②
この日、冬乃は朝からとてつもなく緊張していた。
ナミ江から「次の週末、あなたたちと川島さんとでお出かけしてらっしゃい」と宣告されてから一週間。あっという間にこの日が来てしまった。
「きゃあああお姉さま、とってもとってもお美しいですわ~!」
外行きの着物に身を包んだ冬乃を見て、海子が黄色い声をあげる。
冬乃がまとうのは青磁の色を渋めに染め、柿色の花びらを散らした銘仙である。髪に留めた赤い簪と、同色の帯紐がよく映える。
「海子さんだってとってもかわいいわ、ハイカラな女学生さんみたいよ」
「は、ハイカラですか? 本当ですの? 私、女学生に見えますか?」
海子は両手を広げてひらひらと舞う。こちらは赤と黒と白が入り混ざった、町中でもとびきり目を惹きそうなモダン柄である。海子の黄色いリボンともよく合う柄で、雑誌に載っていそうな出で立ちだ。
二人の着物はナミ江のおさがりである。「もう着ない着物がたくさんあるから、二人に好きなのあげるわ!」と箪笥の中を大放出したのだ。海子は眼を輝かせて漁りまくり、冬乃は遠慮しつつも、眼だけは着物の海を泳いでいた。
各々、この日のために丈を合わせて縫い直し、こうして今、ぴったりと身にまとえているのである。
「銘仙! 憧れの銘仙ですわ……夢みたい」
鏡に向かってうっとりしている海子をにこにこと眺めていると、ナミ江が女中部屋までやってきて、「ちょっと」と冬乃を手招きした。
「何かご用でしょうか」
「私の部屋まで来てちょうだい」
おっかなびっくり階段を上がり、ナミ江の私室へついていくと、部屋の隅の鏡台の前に、火鉢で赤く熱したコテが置かれていた。
「髪、巻いたことはあるかしら。記憶は喪失していても、体が覚えているなんてこと、ある?」
冬乃は困惑気味にコテを手に取ったが、ややあって首を横に振った。
「いえ……もしかしたら使ったことがないかもしれません」
「そう。じゃ、私が巻いてあげるわ」
「えっ、そんな、奥様のお手を煩わせるわけには」
「いいから座ってちょうだい。これくらいさせてよ」
ナミ江は有無を言わさず冬乃を座らせ、真っ赤なコテを手にとって、冬乃の前髪を手ですくった。
「今日は大事な日でしょう」
「……ええ、それは……まあ……」
「はっきりしないわね。あなた、川島さんのこと、かなり好きになってるでしょう?」
冬乃はぎくりと肩をこわばらせた。
「なぜそのような……」
「見ていればわかるわ。海子さんがヤキモチ妬くくらい、あなたはずっと彼を意識してるもの。最初はあんなに怖がってたのに」
恥ずかしさのあまり顔を上げられない。この女主人にはすべてお見通しだったのだ。
「何も、今日で人生を決めなさいとは言わないわ。外へ出てみたら思いのほか怖くて気絶してしまうかもしれないし」
「……」
「うそ、うそよ。そんなことにはならないわ。でも、たとえなっても気にしないでいいの。少しずつ前に進むものだから。だからね、今日は余計なことは考えないで、慕っている殿方とのお出かけを楽しみなさいな。世は自由戀愛、惚れた腫れたを確かめるのも人生において大切よ」
はい、とナミ江に肩を押され、顔を上げる。鏡の向こうには、前髪を優雅に波打たせ、耳へ流した冬乃の姿があった。
「耳隠しですか? 最近はやりの……!」
「ふふ。あなた、なんでも似合うわねえ。羨ましいわ。さ、これで殿方を驚かせてさしあげましょ」
「奥様……!」冬乃は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。こんなことまでしていただいて……」
「やめてちょうだい、私はただやりたいことをやっただけよ。たまにはお姉さんぶりたかっただけなの」
ナミ江と共に階段を降り、ちょうど階下にいた海子の視線が冬乃の髪をとらえ、耳をつんざくような真っ黄色い声が家中にびきわたったのだが、それは割愛すべきだろう。
そうして、約束の十時になり――
北村邸の前に、車のエンジン音が鳴り響いた。
「まあまあ川島様、わざわざお車を出していただいて」
「そのほうが何かと安全かと思いましたので」
玄関先で、勝市とナミ江が対峙している。その少し後ろに冬乃と海子が控えていた。
勝市の隣には、黒と灰色の着物に身を包んだ男が立っている。見事なまでに無表情だ。海子は彼の顔を見てすぐ「あっ」と声をあげたが、すぐに口をつぐんだ。それからというもの、何やら警戒するような目を向け続けている。
「今日は邦義が車を運転します。私の秘書兼付き人のようなものです。……冬乃、邦義は平気か?」
突然ふられ、冬乃は困惑しつつも「ええ……」と言うほかなかった。だが、平気かと聞かれたら、平気ではない。なにせ初対面の男である。
そのとき冬乃は、ふと内心で首をかしげた。今日はなぜだか、いつも以上に勝市と目が合わない。日頃から目が合うとよく逸らされてしまうけれど、今日は合うことすらないのだ。
「ご安心を。私は常に後ろへ控えておりますゆえ」邦義の慇懃な声。「あなたに不用意に近づくことなどありません」
冬乃は「お気遣い痛み入ります」と返した。勝市の信頼している部下だ。何も恐れることはない……そう言い聞かせて。
ナミ江に見送られ、冬乃と海子は連れだって勝市の車へ乗り込んだ。海子はつやつやした後部座席をおっかなびっくり撫で、「ひゃあ……」と小さくつぶやいていた。
「車は揺れるからな。気分が悪くなればすぐに言ってくれ」
前の座席から勝市が声をかける。となりでは邦義がハンドルを握っている。爆発するかのようなエンジン音が吹き上がり、車は動きだした。
「動きました、動きましたわよお姉さまっ! ほら、道行く人が振り返りますわ! お金持ちっていいですわねえ」
邦義がちらりと勝市を見る。勝市はこほんと咳をして、
「私が買ったわけではない」
と早口でつぶやいた。
「え、ちがいますの?」
「先代社長から譲り受けたものだ」
「ああ、この間のお話にあった……」
海子の声がみるみる落胆していく。邦義がますます眉をひそめた。
しばらく車を走らせていると、
「あっ、お姉さま、あんぱんですわ! あんぱんのお店ですわよ!」
と海子が興奮気味に叫んだ。
「本当ね、奥様がときどき買ってくださるけれど、いつも本当においしいわよね」
「お姉さま、あんぱんお好きですものね! 焼きたてはきっと、もっとおいしいのでしょうねえ~」
「邦義、道を戻ってくれ」
勝市がぶっきらぼうに言い放った。
「なぜですか」
「あんぱんが食べたくなった」
「急ですね」
「悪いか」
「いいえ」
邦義は脇道に入り、そこから後ろへ下がって、来た道を引き返していく。
そして道沿いに車を停めると、二人同時に外へ降り立った。そして、両側から後部座席の扉を開ける。
「どうぞ」
邦義がそっけなく告げ、手を差し出す。海子は少しつんとした顔でその手を取り、慎重に車を降りた。そしてすぐにハッと後ろを振り返る。
「お姉さまは――」
冬乃はというと、勝市の差し出した手を前に、顔をこわばらせていた。
勝市の手が、目の前にある。その手に自ら触れたことは、これまで一度もなかった……ごくりと喉を鳴らし、そろそろと手を持ち上げる。
「怖いか」
勝市がつぶやく。その目は不自然なほど明後日の方向を向いていた。
「い、いえ、怖くはありません」
「声が震えているようだが」
「これはその……緊張で」
心臓が壊れそうなほど速く高鳴って、痛い。それがたった一つの感情のためだとわかっていても、恥ずかしさと緊張で、手を取るのを躊躇ってしまう。
(ただ手を取るだけ、取るだけなのに!)
「お姉さま、どうぞお手を」
いつの間にか海子が割り込み、強引に手をさしのべてきた。
「殿方はご遠慮くださいまし。お姉さまが震えてらっしゃいますわ」
「君はずいぶんと遠慮がなくなったな……」
勝市がぶつくさと手を引っ込める。冬乃はなんだか申し訳ない気持ちで海子の手を取った。
勝市が目の前の店舗を指さす。
「少し、小腹を満たしていかないか」
「え、よろしいのですか?」
「ああ」
勝市が率先して店先へ向かう。店頭にいた店主に注文を伝え、まもなく盆に四つのあんぱんを載せた丁稚がやってくる。
「今なら焼きたてですよ!」
若い丁稚の声に、冬乃と海子は嬉しそうに顔を見合わせた。
「邦義、食べないのか」
勝市があんぱんを邦義に寄越す。彼は「いえ……」と口ごもったが、「食べないのなら私、いただきますわよ」という海子の言葉を聞くやいなや「いただきます」とすばやくパンを手に取った。
冬乃は看板の横に立ち、その場でパンを割った。丸いしっとりとしたパン生地の中にぎっしりとこしあんが詰められている。一口囓れば、なんと贅沢な味の協奏だろう。甘味と香ばしさがこれでもかと鼻をつきぬけていく。
「焼きたてってこんなにおいしいんですのね!」海子が歓声を上げる。冬乃も「ええ、本当に……」と目を細めてつぶやき、ふと、勝市と視線がかち合った。
「ありがとうございます、川島様」
心からの感謝を込めて伝えると、勝市は目に見えて動揺し、「ああ……」と目をそらした。
――まただ。なぜ彼は今日、目を合わせてくれないのだろう。
あんぱんで小さな休息をはさみ、一行はふたたび車に乗った。
向かう先がどこか。それは、事前にナミ江を通して聞いている。
「はあ……百貨店……ついに私も百貨店デビューの日が来ましたのね……」
海子は胸の前に手を組み、夢見心地でつぶやいているが、対して冬乃は体をかちこちに強ばらせていた。
百貨店に行った記憶はない。だが、雑誌や新聞で時折写真が載るので雰囲気だけはなんとなく知っている。百貨というだけあって古今東西様々な品物が並び、その品々を目当てにたくさんの客が連日押し寄せているという……
「お姉さま、お顔の色がすぐれませんわ」
海子が顔をのぞきこんでくる。冬乃は慌てて口もとに笑みを浮かべた。
「そうかしら」
「緊張してらっしゃいますの?」
「……平気よ」
もしも百貨店の人混みに慣れることが出来たら。それは、病の克服に大きな前進をもたらすのではないか。
だから、怖がってはいけない。海子がそばにいる。それに、勝市も……
百貨店へ到着し、冬乃は緊張気味にその巨大な建物を見上げていた。
「大丈夫か」
すぐ傍で勝市の声がした。
「え、ええ……」
ああ、また。彼はこちらを見ていない。
勝市は冬乃と同様にぽかんと建物を見上げている海子を手招いた。
「ここからは人通りが多い。冬乃の手を握っていてくれ」
「も、もちろんですわっ!」
海子はふんすと意気込み、冬乃の手を取った。
「さ、お姉さま、ご安心くださいませ、海子が傍におりますから! 中へ入りましょう!」
勝市が先導し、海子が続き、彼女に手を取られて冬乃が歩く。そのしんがりを邦義が黙ってついて歩いた。
週末ということもあり、百貨店の中は人でごった返していた。あちらこちらに身なりのいい紳士の姿がある。冬乃の顔から血の気が引き、指先が冷たくなっていく。
「お姉さま、お姉さま」
海子の声。勝市もこちらを振り返る。
「大丈夫か」
「……はい」
「大丈夫でないのでは?」
後ろで邦義がため息交じりに言った。
「いきなりこんな人混みにいらっしゃるべきではありませんでしたね。やはり家屋から出るのは得策ではなかったかと」
「い、いえ、わたしは……わたしは平気です」
せっかく、ここまで来られたのに。
いや、それも勝市の車のおかげだ。もしもこれが市電なら。乗合自動車なら。自分はここまで来ることができただろうか。
やはり自分には、まだお出かけなんて早かったのだろうか……
「三階に婦人服売り場がある」
ふいに勝市がつぶやくように言った。
「綺麗な洋服や反物がそろっているから、せめてそれだけでも見て帰るといい。私と邦義が壁になるから」
「壁に……」
「私は人より身の丈がある方だから、私に隠れていればいい。壁を押しのけてまであなたに近づく者はいない」
「そうですわ、それに、お姉さまに故意に近づくような悪漢は、この海子が蹴散らしてみせますわよ!」
海子が拳をにぎりしめる。ナミ江がいたら「はしたない」と言いそうなわんぱくな動きをしながら、にこっと歯を見せて笑った。
ああ、こんなにも、守ろうとしてくれる人たちがいる。勇気づけてくれる人たちがいる。それなのに、自分ばかりが怖じ気づいているなんて……
「ありがとうございます。私……三階へ行きたいです」
「なら、あのエスカレーターに乗ろう」
勝市が玄関ホールの向こうにある、巨大な動く階段を差した。冬乃も海子も、「あ、あれが」と声をあげる。
「新聞や雑誌で目にしましたわ! あれが自動階段……!」
「何度か乗れば飽きますよ。ただの動く階段ですから」
邦義の無機質な言葉には、その場の誰も応じなかった。
勝市を先頭に、冬乃が立ち、海子と固く手をつなぎながら自動階段に乗る。階段の形をした木製の乗り物は少し不安定な揺れを見せながらも、ゆっくりと階上へ運んでくれた。
「すごいわ……」
冬乃は今、密かに憧れていた文明の利器の上に自分がいることを、半ば信じられずにいた。横で海子がはしゃぎ、邦義にため息をつかれているのを、上から勝市が目を細めて見守っている。
そうして三階の婦人服売り場へつくと、冬乃と海子は「まあ……!」と歓声を上げた。
階いっぱいにきらびやかな洋服が、反物が、たくさん掛けられ、畳まれ、整然と並んでいる。すぐ目の前の舞台には、ちょうちん袖とレエスのドレスを着たマネキン人形が優雅にたたずんでいた。
「お洋服をお探しでしょうか?」
突然声をかけられ、海子が「ひゃいっ」と妙な返事をした。見れば制服に身を包んだ女子店員がにこにこと立っている。
「あ、い、いえ、その……」
たちまち顔を真っ赤にする海子の横で、冬乃は「実は今日、はじめてここに来たんです」と話すと、店員は「まあ」と大袈裟に喜んだ。
「もしよろしければご案内いたしますよ。三階は洋服と和服に別れておりまして、装飾品も合わせて販売しておりますから――」
女子店員につかまってしまった二人を一歩後ろから眺めつつ、邦義はぼそっと「旦那様の身なりのせいで目をつけられてしまいましたね」と告げた。
「別に、冬乃が『欲しい』と言うならなんでも買うが」
「余計に連れ回されそうですね」
「……それは困るな」
勝市は「失礼」と店員のおしゃべりに割って入った。
「目的のものがありますので、今日はこれで。またお訊ねします」
行こう、と二人をうながす。販売員は残念そうに「いつでもお訊ねくださいませ!」と声を掛けてきた。
「私、もう目が回りそうですわ……」
「回ってもらっては困る。君には冬乃を守る使命があるのだから」
「そうですわね、私、ぴんぴんしております」
冬乃は思わず噴き出した。少し、緊張がとけた気がする。
三階は圧倒的に女性客の割合が高い。殿方もいるにはいるが、大半が女性の付き添いだ。
「品物がたくさんあって、すべてがきらきらしていて、なんだかわたしも目が回りそうだわ……」
冬乃がそうつぶやくと、前を歩いていた勝市が唐突にこちらを振り返った。
「何か、二人に揃いの物を買おう」
「……えっ?」
「ええっ?」
冬乃も海子も思わず立ち止まる。
「いえ、そんな、お気を使わないでください。眺められるだけで十分、楽しんでおりますから」
「せっかく来たんだ。何か言ってくれ」
「な、何かって……」
「お姉さまと、おそろい……お姉さまと……おそろい……⁉︎」
つぶやく海子の目が、マネキン人形を照らす舞台照明のようにきらきらと輝きを帯びていく。
「ほ、本当にいただけるんですの?」
「そんな、川島様、百貨店でなんて高価なところで……」
「高価なものだと気が引けるのか?」
勝市が真面目な顔で問うので、冬乃も真剣にうなずいた。
「わたし、女中ですもの。普段は身につけられませんし……もったいなくて」
「た、たしかに……お洋服や高価な絹織物なんて着る機会がありませんわ」
海子もがっくりとうなだれる。現実を思い出した二人の耳に、買い物を楽しむ女性客の笑い声がさんざめき、なんだか惨めな空気になった。
「まあ、そうでしょうね。女中に百貨店の品など不釣り合いでしょう」
邦義がぼそりと言った。その冷たい一言に、うなだれていた海子がキッと顔を上げる。
「何ですのあなた、おっしゃりたいことがあるならはっきりお言いになったら」
「そのままですが。もう一度繰り返しましょうか」
「やめろ邦義。二人は今日、俺の客人なんだぞ」
勝市は冬乃と海子へ向き直り、「私の秘書が大変な無礼を」と改まった。
だが、彼の言うとおりだ、と冬乃は内心でうなだれる。自分は女中。おまけに一人では満足に外出もできない心の病がある。高望みをしてはいけない。
それにしても、勝市は簡単に「買う」と申し出たが、やはり彼は地位と財のある立場の人間なのだと改めて思い知らされる。仮に縁談を飲んだとして、果たして彼の妻としてふさわしい者となれるのか、甚だ疑問だった。
四人でしばらく三階を見て回ったが、モダンで鮮烈な刺繍や色合いの服に気圧され、冬乃は目をしばたたかせるので精いっぱいだった。
だが陳列棚のとある一角を通りかかったとき、冬乃はふと小さな品物に目を留めた。
「あれ、帯留めかしら? かわいらしいわ」
「どれですの?」
冬乃の指示した先、緋毛氈の敷かれた棚の上に、小さな鈍色の彫り物が置かれている。小鳥が向き合うような形のそれは、確かに帯留めのようだった。
「まあ本当に……! こんなもかわいらしいのもありますのねえ」
その辺り一帯は「装身具」の看板がかかげられていて、主に若い女性が集っているようだった。目を輝かせている二人の後ろから勝市がじっと覗き込み、
「ちょうど二つあるな。買おう」
と当然のように言った。
「あ、いえ、ただかわいらしいなと……見ているだけですから」
「銀や珊瑚でもなし、鉄工芸品だろう。あなたが今着ているものにもじゅうぶん合うと思うが」
冬乃と海子は互いの着物を見、もう一度帯留めを見た。小さな小鳥たちはつぶらな瞳で二人をじっと見上げている。
「お姉さま。ここは川島様に甘えてしまいましょう」
「えっ……」
「お姉さま、おっしゃってたでしょう。いつか私とお出かけがしたいって! もう一度こうして、お洒落をして外を歩きましょうよ。そのときはこのおそろいの帯留めをして」
「そんな望みがあるのなら尚更だ」
勝市は片手を挙げて販売員を呼んだ。冬乃は遠慮がちに「よろしいのですか……?」と訊ねる。
「ああ。元々今日は何か買ってやる予定だった。ここで決めてくれなければ延々館内を歩き回るところだったな」
「それは……」
冬乃は申し訳ない気持ちになりつつも、かわいらしい小鳥の帯留めを見下ろして、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。こんなに素敵なものをいただいて」
「いや、……別に」
勝市はふいと顔をそむけた。
間もなく販売員から勝市が帯留めを買い取り、綺麗に包装された品が二人の手に行き渡った。
「お買い上げ、ありがとうございます!」
見れば最初に二人に目をつけたあの販売員だった。もしかしてこの会計は彼女の販売実績になるのかしらと、冬乃はいらぬことを考えてしまう。
「冬乃。疲れたか」
勝市がぶっきらぼうに訊ねてきた。
「いえ。平気です」
「そうか。なら……他の階も見てみるか」
「はい、是非」
「あの……」
海子が小さく片手を挙げる。一行はぴたりと立ち止まった。
「どうしたの、海子さん」
「あの……私、その……ご不浄に……」
「ああ」
冬乃はきょろきょろと辺りを見回す。だが案内の表示は見当たらない。
「どこかしら……」
「確か下の階だったか。邦義、案内してやってくれ」
「……」
邦義はどことなく嫌そうな顔で海子を見下ろした。海子も負けじとじっとりした目を向ける。
四人で自動階段を降り、その先の洒落た西洋風のベンチで海子と邦義を待つことになった。
だがベンチには一人分しか空きがない。勝市は当然のように「座ってくれ」とうながした。
「いけませんわ。川島様がお掛けください」
「婦人を立たせる男などいるものか。早く座ってくれ」
勝市は一歩も譲らない。仕方なく、冬乃がベンチに腰掛けた。
周囲のわいわい楽しげに話す声が耳に大きく響く。何か話すことはないだろうかと、冬乃は頭を巡らせるが思いつかない。
勝市は仏頂面の眉間にますます皺を寄せて立っている。冬乃は余計に焦り、何か話題をとあちこちに視線をさまよわせた。
そのときふと、向かい側の陳列棚が目に入った。大きく『玩具」と看板が張り出されている。
鮮やかに色づけされたブリキの車や飛行機、楽器を模したものが並べられ、照明の光を受けてつやつやと照り輝いている。親に手を引かれた子どもがそれらを指さし、何事か懸命に訴えかけているのがほほえましかった。
「最近のおもちゃはすごく綺麗ですね。私の子ども時代は木彫りのおもちゃばかりでしたわ」
「ああ……」
勝市も目を上げ、そしてややバツの悪そうに、
「あれはおそらく……ウチの品だ」
と控えめにつぶやいた。
「えっ? あ、そうなのですか?」
冬乃はもう一度興味津々に棚を見つめた。
「すごいですわね……こんなふうに百貨店に並べられているなんて」
「別に、ちょっと売れた物にはすぐ唾をつけたがるのが百貨店だ、そうすごいことでも」
「すごいことです。その『ちょっと』へこぎ着けるまでがきっとすごく大変なことなんですもの」
冬乃は目を伏せ、膝の上で組んだ手元を見つめた。
「そんな会社を背負われている方と、縁談なんて……とても、成立する気がしません」
――ああ、自分はいったい何を言っているのだろう。
でも、一度こぼれだした言葉は止まらない。
「わたしは、女中です。生まれ育った家も小さな金物屋で……尋常小学校も中退して、それ以降の記憶はなく……そんなわたしが、企業を背負って立つお方のそばにいるなんて、想像がつきませんわ。とても釣り合いません」
じめじめした言葉が次々に出てきて、自分でも嫌になってしまう。せっかく外へ連れ出してくれた人に、自分はなんて暗いことを口にしているのだろう。
勝市は今、どんな顔をしているのか。彼はきっとこちらを見ていないだろう。やはり、彼の中の「冬乃」でなければ不釣り合いなのではないか。見てくれが似ているだけでは駄目なのではないか……そんな思いが胸にこみあげてしまう。
「想像、してみたのか」
思いもしなかった言葉が降ってきて、冬乃は思わず顔を上げた。勝市の切れ長の目が、じっとこちらを見て……慌てたように逸らされた。
「想像……してみましたけれど、すぐにやめました。不釣り合いですもの」
「邦義の言葉を気にしているのなら、すぐに忘れてくれ。あいつは頭が固い。物事を柔軟にとらえられない奴だ」
「でも、おっしゃるとおりだと思います。わたしでは……」
「あいつの言葉は気にするな。私はあなたに縁談を申し込んだ。その事実は変わらない」
「それは、本心からですか?」
冬乃は急くように続けた。
「本心……?」
「あなたのお探しの方とわたしが似ていて、だからお選びになったんでしょうけれど、でも、やはりわたしでは代わりになれないのではありませんか」
「ちょっと待て、何の話をしているんだ」
「わたしでは、あなたの『冬乃』さんにはなれません」
勝市がぎょっと目を見開く。その目がしばし、上を向き、横を向き、やがて冬乃の言葉をじわじわと呑み込んでいった。
「……そう、か。そういうことになっている……のか」
「え?」
「いや。あー、その、違う。いや、違わないんだが、違う……私はあなたに、代わりを申し込んだわけじゃない」
「そうなのですか……? では、なぜ今日、わたしと目を合わせてくださらないのですか」
「目……?」
途端に勝市の耳がじわじわと赤くなっていった。いつもは堂々と伸びている背を丸め、「あー」とか「しまった」などと、ブツブツつぶやいている。
なんだか、いつもの威圧的な雰囲気がまるで無い。
「誤解だ……目は……その、直視が……」
「え?」
「……きゅ、急に、髪型を変えるから……」
とうとう自棄になったのか、勝市は早口で言い終えると帽子を目深にかぶってそっぽを向いてしまった。
――髪型を変えたから、直視できなかった。
彼の言葉を脳内で反芻するごとに、冬乃もじわじわと頬をそめていく。
(どういう……こと? 言葉通りに……受け取っていいの?)
「お待たせいたしました」
無機質な声が聞こえ、二人ともはっと居住まいを正す。気づけばそこに、邦義と、何やら疲れ果てた様子の海子がいた。
「人がたくさんいましたの、もう荒波を泳ぐようでしたわ……お待たせしてしまってごめんなさい」
「いや」勝市はすっと背筋を伸ばし、自動階段を指した。「食堂へ行こう。腹が空いただろう」
「え、食堂に? よろしいのですか?」
海子がまたしても目を輝かせ、嬉しそうに後へ続く。あんぱんの件から続いて、すっかり懐いてしまったようであった。
「なんて単純な人だ……」
ぼそりと言った邦義の言葉も、冬乃の耳には届いていなかった。冬乃はまだほんのり朱に染まった顔で、耳隠しに巻いた髪を指先でいじっていた。




