第五話 誘拐、そして追走①
その日、勝市は珍しく仕事をはやく終え、帰宅したのは午後六時頃だった。出迎えたアサに上着と帽子を託して玄関を上がったところで、廊下に設置された電話が鳴り響く。
「はいはい」
アサが電話を取り、すぐに顔を上げた。
「旦那様、北村ナミ江様からお電話だそうですが」
勝市は無言で廊下を急ぎ、受話器を取った。
「繋いでください」
電話交換手の返事のあとに、「ああ、川島様」と切羽詰まったようなナミ江の声が響いた。
「はい。どうされましたか」
「冬乃が……冬乃がいないんです」
「――え?」
「今日は私、朝から用事で出かけておりおまして……海子が買い物へ出ているあいだ、冬乃はひとりだったのですが……海子が帰ったとき、家の中はもぬけの空で、彼女の使っていた巾着が落ちていて……今の今まで、なんの音沙汰もなく……」
頭から血の気が引いていく。
冬乃が一人で外へ出るなど考えられない。あるとすれば、どうしても出なければならない出来事があった場合だが、それから音沙汰が無いとなると……
勝市は冷えた指先で受話器を持ち直し、平静を保とうとした。
「落ち着いてください。警察に報せましたか」
「ええ、もちろん……ですが相手にされませんでした。妙な手紙が置いてあったせいですわ」
「手紙?」
「ええ、蚯蚓ののたくったような汚い字で……ああ、ごめんなさい、もう時間が……郵便局からかけているもので」
「すぐにそちらへ参ります」
勝市は受話器を投げるように電話を切り、玄関へ向かった。
「旦那様? またお出になるのですか?」
「ああ、北村邸に。上着と帽子を」
アサがすぐに取ってきてくれたので、羽織るのもそこそこに玄関から飛び出す。
車庫では邦義が車を磨いているところだった。勝市の顔を見て目を丸くする。
「邦義、すまない、車を出してくれ」
「会社に忘れ物でもなさいましたか」
「違う、北村邸だ」
主人の切迫した物言いに、さしもの邦義も嫌味など言えず、すぐさま車へ乗り込んだ。
北村邸の空気は、まるで通夜のように重苦しかった。
勝市を出迎えたナミ江の顔は暗く沈み、海子は目を真っ赤に泣きはらしている。彼女は白と薄桃色の端切れを縫い合わせた小さな巾着を見せてきた。
「私が帰ったとき、これが落ちていましたの。お姉さまがお使いになっているものですわ」
「それから、これが……例の手紙です」
ナミ江がくしゃくしゃになったわら半紙を見せてくる。そこには鉛筆で汚らしい文字が書き殴られていた。
〈ご主人様がたへ。これまでどうもお世話になりました。私は旦那様に養っていただいた恩を返すため、旦那様の召使いとなります。さようなら。 冬乃より〉
「こんな汚らしい字、お姉さまの文字じゃありませんわ!」
「それに彼女がこんな稚拙な文章を書くはずありません。どう見ても偽物です。ですから私は、冬乃が誘拐されたのではと……」
勝市は黙って手紙を手に取り、もう一度そこに書かれた言葉に目を通した。
「これは警察には見せましたか」
「もちろんです! この字が冬乃の字とまったく違うことも、冬乃が男性恐怖症で一人じゃ町へ出られないことも話しました。でも警察は手紙を見るなり『よくある使用人の失踪でしょう』『厳しく扱われて逃げ出す女中もいますから』などと言って、全然取り合ってくれなくて……!」
「……」
勝市は手紙の一箇所を指さした。
「この、『旦那様』というのに、お心当たりは」
「わかりません。ですが……」ナミ江は唇を震わせる。「もしかすると、冬乃が以前結婚していた男のことなのではないかと……」
「えっ」海子が驚いたようにナミ江を見る。
「お姉さま、結婚してらしたんですか?」
「そうよ。本人が忘れているようだから、私もあえて何も言わなかったのだけど」
二人の会話が耳に遠のき、代わりに勝市の脳裏にかつての川島家の家人たちの声がよみがえる。
――冬乃なら、嫁に行ったよ。
――いい縁談があったそうでね。親戚からの紹介とかで……こちらからも少しばかり祝儀を出させていいただいたが……
――せいせいするわね、あの子がいなくなって!
――坊ちゃんに媚びるのが上手なんだから、旦那にだっていやらしいほど媚びるわよ、アハハハ……
その七年後、彼女は高いところから転落し、大怪我を負った……
「『養われた恩を返すため』……」つぶやきながら、勝市は眉をひそめた。
この『旦那様』が、冬乃の以前の結婚相手だとして。大怪我を負った冬乃に三行半を突きつけ離縁した男が、なぜ今さら彼女を攫うのか。
五年前、彼女の身に何があったのだろう。旦那とのあいだに何があれば一方的に離縁されるような目に遭うのか。
「わかりました。私が冬乃を捜します」
「探偵を雇われるのですか? それなら私が……」
「いえ。あなた方はできる範囲でこの近辺を捜索してください。目撃情報があるかもしれない」
「川島様」
海子がおずおずと一冊の帳簿を差し出してきた。表紙に〈交換日記〉と書かれている。
「お姉さまの、最後の文が書かれていました。ごめんなさい、何か手がかりがあるかと思って、奥様と一緒に覗いてしまいましたの」
「……いや。感謝する」
勝市は〈交換日記)を受け取り、帽子を目深に被った。残された偽の手紙を手に、玄関を出て車へ戻る。
邦義は勝市の厳しい顔つきを見て、状況を察したようだった。
「冬乃さんを捜索せねばなりませんか」
「ああ。すぐに探偵を雇ってくれ」
「旦那様をお送りし次第、すぐ手配いたします」
車が屋敷へ向かって走り出す。その道中、勝市は帳簿を窓へ向け、月明かりに照らしながら頁に目をこらした。
〈川島様。
先日はわざわざお車を出してくださり、外へ連れ出していただいて本当に有難うございました。あの日のことは、きっと二度と忘れられません。それほど特別な一日になりました。
こんな病を持つわたしが、あんなふうに外で食べたり、お買い物をしたりできる日がくるなんて。過去のわたしが知ったらきっと驚くでしょう。川島様、あなたが邸へいらして、治療を手伝うと言ってくださったから、わたしはこんなにも幸せに満ちています。
思えばわたしは、あなたに助けられてばかりでしたね。わたしがどんなに恐怖に怯えても、あなたはずっと優しい手をさしのべてくださいました。
あなたの妻になったら、きっともっと助けていただくことになるかもしれません。でも、わたしもそれに負けないくらい、あなたをお支えしたいのです。力になりたいのです。邦義様にお伝えしたとおり、たくさん勉めて、できることを増やしたい。あなたの妻に相応しい人になりたい。
あなたの中の「冬乃さん」には遠く及ばないでしょうし、そう思うと少し寂しい気持ちもありますが、それでも、あの日のお出かけの帰り道、わたしはもっとあなたと一緒にいたいと思いました。あなたが望んでくださるならわたしは、あなたの妻になりたいです。あなたのお好きなものをたくさん作りたい。いろんなお話がしたい。お買い物だって、お出かけだって、もっとたくさんしたいのです。
まだ恐怖症は完全には治っていませんが、日々手を尽くして治療に努めています。結婚のお返事までもう少しかかりそうですが、先にわたしの心の内をお伝えさせていただきます。
あなたにそっくりな人をたびたび夢に見るくらい、わたしは、川島様をお慕いしています〉
手が、震える。息が乱れて、どうしようもなく、胸が熱くなって。帳簿の頁に皺が寄るくらい、指先でぎゅうと力を込める。
――その言葉を、十二年前のあの日に聞けたなら。
今ごろあなたは、怪我一つ無く、俺の隣で幸福に笑っていただろうか。
「邦義」
「はい」
「明日の予定はすべて取り消しにしてくれ」
「……正気ですか」
「明日、川島の家へ行く。車を出してほしい」
「……」
邦義の盛大なため息が、寒々しい車内にむなしく響く。
「かしこまりました。社員たちへの言い訳はご自分でなさってくださいね」




