。窓から小さな倉が見える。その裏の影に、何かがうずくまっているような気がして、勝市は二、三度まばたきした。
その日、夜空は雲ひとつなく、夏の月が煌々と宵闇を照らし出していた。その光から隠れるように、誰かが納戸の影にひそんでいる。よくよく目をこらすと、浴衣を着た小さな背中が見えた。冬乃だ、とすぐにわかった。
こんな時間に、そんな場所でいったい何をしているのか……声をかけようと窓に顔を近づけたとき、夜風にのって、小さくすすり泣く声が耳に届いた。
冬乃の肩が、小刻みに震えている。
――泣いている。あの冬乃が。
衝撃のあまり、勝市はその場から一歩も動けなかった。呆然と突っ立って、倉の影で泣く冬乃の姿をその目に焼き付けることしかできなかった。
彼女は、強いんじゃない。
こんなに泣くほどの強い感情を、あの微笑の裏に押し隠していたのだ。
だが、どうして隠すのだろう。女と子どもは泣いても許される存在だ。理不尽に叱責されたらわんわん大泣きして困らせてやればいいのだ。それを俺の目の前でやってくれたら、俺が連中を堂々と叱ってやれるのに……
翌日、冬乃は昨晩泣いていたことなど嘘のようにけろりとして、懸命に働いていた。勝市を見ると嬉しそうにはにかんで、人の心臓をおかしくさせる。
彼女を見ているとたまらなくなって、周りに誰もいないときは、つい話しかけてしまうようになった。
といっても些細なもので、「困っていることはないか」「嫌なことはないか」と訊ねるだけのごく短い声かけだ。ただそれだけなのに、冬乃は嬉しそうに「ありがとうございます、何もございません」と返す。
「坊ちゃまこそ、何かお困りのことはございませんか?」
「ない」
「左様ですか。なんでもおっしゃってくださいね」
こんな会話を繰り返すうちにいつしか冬乃からも話しかけてくれるようになった。誰もいないときの目くばせや、小さなやり取りのすべてが特別なもののように思えた。
「坊ちゃま」
ある朝、廊下で呼び声がして、勝市はいつものように振り返った。
だが、冬乃はこちらを見ていない。玄関先で、彼女は兄の勝成を見ていた。
「傘をお持ちくださいませ」
勝成は冬乃をろくに身もせず、「ああ」といって傘を受け取り、去っていく。
勝市はたまらず「おい」と呼びかけていた。近くに他の女中もいたが、構わなかった。
「坊ちゃま。今日も学校ですね、お気をつけて」
「ちがうっ」
どうしてこんなに苛立つのだろう。
「勝市だ。俺のことは、勝市と呼べ」
冬乃はきょとんとしていたが、すぐに美しい顔に笑みを浮かべた。
「はい、勝市様。いってらっしゃいませ。傘をお忘れなく」
心が、きゅうと絞られるように痛んだ。痛いはずなのに、不思議と嫌ではない……もっと感じていたくなる甘い痛みだった。
兄の勝成が高等学校へ通い出してすぐ、父が許嫁を見つけてきた。卒業し次第、すぐ祝言を挙げるのだという。
その日の食卓は祝いの空気に満ち、父は上機嫌で会社の跡取りとはなんたるかを解きはじめ、兄はだまってそれを聞いていた。
勝市は父の高説を聞き流しながら、頭の中では「祝言」というものについてぐるぐると考えを巡らせていた。
兄は跡取りだから許嫁が決められているが、自分は次男で、親から特になんの期待もされていない。――いや、「学校で優秀な成績を修め、良い会社に勤めよ」という暗黙の教えがあるが、それ以外は勝市の自由であるはずだ。
――大人になったら、冬乃を嫁に迎えよう。
それはあまりにも素晴らしい思いつきだった。
冬乃は人に弱みを見せない。屋敷で一番親しいはずの自分にさえ見せてくれないのだからよほど隠したがりなのか、人に甘えるということを知らないのだろう。
ならば、自分が良人になれば。彼女はこの胸で安心して泣くことができるのではないか。
そう思ったらいてもたってもいられず、勝市はその晩から寝る間も惜しんで猛勉強をはじめた。
まず、社会のエリートであるサラリーマンを目指す。だが、ただのサラリーマンに甘んじていては冬乃の良人は務まらない。彼女を幸せにするにはやはり起業して成功する以外に道はない。川島家など目じゃないくらい、会社も家も大きくしてやろう。子どもは三人ほど作って、全員平等に、公平に、一人だけ泣く子など出ないように目を掛けてやるのだ。
勝市は、この大きな計画をひとりで抱え続けることができなかった。
十三歳の春、勝市は中学から帰ると、庭先で洗濯ものを取り込んでいた冬乃に宣言した。
「冬乃。おまえ、俺と結婚しろ」
「冬乃は女のくせに意固地だからな。俺の前で存分に泣かせてやる」
なぜこんな言い方になってしまったのか。大人になった今、とても後悔している。
彼女はそのとき一瞬、泣きそうな目つきになっていた。だが当時の自分はそれを気のせいだと思った。冬乃はすぐに、あの美しい微笑をたたえていたから。
「坊ちゃまが、そのままのお気持ちをお持ちでしたら。冬乃は従います」
その翌年。
勝市は中学校の研修旅行で、帝都へ二泊した。女学生のあいだでモダンな半襟が流行っていると耳にしたので、冬乃のために綺麗な半襟を奮発して買い、屋敷に帰ったのだが。
「おい、冬乃はどこだ」
屋敷の裏手で野菜を洗っていた女中に声をかけると、女中は眠たげな目を上げた。
「冬乃なら、嫁いでいきましたけど」
「……は?」
「急な縁談だったみたいで、親戚から手紙をもらった瞬間に荷造りして、とっとと出て行きましたよ。奥様がいい箪笥を贈られるそうで」
「……は?」
「華の十七歳ですからねえ、まああの器量ですし、もらい手もありますわねえて話です。ほら坊ちゃん、どいてください、まだ洗わにゃならない野菜があるんですから」
「待て、どういうことだ! 縁談なんて……そんなことあり得るもんか!」
「ははあ、坊ちゃん、あの子に懐いてましたものねえ、でもあの子は女中ですよ、坊ちゃんが気に掛けるような子じゃありません」
「黙れ!」
どうして。どうして。どうして……約束したはずなのに。宣言したじゃないか。従いますと、言ってくれたじゃないか。なのになぜ、俺を置いて、ひとりで勝手に得体の知れない男の元へ行ったんだ!
そいつのそばではおまえは泣けるのか? 弱みを見せられるのか? 俺じゃなくてもいいのか?
俺は、冬乃がよかったのに。
土産の半襟は、炉の中へ投げ入れた。
ふゆの、という文字を忘れようとした。
忘れるために、脳へひたすら勉学をつめこんだ。寝ると夢にみるから、寝ずに本を読み、机で寝落ちた。
何を食べても味がしない。学年で一位の成績をとっても嬉しくない。心が鉛になったようだった。
彼女の思い出が色濃く残る川島の家からできるだけ早く離れたくて、学業の傍ら必死に勤め先を探した。
三ツ木製鉄の社長に出会わなかったら。そこで製鉄業というものの魅力を教えられなかったら。自分は今、どんなに荒んだ心で生きていただろう。
きっと、町の中を怯えながら歩く冬乃の姿にも気がつかなかったに違いない。




