④
その夜。冬乃は女中部屋の文机に〈交換日記〉を広げた。勝市の書いた文に目を通すが、少し覚悟を決めて書いた例の不思議な夢の話は「別に奇妙なことでもなんでもない」と見事に一蹴されてしまった。
(それだけでは説明がつかない気がするけれど……)
少しだけ唇をとがらせつつ、続きを読む。面倒な仕事が立て込んでいたが、無事に解決したこと。ナミ江からお出かけの件を依頼され、当日の行程を考えていたこと。女性は綺麗なものを見るのが好きだろうからと、安直に百貨店を行き先にしてしまったが、もし気に入らなければ正直に教えてほしいという旨が書かれていた。
気に入らない、なんて。そんなことはなかった。目に映る何もかもが新鮮だった。わざわざあんぱん屋に立ち寄ってくれて、おいしい焼きたてパンが食べられた。百貨店の人混みでも、勝市が率先して守ってくれた。彼はいつも自分を気遣ってくれた。優しかった。ずっと胸が高鳴りっぱなしで、どうにかなってしまいそうだった……
文机の上に置かれた小箱へそっと視線を向ける。光沢のある布地の中に鈍色の小鳥が鎮座していた。これと揃いのものは今、眠る海子の右手に握りしめられている。
彼は、自分と海子の関係も大切にしてくれる……
なんてできた人なのだろうと思う。人の上に立つ者はこんなにも心が成熟しているのだ。ますます、自分にはもったいないと感じる。
(それでも、わたしは……)
冬乃は抽斗を開けた。宵闇色の軸に星屑をまぶした美しいペンを握り、冬乃は覚悟を決めて次の頁に文を書いた。
*
「え、な、なんですって?」
翌朝。海子の素っ頓狂な声が台所じゅうに響き渡った。
「お姉さまが、お買い物に!?」
「声が大きいわ……ええ、そう、わたしも思い切って外に出てみようかしらと思って」
「それは……ですが、あの、いろいろと早すぎるのではありませんか……?」
「冬乃さん」
いつの間にそこにいたのか、台所の戸が開いていて、ナミ江が覗き込んでいた。
「海子さんの言うとおりよ、何事も焦ってはいけないわ」
「奥様……」
「い、いつの間に」
「きっと昨日、百貨店に行けたから気が大きくなっているのかもしれないけれど、行き帰りはお車だったでしょう? 自分の足で歩いて帰れる保証はまだないのよ、もしまた気絶するほどの恐怖に見舞われたらどうするの?」
「それは、そうなのですが……」
冬乃はぐっと拳を握りしめ、海子に向かって深々と頭を下げた。
「お願いします。海子さん、お買い物にわたしも一緒に連れ出してください」
「えっえっえっえっ」
海子は両手をあわあわと振り、冬乃の肩をゆさぶった。
「い、いけませんわ、頭をお上げになってくださいっ」
「きっと足手まといになるでしょうし、気も遣わせてしまうと思います。でも、どうしても、昨日の勢いがあるうちに早く病を治してしまいたくて」
「わ、わわわ私だっておおお姉さまとおかおかおかお買い物に行きたいですけれど、けれど……」
喜びと心配とがせめぎあい舌を噛みまくる海子に、冬乃は平身低頭、買い物の付き添いをお願いした。
外へ出れば、「男」がたくさんいる。出店の店主だって男が多い。それでも、なんとか慣れるために。
早く慣れて、彼に返事をするために……
その日から、冬乃は海子と共に、買い出しに出ることにした。
町へ出れば、やはり男の姿が目につく。車を引く者、荷を運ぶ者、スーツのサラリーマン……彼らを見るたび、反射的に体が強ばり足が竦みそうになる。
そんなとき、冬乃は目を閉じて思い出す。百貨店での人混みを。文字通り壁になってくれた勝市や邦義、そして海子の温かな手の感触を……
「お姉さま、海子がここにおりますわ」
今も海子が横にいて、しっかりと手を握ってくれている。
「お姉さまが恐れるような者は近くにおりません。安心して歩いてくださいな」
「ありがとう……」
ゆっくり、一歩ずつ前に進む。海子の知る近道を通り、主婦や女中たちで賑わう市へ出た。
出店が立ち並び、あちこちからひっきりなしに大きな呼び声が聞こえてくる。夫婦で店を構えている者もおり、妻のほうも夫に負けじと声を張り上げ客を呼び込んでいる。その喧噪をじんと耳に受けながら、海子は普段こんなところで買い物をしていたのかとしみじみ思った。
「いらっしゃい海子ちゃん、……おや、その人は……」
野菜売りの男が機嫌良く声をかけてきて、冬乃を不思議そうに見た。冬乃はぎくりと足を止める。
「あ、あの、こちらは私と同じお屋敷に勤めている女中ですの、冬乃さんといって……」
「……っ」
口をぱくぱくさせてみるが、咄嗟に声が出ない。体が熱く、背中に汗がにじんでいた。
「お姉さま、この方、とっても良い方ですのよ、いつもここでお野菜を買ってますの」
「いつもご愛顧いただき誠に有難う存じますってなもんでね、どうですこっちの秋茄子なんて、ほら立派なもんですよ」
「……あ、あの……」
どうにかして声をしぼりだし、巾着を取り出す。
「その秋茄子と……椎茸と……ごぼうを……」
「はいはいまいどあり!」
店主の男は、冬乃の震える声や拙い言葉を聞いても何も言わなかった。陽気な笑顔で品を渡してくれる。冬乃は懸命に手を伸ばし、どうにかこうにか、籠へ入れることができた。
出店を離れ、道に戻りながら、冬乃は茫然とつぶやいた。
「お買い物、できちゃったわ……」
「すごいですわお姉さま、治る日も近いのではありませんこと?」
「そう? 本当に?」
先ほどまで感じていた恐怖が嘘のように消え、期待に胸がぽかぽかと温かくなる。
「わたし……この調子で早く……いろんなことに慣れたいわ」
男が怖くなくなったら。もっといろんなことがひとりでできるようになる。はやくそうなりたかった。待ち遠しかった。
「この調子で、お魚も見に行きましょう」
「賛成です!」
それから、買い出しに出るときは必ず海子と共に出ることにした。
そしてその週の木曜日――冬乃は朝、一人で共有の塵収集所へゴミを出しに行った。そのときたまたま、一足早く役人の男が大八車を引いて収集に来ており、思いっきり鉢合わせてしまったのだが……
「おはようございます」
とその男が明るく挨拶してくれたので、冬乃もつられて「おはようございます」と挨拶を返した。
「こちらも……お願いしますね」
「はいはいどうもー」
冬乃が持ってきたゴミも、ひょいと抱えて車に載せてしまう。
この、ほんの小さなやり取りが、冬乃の胸に大きな自信を宿らせた。
(これ、普通の会話……よね? わたし、ひとりで、知らない殿方とお話したんだわ……!)
少しも怖くなかったといえば嘘になる。けれど、勝市のこと、彼に付き従っていた邦義、八百屋の店主……これまで関わって、怖い目にあわなかった人たちのことを思い出すと、落ち着いていられた。
あの役人の男だって怖い者ではなかった。いたって普通の人間なのだ。恐怖する必要は微塵もない。この経験もまた、冬乃の心に積み重なっていく。
――はやく、勝市に会いたい。
こんなにも自分の心に変化があったことを、彼に伝えたい。「ありがとう」と……「あなたのおかげ」だと言いたかった。
翌日。ナミ江は朝から忙しく食事を掻き込み、すぐに出かける準備を始めてしまった。今日は高名な絵描きが集うサロンに呼ばれているらしく、気合いを入れてめかしこんでいる。帰るのは夕方頃になるらしい。
「今日は私、ぜったい疲れてへろへろになっているから、精のつくものを用意してちょうだいね。牛肉がいいわ、牛肉よ」
そう言い残して、颯爽と出かけていってしまう。
牛肉と指定されたので、新鮮なものを市で買ってこなければならないのだが、今日はあいにくと出入りの薪売りや日用品の業者が来る日なので応対もしなければならない。
結局、今回は海子が午後からひとりで買い物へいき、冬乃が留守番して業者の応対をすることになった。
「薪売りの方は殿方ですわよ。お姉さま、お気をつけてくださいましね」
「大丈夫よ。きっとわたし、平気だわ」
そう言って海子を送り出し、冬乃は業者が来るまでのあいだ、縁側や雨戸を拭きあげていた。
しばらくそうしていると、りん、と呼び鈴を鳴らす音が門のほうから聞こえてきた。
時計を見れば午後三時。だが曇り空のためか陽気は影り、冷たい風が吹き抜けている。冬乃は上着の前をあわせながら門へ急いだ。
「はーい!」
門の外には、ずんぐりとした男が立っていた、背はそれほど高くないが、全体的にがっしりとしていて、浅黒く陽に焼けた肌をしている。頭に傘をかぶったまま顔を伏せているため、表情はよくわからない。
一瞬、足が竦みそうになるが、いつものように心を落ち着かせようとする。
(大丈夫。大丈夫。きっとこの人も怖い人じゃないわ)
そう言い聞かせ、笑みを浮かべながら思い切って声をかける。
「あの……いつもご苦労様です。薪を三束、お願いします」
そう言って巾着袋を取り出した瞬間、男の腕が伸び、まばたきのあいだに手の中から巾着が消えてしまった。
「……えっ?」
見れば男が巾着を広げ、中の金銭を数えている。
「二円五〇銭。……これだけか」
「あ、あの……」
「どうせならもっと持たせてもらっとけよ、相変わらずおまえは愚図でのろまだなァ、冬乃」
――冬乃。
頭の中に突如警報が鳴り響く。無意識にじりっと後ずさった。
「他の家人はいないんだろ。今は一人だよなァ」
男が顔を上げる。
傘の下の影に、小さく眇められた獰猛な眼があった。濃いひげ面で、手足と同じく陽に焼けた頬、こちらを見下ろすときの、下卑た笑い……
かつて無いほどの鋭く激しい痛みが頭を突き抜けていき、冬乃は思わず額をおさえた。
鼓動がばくばくと速く、激しく鳴り響く。脳裏に奇妙な映像が高速で流れては消えていく。
『てめえ! 話を聞いているのか!』
『愚かで間抜けで生きる価値もない私を養っていただきありがとう存じますだろうが!』
背に、腹に、幾度も振り下ろされる拳と足。
無残に散らばった茶碗や小皿、目の前にそびえる太い脛と素足……
いつか見た、夢。
「おまえがいなくなってから大変だったんだぞ、仕事は減るわ家は荒れるわでロクな目に遭わなくってよォ……ようやっと見つけたんだ、こんないい家で贅沢しやがって」
男が門から身を乗り出す。かと思えば門に体重をかけ、あっというまに乗り越えて入ってきてしまった。
「け、警察を、呼びますよ……」
ズキンズキンと痛む頭をおさえながら、ようやく言葉を絞り出す。だが男は「あァ?」とすごみ、冬乃の手首を容赦なく掴んで引っ張り上げた。
「見ない間にずいぶん生意気になりやがって。何様のつもりだてめえ」
「……っ」
頭が割れるように痛い。
この人は、いったい誰なの。
「まさか、俺のことを忘れたわけじゃねぇよなァ……おまえはそんなにも出来損ないだったのか?」
「はな……して」
「谷浦浩児。てめえの夫だろうが」
その瞬間、頭が爆発したかと思った。それほど強い衝撃に頭の中が真っ白になる。
「俺から逃げて勝手に怪我しやがったから離縁してやったけどな……そういやおまえをそれまで養ってやった金を返してもらわにゃ割に合わねえと思ってよォ……だからおまえを迎えに来てやったんだよ」
男はニタリと笑った。
「おまえ、今日から俺の奴隷になれ」
――そうだ。わたしは。
この男の、妻だった……
その瞬間、ナイフでえぐられたような痛みが頭を襲い、冬乃は悲鳴を上げた。だが恐怖に締めつけられほとんど声にならなかった。
助けて。だれか、だれか助けて。
お願い、痛い、こわい、こわい、こわい……!
痛みのあまり、頭が本当に割れてしまったのだろうか。冬乃の閉じた瞼の裏に一瞬、勝市の優しい眼差しが浮かぶ。だがそれは冬乃の知る勝市とは違う。顔つきが幼くて、カラスの雛のように髪を逆立てた、眦の吊り上がったへの字口の……
そこで意識がぷつん、と途切れた。




