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また君に恋い初むる  作者: シュリ


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22/33

「カレイライスにポークカツ……ああっ、お姉さま、アイスミルクもありますわよ! みつ豆も、あっ、レモンクリームも」

「海子さん、おやつは後よ。ご飯を選ばなくちゃ」


 食堂内のがやがやした音にまけじと海子がはしゃぎ、冬乃が苦笑する。その真正面に座った勝市は「別に、甘味も頼んでいいが……」とかしこまった顔で告げた。


「ほらっ、川島様もおっしゃってましてよ」

「すみません、ありがとうございます」

「あなたも好きなものを好きなだけ食べるといい」


 勝市はもう決まった様子で御品書を見ていない。窓のほうへ視線を投げている。


 早めに来たおかげか、並ぶことなく食堂に入れたのは幸運だった。通された座席も窓際で、高階層から見える景色は実に見応えがある。


 間もなく女給が注文を取りにやってきたので、海子が緊張気味に頬を染めつつ手を挙げた。


「わ、私はエビフライランチを。あ、それとアイスミルクも一緒にお願いします」


「いっそ御子様辨当(べんとう)にすればいいのに……」ぼそっと邦義がつぶやく。


「今なんとおっしゃいまして?」

「私は支那そばとシューマイを」

「無視ですの?」


「私は天ぷら定食を」


 勝市が続け、全員の目が自然と冬乃ヘ向けられた。


「わたしは……オムレツをお願いします」

「甘味はいいのか」

「先ほど、あんぱんをいただきましたし……」

「遠慮するな。何か頼め」


「そうですわお姉さま、ほら、お姉さまのお好きなワッフルがありましてよ! 前に奥様が買っていらしたときにお姉さまったらすっごく感動してらしてお客様が来られなくなって余った分を奥様からいただいた時なんて一気に二口で」


「ああ、だめ、勝手にばらしちゃだめ、もうっ」


 冬乃は慌てて海子の口をむぎゅっとふさぎ、半ば自棄(やけ)になりながら「わ、ワッフルをお願いしますっ」と告げた。


 女給が去っていく。足音が食堂の騒音の中へ消えていくあいだも、冬乃は勝市の顔を見られなかった。ナミ江のお土産に年甲斐もなくはしゃぐ姿を想像されたというだけで、なんだかとてもつもなく恥ずかしい。


 それから各々の皿が順繰りに届けられ、四角い卓はあっというまに湯気の立つ食事で埋め尽くされた。冬乃はオムレツを一口食べ、あまりのおいしさに目を見開き、海子のほうを見た。海子もまったく同じ顔をしており、二人で「ふふふふ」とよくわからない笑い声をあげる。


「口に合うか」


 勝市がぶっきらぼうに訊ねる。「はい」「おいしすぎますわっ」と同時に答えが返ってきて、勝市は「そ、そうか」とまた窓側へそそくさと視線をそらした。


「これは家では作れませんわよねえ」

「さすがにできないわ。職人技よ」


 そう口々に感想を言い合い、やがて皿が空になり、甘味を待つだけのちょっとした沈黙が卓上に降りたとき。


「田代冬乃さん」


 邦義が唐突に呼び、冬乃は「はい」と顔をあげた。


「あなたは、社長の縁談を呑むおつもりはありますか」


 横で勝市が茶を噴き出しかけた。冬乃と海子も同時にぎょっと瞠目する。


「あの……それは……」

「待て、邦義。だめだ。冬乃が病を克服……いや、少なくとも俺のことがまったく平気になってから返事をもらうことになっている、と前に説明しただろう」

「それでは遅すぎますよ。呑む気があるのか……せめて呑みたいのか、呑みたくないがどうすることもできず状況に甘んじているのか、それは聞いておいてもいいのでは?」

「そんなこと、今聞く必要はない」

「冬乃さん。どうなのですか。あなたのお心如何ではこちらも先のことを踏まえて動き出さねばなりません。社長ももう婚約者がいていい頃ですし」

「いやいなくていい」


 冬乃は二人のやり取りを聞きながら、何も言うことができずにいた。


 呑みたくない、わけじゃない。むしろこの気持ちは「呑みたい」に傾いている。けれどそれを躊躇わせているのは、病のためというよりも、むしろ……


「まあ、そう簡単には考えられないのが現状でしょうね。いち女中のあなたに社長夫人としての役割が務まるのか、不安でしょうから」

「……」

「聞けばあなたは尋常小学校すら中退している。読み書きに不自由はなくとも教養がなければ社長夫人は務まりますまい。釣り合いが取れず気後れするようであれば今のうちに辞退なさってもよろしいのですよ」

「邦義!」

「邦義さん!」


 勝市と海子の声が同時に響き渡る。食堂内のざわめきが一瞬、わずかに静まった。周囲の視線が一部こちらに向けられる。だがそれを気にも留めず、邦義は冷徹な目を冬乃へ向けていた。


 冬乃は青ざめた顔で静かに匙を置いた。口を開け、だが、言葉が出てこずに目を伏せる。


 教養が無いのは本当のこと。不釣り合いなのも事実だ。邦義はきっと会社に対する忠義が厚く、その未来を憂いているからこそ冬乃を厳しく品定めしているのだろう。


 今の自分に、彼を納得させられるだけの言葉はかけられない。自分がここにいるのは、勝市に縁談を申し込まれている立場だからだ。彼の想い人に似た顔と名前を、たまたま持っているから。


 だが、自分の胸にある、この気持ちは。こんなものを抱えたまま、果たして自分は、彼をあきらめられるのだろうか。


「邦義。おまえはそもそも、俺が社長の座についていることすら未だに納得がいってないんだろう」


 勝市が静かに口を開く。邦義は答えない。


「前社長の遺言がなければおまえは俺を認めていない。そんな俺の縁談相手にいったい何を求めるというんだ」


「納得はもう、いたしました。だからこそです。私は真に社長に相応しい相手をと――」

「ほう。後から俺を認めたんだな。なら冬乃のことも後になって『納得がいった』と言うぞ、おまえは」


 そのときはじめて、邦義の険しい顔が虚を突かれたように間延びした。


「冬乃が漢字を覚えたのも、料理や洗濯、客のもてなしの作法を覚えたのも尋常小を中退してからだ。寝る間も惜しんで文字を書き、手を冷や水にかじかませて覚えたことを口にしながら必死に家事の実践をしていた。冬乃が社長夫人になっても同様に――」


「そうなんですか?」


 冬乃は間の抜けた声をあげ、すぐにはっと言い繕った。


「あ、あの、すみません、わたし、記憶がないもので……」

「あ」


 勝市は露骨に「しまった」という顔をした。


「いや、あー、そうじゃないかと思ったんだ。北村女史からあなたの生まれの話は聞いていたからつまり女中としての仕事はいつ覚えたのかといったらそれは奉公に出てからの話であろうし」


 恐ろしく早口で言い置いてから、勝市は咳払いした。それから居住まいを正し、真面目な顔つきになる。


「邦義。おまえは何か勘違いをしているようだが、俺は別段、血筋や家柄が良いわけじゃない。実家は地道な貿易商売で成り上がっただけの商家で、その前は小売り業をしていたいち庶民だ。当然、俺の親類には今も女中や丁稚奉公をしている者や、女工ないしは炭鉱夫として日銭を稼いでいる者もいる。女中から妻を選んだところで何が変わろうか」


「……それは」

「俺が誰を妻に望もうが誰にも文句を言われる筋合いはない。それはおまえも例外じゃないぞ」

「……」


 邦義が黙りこくる。その沈黙の気まずさが冬乃にも海子にも伝染し、しばし誰も何も言わなかった。


 そのうち女給が甘味の皿を持ってきたので、皆ひとまず各々匙を取った。だが、冬乃だけは匙を置き、「一言、よろしいでしょうか」と口にした。

 三人の視線を一斉に浴びて緊張に頬を染めつつも、冬乃は邦義をまっすぐに見据える。


「もしも縁談をお受けすることになった場合、わたしは……社長である川島様をお支えできますよう日々勉めに励み、妻として誠心誠意お仕えいたします。記憶を喪失しているので定かではありませんが、きっとこれまでのわたしも、そのように生きてきたはずですから」


 海子が「お姉さま……」と両手で頬を覆い、勝市は耳を真っ赤に染めて窓ガラスに穴でも空いているかのようにじっと見つめている。そんな両者の反応を目にした邦義は「はあ……」と投げやりな視線を天井へ注いだ。


「まあ、本当にそうなったら、是非ともそうしてください。お願いしますよ」

「はい」


 はっきりと返事をしてから、冬乃はようやく、海子のただならぬ視線に気づいた。


「どうしたの?」

「え、えっと……」


 海子は冬乃に小さく耳打ちした。


「お姉さま、まるでもう結婚なさる前提みたいなおっしゃり方で……」


 冬乃は先ほど邦義に告げた己の発言を振り返り、「あ」と口元をおさえた。それから黙って匙を取り、ジャムをワッフルにぬりたくると黙々と口に放り込んでいった。


 それからどのように百貨店を出て、帰路についたのか、冬乃はあまり覚えていない。勝市が「せっかくだから街をぐるりと回るか」などと言っていろいろと景色を見せてくれたおかげで、海子が「あっ活動写真館が!」「あっジンタが聞こえますわよ!」などとはしゃぎ、自分はそれにひたすら相づちを打つだけでよかった。他のことは考えずに済んだのだ。


 北村邸に着いたのは、午後三時にさしかかるころだった。車が停まり、勝市が扉を開けてくれる。てっきりまた手をさしのべられるかと思って、緊張にぐっと息を止めた。


 だが、勝市は扉を両手に持ったまま、


「私がここを支えておくから、手すり代わりにしてくれ」


 と告げた。その淡々とした物言いに、冬乃はなぜか、小さな棘に触れたかのように胸がちくりと痛むのを感じた。だが結局何も言葉にできず、「はい」と扉を支えに車から降りる。


「冬乃」


 勝市の呼ぶ声。顔を上げ、冬乃ははっと息をつめる。


 頭上の木々から差す柔らかな木漏れ日が彼の瞳に光を宿し、温かくて優しいまなざしが向けられているのを感じた。


「これを……」


 彼は手にしていた〈交換日記〉を差し出す。冬乃はおずおずとそれを受け取った。


「よければ今日の感想を聞かせてくれ」

「……はい」

「あなたの返事次第では、次もまた計画するつもりだ」


 勝市はそう言って一歩下がり、帽子を取って邸のほうへ低頭した。見ればナミ江が玄関口から出てくるところだった。


「まあまあみなさん、おかえりなさい」


 ナミ江がにこにこと駆けよってくる。いつもの絵の具まみれのエプロン姿ではなく、よそ行きの絹織物を着ている。彼女は彼女でどこかへ遊びに出かけてきたらしい。


「今日はこの子たちを連れ出してくださり、ありがとうございました」

「いえ。こちらも楽しませていただきました」


 勝市は慇懃に応え、「では」と再び低頭し、車へ戻っていった。


 彼が車に乗り込み、生温かなエンジンが噴き上がり、車が去っていくまで……冬乃はまばたきもせず、じっとその様を見つめていた。


 脳裏には、最後に見た、彼の光る眼差しがよみがえって離れない。


(好き……)


 その途端、胸の奥から頭にかけてずきりと強い痛みが駆け抜けた。思わずその両方をおさえる。


「どうしたの?」

「お姉さま!?」


 ナミ江と海子が両側から腕や背をさすってくれる。だが冬乃は「わかりません……」と言うしかなかった。


 彼を、好きと、明確に言葉にしただけで。胸にすとんと、その感情を据えただけで。まるでそれが悪いことのように、叶わぬことのように、胸が針で突かれるように痛み、それが頭に伝染する。


 頭にかかる靄の中から、大事な何かが浮き上がろうとしている。それに手を伸ばしたいのに、触れようと近づけば近づくほど頭の痛みが強くなり、意識が遠のきそうになる。


「好き……なのに」


 気づけば両の目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。


「好きになっては、いけない……」

「え?」ナミ江が聞き返す。「どういうこと?」


 もう何もわからない。頭の靄が次第に濃くなり、またすべてを覆い尽くそうとしてくる。瞼をとじれば最後に見た勝市の眼差しが優しい光をまとって離れない。


「好きになってはいけないって、どういうことですの?」


 海子も訊ねてくる。やがて冬乃は顔を上げ、二、三度まばたきを繰り返した。


「……わたし、いったい何を……」


 ナミ江も海子は、そっと顔を見合わせた。


 雲が風に流れ、一瞬、頭上の陽を覆い隠す。庭の木々がざわざわと不吉な音を立て、三人は追い立てられるようにして屋敷の中へ入っていった。


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